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楽しい史料のすすめ ~『我衣』(おまけ)~

この記事を書いていてはじめて知ったのですが、加藤曳尾庵先生を主人公とする時代もの推理小説が刊行されていました。ちょっとビックリ。

田原藩のお抱え医師を辞めた後、板橋宿で手習い師匠を務めるかたわら医業を営んでいた頃の曳尾庵先生が怪事件に挑むというお話のようです。
最初の記事にも書きましたが、最近はほんとうにいろいろな「目の付け所」の歴史ものコンテンツが増えましたね。今度、読んでみようかな。

大食い大会レポート

さて、ちょっとした記事を最後にいくつか紹介して『我衣』についてはいったん終えようと思います。まずは文化十四年(1817)三月に開催された「大食い大会」の記事。江戸時代の大食い&大酒飲みの皆さんがどれほどだったのか、見てみましょう。

太平日久しければ、逸民□楽に耽り、はだしの事をぞなしにけり。
兩國柳橋萬八樓にて今とし三月の比、大酒大食の会あり。其連席にて、抜群なる人の分を算ふるに、
酒組
一、三升入盃にて三ぱい 〆九升
 小田原町 堺屋忠藏 丑六十八 
 直に連衆へ一禮を演て踊る。
一、三升入杯にて六ぱい半 〆壹斗九升五合
 芝口 鯉屋理兵衛 丑三十一 
 其儘倒れ程の間休息いたし、茶碗にて水十七はい呑む。
一、五升入の丼にて壹ぱい半 〆七升五合 
 小石川 大阪屋喜左衛門 丑七十二 
 直に罷る。聖堂前の土堤に倒れ、明七ツ時過歸る。
一、五合入の盃にて十一杯 〆五升五合 
 本所石原町 みのや義兵衛 丑五十一
 跡にて飯三ばい、茶九はい。甚九を踊る。(以下略)

『我衣』巻十二 三〇

天下泰平の日々が続くと、庶民は□楽(□は欠字)に耽り「はだし(ママ)の事」などをやるもんだ。(注1)ということで、両国柳橋の料亭茶屋「萬八樓」で大食い大会がありました。(注2)
まず酒の部。小田原町の堺屋忠蔵さん(68)9升 飲んだ後一礼して踊る。
続いて芝口の鯉屋理兵衛さん(31)一斗9升5合 そのまま倒れ、休んだのち茶碗で水を17杯飲む。さらに小石川の喜左衛門さん(72)7升5合 飲んだ後すぐに帰ったけど聖堂前で倒れる、などなど…。
ほんと、よしときなさいよこんなこたぁ……という感じですが、当時は人生50年、70歳は「古来希なり」なんていう時代に、おっさん爺さんの酒豪ぶりが目立ちます。義兵衛さん(51)は飲んだ後で甚九を躍ったとありますが、このあとにも「五大力を唄ひ」とか「東北を謡ひ」なんて参加者の記事も見えます。何か一芸やって見せるのも酒豪ぶりを誇示していたのでしょうか。(注3)
次はお菓子の部。

菓子組
一、饅頭 五十 一、羊羹 七棹 一、薄皮餅 二十 一、茶 十九盃〆
 神田 丸屋勘右衛門 丑五十六
一、饅頭 三十 一、鶯餅 二十 一、松風せんべい 三十枚〆
 八丁堀 いせや清兵衛 丑六十五
 〆跡にて澤あん、香の物丸のまゝ五本。
一、よねまん中 五十 一、鹿の子餅 百 一、茶 五はい〆
 かうじ町 佐野屋彦四郎 丑六十五
一、まん中 三十 一、小落雁 二升ほど 一、よふかん三棹 一、茶 十七盃〆
 千住在  百姓 武八 丑三十七
一、いまさか 三十 一、せんべい二百枚 一、梅干 一升  一、茶十七盃〆
 丸山片町 安達屋新八 丑四十五
一、 あま酒 茶わんにて五十三ばい 一、菜漬 三把 〆
 麻布 龜屋左吉 丑四十一
 餘略

同上

大量の饅頭、羊羹一本丸ごと、薄皮餅、鶯餅、落雁、せんべい、鹿の子、いまさか(美作)餅……私も甘い餅の類やら饅頭なんかは好物ですけどねえ、まーさすがに読んでいるだけで胸やけがしてきますが、こちらも年寄りが活躍しています。
さらに飯の部はというと……。

