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去勢と避妊

子犬を迎えた飼い主が、まず直面する課題として、「去勢・避妊(手術)をどうするか」が挙げられます。去勢・避妊とは、生殖に必要な部位を切除あるいはその他の方法でその機能を廃絶することと定義され、去勢という用語はオス犬のそれに使用され、メス犬の場合は避妊と言います。オス・メス共通の言葉としては不妊(手術)もありますが去勢・避妊と言うほうが一般的です。英語では、去勢・避妊が”Neuter”(ニューター)あるいは”Desex”(ディセックス)と表現され、特に避妊は”Spay”(スペイ)と言われることがあります。

具体的な術式は、去勢はオス犬に全身麻酔をかけて、陰嚢の頭側を(停留精巣の場合は、それが位置している鼠径部や腹部)切開し、中の睾丸(精巣)を押し出して切除します。メス犬の避妊手術は二種類あります。卵巣と子宮を同時に摘出する「卵巣子宮摘出術」(OVH)と卵巣のみを摘出する「卵巣摘出術」(OVE)です。「卵巣子宮摘出術」は子宮も除去するため将来に渡り子宮疾患(子宮蓄膿症など)の恐れがなくなるものの、切開部位が大きいので手術中の長時間の麻酔や出血、術後の尿失禁のリスクがあり、犬への負担が大きくなります。「卵巣摘出術」は卵巣のみを摘出し子宮自体には手を付けないことに加え、腹腔鏡下でも実施できるため侵襲性が低く、犬の体への負担も小さくなります。また、子宮を残しても、卵巣の摘出にともない性ホルモンが遮断されると、子宮は徐々に退縮しその機能を喪失するため、術後に子宮疾患の恐れはありません。「卵巣摘出術」(避妊) 後に子宮蓄膿症に罹患したという話を聞くことがありますが、これは卵巣を完全に取り切れなかったこと、すなわち手術の失敗によるもので「卵巣摘出術」自体に瑕疵があるわけではありません。(よって、手術の成否は術者の経験や技量に負うところ大きい) 日本では、万一、卵巣を取り残した場合でも子宮疾患の発症リスクを下げる「卵巣子宮摘出術」が推奨されています。因みに、アメリカでは「卵巣子宮摘出術」が、ヨーロッパでは「卵巣摘出術」が広く実施されているようです。

飼い犬の去勢・避妊については、そのメリット・デメリットすなわち功罪について色々と議論がなされてきました。様々な意見があり、飼い主は言うに及ばず獣医師の間でも統一した見解があるわけではありません。事実、去勢・避妊を行うことはアメリカではほぼ常識ですが、ヨーロッパでは行わないことが一般的と言われています。少しウェブを検索してもまさに議論百出で、飼い犬の去勢・避妊を控えた飼い主が判断に迷うことも少なからずあると思われます。本稿では、去勢・避妊の功罪を新たな異なる視点から解説していきたいと思います。

最初におさらいですが、従来から挙げられている去勢・避妊の主なメリットは下記のとおりです。個々に検討していきます。

生殖器に関わる病気のリスクが減る
(オス) 精巣腫瘍、前立腺肥大、肛門周囲腺腫、会陰ヘルニア
(メス) 乳腺腫瘍、子宮蓄膿症、子宮内膜炎、卵巣腫瘍

除去する生殖器それ自体に関わる疾患は言うに及ばす、性ホルモンが影響する疾患も予防できることはメリットと言うより去勢・避妊の目的の一つです。正に鉄板のメリットとも言えるでしょう。

この中のメス犬の乳腺腫瘍は半分が悪性と言われており、もし避妊によってその発症リスクが減らせれば大きなメリットです。確かに、素人目にも「性ホルモンを遮断してしまえば、その影響を受けている乳腺が活動することもなくなるのだから腫瘍は減る」という考えは当然のように映ります。また、プロである獣医師が良く口にするのは、初回発情前に避妊すれば乳腺腫瘍の相対的な発症リスク(避妊群の発症率/未避妊群の発症率)は、ほぼゼロ(0.5%)になり、2回目の発情まででも8%に留まるため、早期避妊の乳腺腫瘍予防効果は絶大であるというものです。

