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[暮らしっ句]春の雨[俳句鑑賞]

景色を朧(おぼろ)にし気持ち湿らせる春の雨
しかし、耳を澄ませば ところどころにコントラスト
今回は、そんな「対」を集めてみました

 止みさうで止まぬ一日 春の雨  稲畑汀子
 降りつのることなき春の雨 止みぬ  稲畑汀子

 小雨続き、明日の予報も雨。しかし、そんな長雨も気がつけば止んでいたと。静かにそこに現れ、ここに居着くつもりかと思っていたら、いつのまにか立ち退いていた…… わたしが云うと居候のイメージになってしまいますが、今は今しかないわけで、そう思うと愛し……
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 遠くからきたといふのに 春の雨  富沢敏子
 竹林に 春の雨音 聴いてをり  野口光江

「遠くからきたといふのに……」 こんな経験は誰しもあるかと。古刹を訪れたのに生憎の雨。だいたいそういう場所は、結構、歩かねばならなかったりするわけで、やはり愚痴が出る。

 しかし、着いてみれば…… そうです。他に客はほとんどおらず貸し切り状態。かそけき音にまで浸ることが出来た。
 思えば、人でごった返す古刹名勝なんて本来の佇まいにはほど遠いわけで、すごい幸運だったわけですね。人生にもそんな一面がありそう。今のブラックは先で反転する。そうなるよう、もう少し……
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 仰ぎ見る 阿弥陀三尊 春の雨  与川やよい
 極楽も地獄も見えず 春の雨  瀧青佳

 一方は「阿弥陀三尊」にまみえ、一方は「極楽も地獄も見えず」。同じ春の雨に接しても何んたる違いかと。一見すると、そんなふうに感じられますが、見直すと両句には近いものがあるようです。

「極楽も地獄もない」の言葉だけ見ると物騒ですが、「阿弥陀三尊」と並べると似てる気がしませんか? その言葉の深意が「極楽も地獄も意識せずに済む境地」であるなら、それって「大安心」であり「佛」なんですよ。
 後の句一句だけを見てると気づかなかったと思いますが、並べるとそんなことが読み取れました。
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 わたくしの壊れる音か 春の雨  ことり
 夜の薬 ゆるやかに効く 春の雨  十文字慶子

「わたくし」というのが、かわいらしい~ 気づきましたか? あらたまった言葉遣いで、猫を被っている自分を表したわけですね。
「わたくしの壊れる」というのは、取り澄ました自分を維持するのが難しいという怖れ(不安感)と、いっそのこと本性を現したい! という願望のようです。
「壊れる」という物騒な言葉があるので、はじめは自死衝動をほのめかしているのかと思いましたが、そういう深刻なことではないようです。

 その句が後の句とどう関係するのか?

 後の句にも「壊れる」が潜んでいると思えたのです。しみじみとした薬への感謝が伝わってきますから。
 痛み止めにせよ、アレルギーが出たときのかゆみ止めにせよ、そりゃあ、当座はありがたいですよ。でも、普通は治れば忘れます。ある意味、それが健康の証。しみじみとした感謝から推察されるのは、その薬が欠かせないという状態。「夜」とありますから、毎晩なのでしょう。
 不治の病とは限りませんが、薬に尋常ならざる感謝の念がある状態というのは「壊れている」といっても差し支えがないと思います。

 二つの句を「壊れている」というワードで見比べますと、こんなコントラスが浮かび上がってきます。「壊れる前」と「壊れた後」、「不安」と「安心」……
 一見すると危なっかしい前の句は、まだ「壊れる前」なんですよね。それに対して、おだやかに思える後の句の方が「壊れた後」。
 前者は自分の傾きを意識しており、いっそのこと倒れてしまいたいと思っているわけですが、まだ倒れてはいない。それに対して後者は少なくとも一度は倒れてしまって、今は薬に支えられているという状態。今は安定しているけれども、すでに自力では立ち直れないほど。
 ところが、心理状態は前者が「不安」で後者が「安らぎ」なんです。
 抽象的なことを云ったようですが、自分の経験を話すと、歳をとって最近、ラクになりました。実感です。何かを達成した安らぎではなくて、単に「終わってる年齢」になっただけ。若い人で云えば、病気になったから頑張りようがなくて、ようやく一息つけたようなもの。でも、そこに安らぎがあったりする。
 現在、思い悩んでいる人の苦しみを軽視するわけではありませんが、「不安」があるところにはまだ「可能性」「希望」「チャンス」があるのではないでしょうか。
 一方、「あきらめ」によってもたらされた「平穏」は「麻酔」のようなもので……、目を覚まさないと行けませんね! 次の章を生きないと~

 ちょっと話が重くなってしまいました。最後は昇華を目指して……
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 それとなく問ふ消息も 春の雨  稲畑汀子
 消息の遅れて届く 春の雨  稲畑汀子

「消息」というくらいですから、相手はどこでどうしているのかもはっきりしない。あそこでこうしてるらしいよ……という風の噂が十年も前のことだったりする。それはでも普通のこと。焦点が当てられているのは、それを問う声もまたか細いという点。
 年配者にはわかる感覚かと思います。場合によってはすでに他界しているかもしれない。重病とか貧困もかなり厳しい現実です。消息が定かでない人を捜し出しても「元気そうで良かった」となる可能性は高くはない。最悪、知らない方がよかった、となるかもしれません。
 そんなことを思うと声をかけることに神経質にならざるを得ません。返信のプレッシャーを与えないような細心の注意が必要。それでも、投函したそばから不安になります。
 しかし、どうやらこの時の心配は杞憂に終わったようです。返事が届いた!
 もしかしたら、両句とも「春の雨」ですから、返信は一年後のことだったかもしれません。しかし、届いた。もう封を開けなくても泣ける。「困っている」という内容だったら嫌だななんて思いは消し飛んでいる。
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 人生いろいろありますが、いずれすべては「消息」に
 肉体が土に還った時、心に居場所があるとすれば
それは誰かの胸の中


出典 俳誌のサロン 歳時記 春の雨 
春の雨
ttp://www.haisi.com/saijiki/harunoame1.htm


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