心の中に住み着いた「将棋君」が暴れだす その39

 元奨励会員の筒美が、将棋指しになれなかった自分の人生を振り返り思い出すことを書いています。
※ 最初から読みたい方は、心の中に住み着いた「将棋君」が暴れだすから読むことをおすすめします。 
※ ひとつ前の話→心の中に住み着いた「将棋君」が暴れだす その38

 1回目の転職
 代ゼミに入ってから1か月くらいして様子がわかると、自分は新聞や求人誌の広告で学習塾や予備校の求人を見て履歴書を送るようになった。
 やはり授業をほとんど持たしてもらえないことや、雑用が多いことなどが、予備校講師や学校の教員を目指す自分には向かないと思ったのである。今考えてみると、それはそれで合理的な考え方ではあるが、もう少しいろいろなことを身に付け、代ゼミの様子を観察してから転職を考えてみてもよかったような気もする。
 だが、面接に行っても採用されなかった。
 代ゼミに入ってから非常に短期間で退職しようとしているということを履歴書に正直に書いたのが、最大の原因だと思う。あまりにも短期間で転職しようとしていることを知られて、人格・能力などに問題があると思われたのだろう。そう思うのが普通である。
 当時の塾・予備校は人手不足だったので、代ゼミの職員という経歴を隠して、家庭教師とか塾の非常勤講師のアルバイトをしている、ということにしていたら、採用されたかもしれない。
 「求人に応募する時には、あまりに正直だと損をする」という当たり前の教訓をここで初めて知った。

 代ゼミに入ってから、将棋はまったく指していなかったが、将棋雑誌は時々買って読んでいた。
 当時書店で売られている将棋雑誌は『将棋世界』『近代将棋』『将棋ジャーナル』の3つがあり、それ以外に『週刊将棋』という駅で売っていて週に1回発行されている新聞があった。
 その中で『将棋ジャーナル』は、アマチュア将棋界のことが中心に出ていて、自分が会ったことがあったり指したことがあったりするアマチュア強豪の動向が三誌のなかでは一番よくわかるので、これを購入することが多かった。
 秋頃、『将棋ジャーナル』を読んでいたら、編集部員募集の広告が出ていた。
 自分自身代ゼミで仕事ができない人なので苦戦していたし、前述のように周囲の職員は代ゼミの将来について悲観的な見通しを述べる人が多かった。脱出を試みて、塾・予備校の講師に応募しても採用されない。やはり将棋関係の仕事でないとうまくいかないのかな、という考えが浮かび、これに応募した。
 当時の将棋ジャーナル社の社長兼編集長はYさんで、横浜に事務所があり、飯田橋に取引先の写植屋があった。当時はまだパソコンやDTPが普及していなくて写植屋という職種があったのである。
Yさんから電話で、「仕事の実態を知ってもらうのには、この仕事がいちばんいい」と言われ手伝ったのは、出張校正と呼ばれていた仕事だった。これは、取引先の写植屋の2階にある1室で、打ち出されてきた版下の校正を行う仕事だった。
 採用面接の前に、代ゼミの仕事がない日を利用して1回将棋ジャーナルの仕事を手伝うことで、適性があるかどうか審査されたのだった。
 地味な仕事だったが、真面目にやっていればなんとかできそうだと思ったので、もし採用されたら入社しようと思った。
 その後、Yさんと面接して、将棋ジャーナルに入ることになった。
 面接は居酒屋で酒を飲みながら行われ、「この会社は自分とあなたしかいないんだから、雑誌が売れても売れなくてもすべて二人の責任。一緒にがんばりましょう」と言われ、なんだか非常にやりがいのある仕事のような気がした。

※ 次の話→心の中に住み着いた「将棋君」が暴れだす その40

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?