しかしながら、メス犬の避妊(実施時期を含めて)と乳腺腫瘍の発症リスクとの関連性は、実のところ、まだよく分かっていません。前述の獣医師の知見の元となる論文は、1969年発表と古く、有用性に疑義があるため参考にならないという考えが最近の趨勢です。実際、これまで発表されたメス犬の避妊と乳腺腫瘍の発症リスク低減に関する多数の研究を、系統的に再検証したイギリス小動物学会(British Small Animal Veterinary Association)に発表された論文において、この研究結果が検証例の一つに挙げられています。そこでは、臨床研究に必須な「コントロール」と「対象群」の設定が不十分で直接比較できない、相対リスクの計算に明確性を欠いている、統計学的区間推定がなされていない、などの問題が指摘されています。このイギリス小動物学会の論文は「公表されている(多数の)研究結果には、限られた証拠しか利用されておらず偏った見方が生じるリスクがあるため、避妊が乳腺腫瘍のリスクを軽減する、また避妊時の年齢が(乳腺腫瘍の発症に)影響を与えるということを証明するには弱いと判断され、確固たる自信を持って避妊を推奨するに足る適切な根拠とはならない」と結んでいます。

(興味のある方はこちらを参照ください)
W. Beauvais, et al. (2012) The effect of neutering on the risk of mammary tumours in dogs – a systematic review

発情によるストレスの低減 (性的欲求が満たされないことによるイラつきをなくせる)

「オスは交尾したくてもできない」「発情時のメスは食欲減退や落ち着きが無くなることがある」などが具体的なストレス例として挙げられることが多いですが、これらは犬の行動などを観察した人間が判断することで、犬が本当にストレスを感じているかどうかは分かりません。犬は、あるがままに受け入れているということもあります。どちらかと言うと、飼い主の不安やストレスを解消できると言った方が良いのかもしれません。

統計上、寿命が伸びる

これは2013年にアメリカでの発表された論文にあります。7万頭余の犬を、死亡時に去勢・避妊されていたか/いないかで二つのグループに分け、死亡時の年齢を比較したものです。論文によると、去勢・避妊済みだった犬の平均寿命は9.4歳だったのに対して未済の犬のそれは7.9歳であり、去勢・避妊よってオスの平均寿命は13.8%、メスのそれは26.3%延びていたということです。ただし、論文では、去勢・避妊の実施時期および交配の有無・回数が不明で、死亡時に去勢・避妊していたかどうかで分類、統計処理を行っており、去勢・避妊が寿命に与えた影響・因果関係について十分な検証がなされていません。

(興味のある方はこちらを参照ください)
Jessica M. Hoffman, et al. (2013) Reproductive Capability Is Associated with Lifespan and Cause of Death in Companion Dogs

(オス) 飼い主の望まない行動(マーキング、マウンティング、徘徊など)の抑制や攻撃性の低下

犬の行動に大きな影響を与えるものは環境、飼養、躾・訓練であって、去勢によって抑制できるとする考え方は疑問です。(私の犬友が飼っているオス犬は殆ど未去勢ですが、このような行動の悩みを聞いたことがありません) また、去勢によってオス犬の攻撃性が低下するというのを裏付けるデータや科学的研究はありません。

(メス) 発情時の出血の処理をしなくてよい (ドッグラン、ペンション、カフェへ手軽に行ける)

私などは、メスの飼養に当たって発情(ヒート)時の世話は食事や排泄のそれと同様、当然と受け入れていました。確かに、大型犬は発情時には、かなりの量の出血があるので、オムツなどが必要になり余計な手間や費用がかかります。超大型犬となると、市販されているオムツもないので、雑巾を持って後を付け回して一々処理しなければなりません。なるほど、これはメリットかもしれません。(なお、犬では生涯に渡り卵巣から性ホルモンの分泌が続きますので、出血をともなう発情は一生なくなることはありません。いわゆる人間で言う閉経は犬にはありません)