飯連
常の茶漬茶碗。何れも萬年味噌、茶漬、香の物
一、飯 五十四杯 とうがらし五把
 淺草新堀 和泉屋吉藏 丑七十三
一、飯 六十八杯
 駿河町 萬屋傳之介 丑二十一
一、飯 四十一杯
 小日向 上總屋義右衛門
一、同 五十杯 一、醤油 二合
 三河嶋 三左衛門 丑十七

同上

このあとは「鰻の部」「蕎麦の部」と続きますが省略。もうお腹いっぱい。疫病や飢饉がたびたび発生していた江戸時代ですが、ある時にはあるぜって感じの大食い大会。
江戸はとくに外食産業が隆盛を極めていた町でしたので、こんなこともできたのでしょう。曳尾庵先生は少々あきれていますが、まあ平和って本当にいいものです。
この大食い大会は『兎園小説』第十二集にも記載があり、文献の知名度からそっちの記事の方が有名なのですが、記録に違いがあり『我衣』の方が正確らしいと翻刻本の注記にはあります。

江戸の空を飛ぶ怪物体

最後はUFOのお話。

多紀安長先生の三番目の弟は貞吉殿とて、幼稚より醫をきらゐ儒學の功つもりて一家をなし、(中略)七月十八日の夜、家内の男女三四人連て雨國橋に暑をさけんと、夜行の歸りは九ツ時にや成けん、廣小路も人まばらにして月さへよく照り増りたるに、いがらしが家の上比と覚えし所より心火の如き物飛出て、元柳橋の方へゆらめき行。あれよと見上げたるに、其跡より狩衣着たる人の青馬に乗りを行。 其高さ凡壱丈斗と成り、馬の膝より上は見て蹄のあたり見へず。皆恐怖して目と目を見合せ、忙然たる斗にて、女などは戦栗して宿所に歸りて、其夜は目も合ずと、(以下略)

『我衣』巻十一 六○

多紀安長(注4)氏の弟貞吉さんは儒者として身を立てた方でした。
7月18日の夜、家の者三、四人で涼みに出かけました。広小路には人影もまばらで月が照る夜。その帰り道、真夜中近くでした。彼らは夜空に鬼火のような光が現れ、ゆらゆらと元柳橋の方向へ飛んでいくのを目撃したというのです。しかも、その光の後からは狩衣を着た人が青馬に乗って空中を進んで行ったとか。その大きさは一丈ばかりといいますから約3mほど。見えたのは馬の膝より上だけで蹄のあたりは見えなかったといいます。
一行はすっかり恐れおののき、震えながら家に帰ったというお話し。
そして、この記事のすぐ後にはこんな目撃談が続きます。

○空中を有形のもの、飛行する事、佛説などにはたしかに有りといえり。
先年本郷五丁目の伊せや吉兵衞、物干にて仰向て書寐し、空中をながめ居たるに、其日は誠に晴天にして一點の白雲もなし。 東の方より空中を通行するもの有。其高き事しるべからず。しかれども形はよく見へたり
四足ある獣の尾の方馬の如くにして、畫に見る所の麒麟の如き物ゆふゝとあゆみゆく。 誰ぞ呼て見せん物と思へども傍に人なければ、たゞ己のみ詠居たり。北西の方へ行て漸々に形を見失ひぬ。夫レは廿年以前の事なり。

同上

少し前のこと、本郷五丁目の伊勢屋吉兵衛さんが、雲一つない晴天の日に家の物干しで昼寝をしていたところ、はるか高空を飛行するキリンのようにも見える物体を目撃しました。吉兵衛さんは誰か人を呼ぼうとしましたが、あいにく近くには誰もおらず、ゆうゆうと北西へと飛び去るその物体を見送るしかありませんでした。というお話。
現代の私たちは未確認飛行物体のことをなんとなく「異星人の宇宙船」という認識が刷り込まれていますが、そんな発想のない時代の人々はUFOを見て「馬のような何か」を連想したのかもしれません。(注5)


(注1)「はだしの事」とは意味不詳ですが、文脈から言って褒めちゃいないでしょうね。
(注2)「萬八樓」は船着き場として栄えた両国にあった料亭のひとつで、非常に繁盛した店だったようです。文人の集会所としても知られ、明治まで続いていたといわれます。あるじの名が「万屋八郎兵衛」だったのがその名の由来。
(注3)「甚句(甚九)」は今でもお祭りや相撲で身近に聞きますね。「五大力」は長唄の一曲。「東北」は能の謡曲。
(注4)多紀元簡(1755-1810)のこと。徳川家斉の侍医などを務めた当時の名医。
(注5)古くは『日本書記』や『太平記』にも、空中を飛行する「馬」や異装の人の目撃記事がある。

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