(メス) 望まない妊娠を防げる

これはメリットと言えるのか疑問です。そもそも飼い犬の妊娠を望まないのであれば、それを防ぐ飼養環境を用意するのは飼い主の責務です。たとえ外飼いであっても、飼い犬が予期せず妊娠してしまうようでは、犬を飼う資格はありません


次に一般的に言われているデメリットを挙げて考えてみます。

交配ができなくなる

交配しないことを決めている飼い主にとっては、デメリットでもなんでもなく、ただの前提です。去勢・避妊しまえば、「将来、気が変わって飼い犬の子孫を残したいと思っても、できないので後悔する」ということがデメリットということなのでしょう。しかし、全ての飼い主に当てはまることではないので、去勢・避妊のデメリットとして一般化するには違和感があります。

全身麻酔や外科手術によるリスク

去勢・避妊手術は全身麻酔下で行われるので、麻酔自体の死亡リスクがあります。また、軽度ではあるものの、術後の合併症(炎症、胃腸管の不調、排尿障害など)も指摘されています。

ただし、これらのリスクは手術にまつわるリスクであって、去勢・避妊のリスクとは関係ありません。去勢・避妊手術は健康な犬の体にメスを入れるのですから、それをリスクの一つに挙げたくなる気持ちも分からないではありませんが、論点がズレています。

太りやすくなる

去勢・避妊により活動レベルとエネルギー要求量が低下するため、犬は太りやすくなると言われています。この原因として性ホルモンの遮断がホルモンバランスを崩し(具体的には糖の代謝を調整するインスリンと摂食を抑制するレプチンに影響を与え)、肥満を誘発するとの理論もありますが正確なことは不明です。いずれにせよ、去勢・避妊により犬が肥満傾向となることは間違いないようです。とは言うものの、体重管理は去勢・避妊の有無に関係なく飼い主の責任ですので、多少、飼養で余計に気を配ることがあるかもしれませんが、太りやすくなることを積極的なデメリットとして挙げるのは如何なものかと思います。


こうして、メリット・デメリットを一つずつ検討してみると、メリットに比べデメリットは、こじつけが多く説得性に欠けるような気がします。実際、「犬の去勢・避妊に悪いことは一切ない」と言う獣医師は多いですし、中には「犬も家畜なのだから、交配しないのであれば去勢・避妊するのは当然」とうそぶく猛者もいます。また、犬の保護団体に関係する人々は100%、去勢・避妊の賛成・推進派です。

動物医療の最前線にいる前者は、生殖器に関わる疾患の治療過程で犬や飼い主の苦痛や治療の限界を肌身で感じている人々なので、「それらの疾患が予防できるのであれば積極的に予防すべし」という考え方は理解できます。また、家畜とは「生殖が人の管理下にあり、野生群から遺伝的に隔離された動物」と定義されますので、「交配しないのであれば去勢・避妊するのは当然」という意見は間違ってはいません。

殺処分をできる限り減らし適切な飼養環境にない犬を減らそうと日々奮闘している後者は、その目的達成のためには保護犬を集団として減らしていかねばならず、去勢・避妊により無秩序な繁殖を減らすことが必須と考える人たちです。したがって、保護団体から譲渡される犬は例外なく去勢・避妊済みです。たとえ去勢・避妊をしていない子犬の譲り受けても、飼い主となる人は犬が適齢になったら去勢・避妊を行なわなければなりません(譲渡の条件です)。


私が最初の犬を飼い始めて避妊・去勢を考えたとき、素朴な疑問を抱きました。本当に「去勢・避妊に悪いことは一切ない」のだろうか。犬の成長期に、ある日突然、強制的に性ホルモンを止めて、生殖器以外の体の成長に本当に影響はないのだろうか。これらの疑問に答えを出してくれる論文を、いくつか目にする機会があったので紹介したいと思います。いずれもアメリカで発表されたものです。


まず、2007年に発表された割と知られた論文です。去勢・避妊のメリットについては先に挙げた医学的なものとあまり変わらないので省きますが、デメリットについて述べられているものは新しい知見が多々あります。主なものを列記します。

去勢・避妊 (オス・メス問わず)

  • 整形外科的な異常をきたすリスクが増大する

  • 成熟(おそらく1歳齢)以前に去勢・避妊すると、骨のガンである骨肉腫のリスクが3倍以上に増加する

  • 心臓の血管肉腫のリスクが増大する (オスで1.6倍、メスで5倍以上)

  • 肥満のリスクが増大する (オスで3倍、メスで1.6~2倍)

  • 甲状腺機能低下症のリスクが3倍になる

  • 加齢性認知機能障害のリスクが増大する

  • ワクチンに対する拒絶反応(副反応)が増大する (オスで27%増、メスで30%増)

去勢 (オスの場合)

  • 尿路ガン、前立腺ガンのリスクが、それぞれ2倍、4倍になる

避妊 (メスの場合)

  • 脾臓の血管肉腫のリスクが2.2倍に増加する

  • 外陰部や膣の皮膚炎、膣炎のリスクが増大する。特に初回発情前に避妊手術をしたメス犬


この中で、「整形外科な異常をきたすリスク」の原因を、論文は次のように説明しています。

幼犬(未成熟な犬)に避妊・去勢(手術)をすると、成長途上にある骨の成長板(骨端線)が、性ホルモンの喪失によりその成長を止める時期が遅くなり、結果として骨が長くなってしまいます。(通常は、骨が遺伝的に決定されている正常な長さに達すると、性ホルモンの働きによって成長板が閉鎖され成長が止まる) つまり、成長期に成長が止まった骨と成長途上にある骨が混在してしまうことになり、正常な骨格形成のバランスが崩れます。よって、犬は不自然な体型になり、関節の運動性や耐久性が悪影響を受ける可能性があります。

5歳半以前に去勢・避妊すると、それ以降に去勢・避妊した犬に比較して、股関節形成不全のリスクが70%増加します。原因として、1歳未満で去勢・避妊を行った結果、後脚を構成する骨の一部が長く伸びて関節の構造に変化をもたらし、股関節形成不全に繋がっている可能性が指摘されています。また、避妊・去勢をすると前十字靭帯を断裂するリスクが2倍に増えます。これは、おそらく肥満とこの不自然な体型に関連しています。加えて、去勢・避妊した犬は、膝蓋骨脱臼のリスクが3.1倍に増加することも判明しています。

(興味のある方はこちらを参照ください)
Laura J. Sanborn (2007) Long-Term Health Risks and Benefits Associated with Spay/Neuter in Dogs


2013年にカリフォルニア大学デービス校で発表された論文では、同学の獣医学教育病院の2000年から2009年の10年間のデータを使い、1歳~8歳のゴールデン・リトリーバー759頭を、1歳未満に去勢・避妊したグループ、1歳以上で去勢・避妊したグループ、未去勢・未避妊グループの三つに分けて、股関節形成不全、前十字靱帯断裂、リンパ腫・血管肉腫・肥満細胞腫の発症を比較しています。(発生率の比較については、全て統計的区間推定を行っています)

股関節形成不全
(要因の一つである肥満については、去勢・避妊による差は認められない)

  • 1歳未満で去勢したオス犬の発症率10%(16/156)は、未去勢のオス犬の5%(7/138)に対して約2倍で有意差が認められる

  • 1歳以上で去勢したオス犬の発症率は3%(2/65)であり、前出の1歳未満で去勢したオス犬のそれ(10%)の1/3弱に過ぎす、同様に有意差が認められる

  • メス犬では3グループ間に発症率の有意差はない

前十字靱帯断裂
(要因の一つである肥満については、去勢・避妊による差は認められない)

  • 未去勢・未避妊のオス・メス犬の発症例は皆無(0/265)で、1歳以上で去勢・避妊したオス・メス犬のそれは1%以下(1/141)

  • 1歳未満で去勢したオス犬の発症率は5%(9/176)、避妊したメス犬は8%(13/169)と増加しており、未去勢・未避妊および1歳以上で去勢・避妊したグループと比べ有意差が認められる

リンパ腫

  • 1歳未満で去勢したオス犬の発生率10%(17/176)は、未去勢のオス犬の3%(5/144)に対して約3倍となり有意差が認められる

  • 未避妊のメス犬の発症率も低いが、1歳未満で避妊したメス犬と比べて有意差はない

血管肉腫

  • 1歳以上で避妊したメス犬の発症率8%(5/68)は、未避妊および1歳未満で避妊したメス犬の2%未満(未避妊: 2/123、1歳未満で避妊: 3/170)に対して約4倍となり、有意差が認められる

  • オス犬では3グループ間に発症率の有意差なし

肥満細胞腫

未避妊のメス犬では発症例はない(0/122)ので発症率は算出できないが、1歳未満で避妊したメス犬の発症率2%(4/172)と1歳以上で避妊した発症率6%(4/70)間には有意差があることを考えると、未避妊と1歳以上で避妊したメス犬の大きな発症差は意義がある


これらの結果について論文では次のように考察しています。

病態生理学的みれば、まず、性ホルモンの欠如によって骨の成長板(骨端線)が不規則に閉鎖され、(後脚を構成する骨の長さがバラつくことにより)股関節形成不全、前十字靭帯断裂などの関節疾患の発生を高める可能性があること。

次に、様々なガンの発生における、性ホルモン喪失の影響は想像より複雑であると考えられること。

1歳以上で避妊したメス犬の性ホルモンの血管肉腫、肥満細胞腫に対する影響は、1歳未満で去勢したオス犬のリンパ腫発生率の増加に対するそれとは対照的で、メス犬の避妊によるエストロゲン(卵胞ホルモンとも呼ばれる女性ホルモン)喪失のタイミングの問題を提起しています。メス犬の場合、初回発情前(1歳未満)に避妊を行えば、腫瘍になる可能性のある細胞がエストロゲンに感作せず、避妊が疾患の発生に影響を及ぼすことはないと考えられます。しかしながら、腫瘍化する細胞は数回の発情周期を通じてエストロゲンに曝露すると潜在的に感作する恐れが生じます。一方で、メス犬は避妊しない限りエストロゲンが分泌され続け、それが保護的に働くため細胞の腫瘍化は抑制されます。つまり、数回の発情周期の後に避妊して、エストロゲンが遮断されその保護がなくなると、(潜在的に)感作した細胞が腫瘍化する可能性が生じることになります。結果として、1歳以上で避妊したメス犬の血管肉腫、肥満細胞腫の発症率は高くなると考えられます。

(興味のある方はこちらを参照ください)
Gretel Torres de la Riva, et al. (2013) Neutering Dogs: Effects on Joint Disorders and Cancers in Golden Retrievers


次は、2014年に発表された、ビズラ(大型のポインター犬種)における、去勢・避妊時の年齢と、腫瘍(リンパ腫、血管肉腫、肥満細胞腫など)および行動障害(雷・音恐怖症、分離不安、攻撃性、咬み癖など)の関係を調査・分析した論文です。2008年にアメリカのビズラ・クラブの後援・資金提供を受けて、ビズラの健康問題を調べるため調査が実施されました。調査はビズラの飼い主に質問票に回答してもらう形を取り、アメリカ(86.7%)のみならず、イギリス(4.0%)、カナダ(3.5%)、オーストラリア(2.6%)から、0~16歳の2,505頭のサンプルが集まりました。それを、「生後6ヶ月未満で去勢・避妊した」グループ(便宜上、幼齢群と称する)、「生後6ヶ月以上1歳未満に去勢・避妊した」グループ(同、若齢群)、「1歳以上で去勢・避妊した」グループ(同、成犬群)、去勢・避妊をしていないグループ(同、未済群)の四つに分け、腫瘍の発生と行動障害のリスクについて分析しています。

結果は次のように報告されています。(発生率の比較については、全て統計的区間推定により有意差が確認されています)

肥満細胞腫、リンパ腫、全てのガン合計の発生率については、オス・メスを問わず去勢・避妊時の年齢に関係なく、去勢・避妊済みの犬は、未済群に比べて高くなっていました。肥満細胞腫の発症率は、未済群に対して、幼齢群で2.8倍、若齢群で2.0倍、成犬群で4.5倍、全ての群の合計では3.5倍に増大していました。リンパ腫の発症率は、未済群に対して、幼齢群で3.5倍、若齢群で3.1倍、成犬群で5.2倍、全ての群の合計では4.3倍で、同様に高くなっていました。また、全てのガン合計では、去勢・避妊時の年齢に関係なく、未済群に対して、オス犬では6.5倍、メス犬では3.6倍でした。去勢・避妊時の年齢別内訳は、オス・メス問わず未済群に対し、幼齢群は3.7倍、若齢群は4.0倍、成犬群は5.7倍でした。

血管肉腫の発症率については、去勢・避妊時の年齢に関係なく、避妊した全ての群のメス犬および成犬群のオス犬で、未済群と比べて高くなっていました。この血管肉腫の分析では、幼齢群のオス犬の発症例がなく当初のグループ分けでは信頼性を欠くとのことで、「1歳未満に去勢・避妊した」グループ(便宜上、幼・若齢群と称する)と成犬群、未済群の三つに再グループ化して比較しています。結果、血管肉腫は犬の性別により発症率が異なることが明らかになりました。メス犬では、未済群に対して幼・若齢群で6.0倍、成犬群で11.5倍、全ての群の合計では9.0倍に増大していました。一方で、オス犬の場合は、未済群に対して、成犬群は5.3倍の発症率となったものの、幼・若齢群および去勢・避妊時の年齢を問わない全ての群の合計では、発症率に差はありませんでした。

この調査では行動障害の発現率についても分析していますので簡単に触れておきます。オス・メスを問わず去勢・避妊時の年齢に関係なく、去勢・避妊済みの犬は、未済群に対して行動障害(雷・音恐怖症、分離不安、攻撃性、咬み癖など)を起こす確率が増大していました。この中で最も頻発する雷・音恐怖症では、未済群に対して幼齢群で3.9倍、若齢群で4.7倍、成犬群で4.0倍、全ての群の合計では4.1倍と高くなっていました。

また、去勢・避妊時の年齢が低ければ低いほど、肥満細胞腫、リンパ腫、血管肉腫、全てのガンを合わせた発症率、および雷・音恐怖症といった行動障害が起きる平均年齢も低くなりました。

(興味のある方はこちらを参照ください)
M. Christine Zink, et al. (2014) Evaluation of the risk and age of onset of cancer and behavioral disorders in gonadectomized Vizslas


去勢・避妊によって性ホルモンを生成する生殖器官が除去されると、ホルモンのバランスが崩れて内分泌代謝異常が起こり、それが原因で、今まで報告されている様々な疾患が発症する可能性も指摘されています。これについて網羅的に述べている2016年の論文を紹介します。

通常、脳の視床下部から性腺刺激ホルモン放出ホルモン(GnRH)というホルモンが分泌されて脳の下垂体を刺激すると、下垂体は黄体形成ホルモン(LH)を分泌します。黄体形成ホルモンの濃度が上昇すると、今度は生殖腺(卵巣や精巣)からのステロイド・ホルモン(オスの場合テストステロン、メスの場合エストロゲンとプロゲステロン)が分泌され、視床下部や下垂体に逆に働きかけ黄体形成ホルモンの産生を抑制します。去勢・避妊により生殖腺を除去すると、この自然な「負のフィードバック(Negative Feedback)」機構が機能しなくなり、黄体形成ホルモンが分泌され続けます。結果として、黄体形成ホルモンは通常の生理的レベルを超えて高濃度のまま体内を循環することになります。

生殖腺を除去した犬の黄体形成ホルモンの濃度は、通常の30倍以上になります。黄体形成ホルモンの主な役割は生殖機能(排卵、黄体形成など)のためのものですが、その受容体は生殖器官に限定されず体全体に存在しています。なぜ非生殖組織にも黄体形成ホルモン受容体が存在するのかは分かっていませんが、それが細胞分裂を誘発し一酸化窒素(フリーラジカル)の放出を刺激する可能性があります。生殖腺除去後、この反応が継続的に促進されることにより、これらの受容体は上方制御され、非生殖組織において、極めて高濃度の黄体形成ホルモンの影響が一段と大きくなります。

したがい、犬の去勢・避妊による生殖腺切除は、高濃度の黄体形成ホルモンによる非生殖組織の機能障害のリスクを増大させることになります。ここで言う機能障害には、肥満、尿失禁、尿路結石、糖尿病、甲状腺機能低下症、股関節形成不全、前十字靱帯断裂、行動障害(雷・音恐怖症、攻撃性など)、認知機能障害、前立腺ガン、移行上皮腺ガン、骨肉腫、血管肉腫、リンパ腫、肥満細胞腫などが含まれます。

(興味のある方はこちらを参照ください)
Khawla Zwida and Michelle Anne Kutzler (2016) Non-Reproductive Long-Term Health Complications of Gonad Removal in Dogs as Well as Possible Causal Relationships with Post-Gonadectomy Elevated Luteinizing Hormone (LH) Concentrations


ここまで、従来とは異なる犬の去勢・避妊のデメリットについて報告された多くの論文のうち、いくつかを概観してきました。いずれも、去勢・避妊は、その実施時期や性別に差はみられるものの、関節疾患、腫瘍(ガン)、行動障害など、長期的に犬の健康を損なうリスクを高めると結論づけています。これに対し、従来の立場をとる去勢・避妊の賛成・推進派は次のように反論します。

  • 去勢・避妊によって関節疾患やガンのリスクが何倍高くなるという数字は耳目を引くが、例証されている疾患の発生には様々な因子が関わっており、一概に去勢・避妊によるものとは言えない。また、中には、そもそも発症自体が稀で数倍と言っても大した影響はない疾患も含まれている

  • 報告されているデメリット(リスク)が事実としても、避妊・去勢による生殖器関連疾患の予防効果はそれを上回る。事実、去勢・避妊した犬の寿命が延びていることは明らかである

  • 調査の中には、使われている統計的手法に問題のあるものも多い

  • 特定の犬種に特化した調査結果が、別の犬種の集団にあてはまるのか疑問である


最後に、疫学的、病態生理学的見地からの調査・研究から離れて、犬の去勢について、極めて情緒的というか主観的な意見を紹介します。2015年に東京の光が丘動物病院グループのスタッフブログに掲載されたもので、「やっぱり考えてほしい、オス犬の去勢デメリット」という投稿の中にある一文です。「性格が変わって飼いやすくなるといわれていますが、裏を返せば男の子らしい猛々しい性格がなくなります。 オスらしさを残したいのであれば、やはりオス犬に去勢手術を施すのは避けた方がいいと思います。」

私はメスの大型犬しか飼ったことはないのですが、避妊しないと2歳を過ぎたあたりからメスらしくしっとりとしてきて、落ち着きが備わり行動も思慮深く(ずる賢く)なると実感しています。成犬になる前に避妊したメス犬は、成犬になっても騒々しく落ち着きがないうえ、無駄吠えが多い(臆病な)印象を受けます。(このような犬を指して、知人曰く「ガチャガチャや」。もっとも飼い主の中には、それはそれで「いつまでも子犬のようで可愛い」と思う人もいるかもしれませんが…) オスはオスらしく、メスはメスらしく、飼いたいのであれば去勢・避妊は避けた方が良いという趣旨の、光が丘動物病院グループのスタッフの方の意見には共感します。


さて、ここまで一万字を超える記事を読んできたあなた、もう飼い犬を「去勢・避妊するか、しないか」決断できましたか。

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