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わたしにとっての「服」

わたしにとって服とは、短期的に見ていまの自分を正しく表現するのに必要なもので、長期的に見ても人生の目標に到達するのに必要な手段なんだと思い直した。
”わたしにとっての「服」” 最後の段落より


服を欲しいと思うことに罪悪感がある。

おしゃれはしなくても死なない。服を買うことは人生においてただの浪費で、無意味なことなんじゃないかって思っていたりする。

必要最低限の服で過ごせる人の欲がないこと。なんて時間やお金を有効的に使える人なんだろうって(めっちゃ)憧れる。

それに引き換え、服ばかり買っているわたしは、表面だけ飾り立てて中身を充実させることにはお金をかけられない。中身スカスカのまま服のテイストだけを変えてなりたい自分になろうとした。

だけど、あれだけ欲しいと思って買った服は一度着れば、クローゼットに並べれば、あっという間に価値を失っていく。

服にかける分のお金を貯金に回すとか、海外旅行の資金にするとか、奨学金の返済に当てるとかすれば、もう少し違った人生だったんじゃないかと思ってみても、もう遅い。

服好きが高じて医療系の仕事から服飾専門学生へ転身、並行してアパレルでバイトなんかもしてみたんだけれど、服を買うことに罪悪感があったわたしは服に囲まれた環境に身を置いても全力でおしゃれできなかった。

月に20万も服に費やすような猛者たちと比べてしまえば中途半端な服好きで、それどころか「もっと自分に興味を持て」と言われるくらい磨きが足りなかった。

アパレルの先輩は服を買う意味を「気やすさや着回しやすさや機能性や値段なんてホントはどうでもよくて、かわいいから買う」と言っていた。

ああ、それでいいのかと罪悪感からほんの少し解放されたのも束の間、それはあなたのその性格があってこその話で、自分には無理だとあきらめた。

結局、服に人生をかけられなかったわたしはまた医療系の仕事へ戻った。その後ミニマリストにはまり、物を持たない人こそ尊いんだとそっちに突っ走ったらば、まあ人生が味気ない。(ミニマリストでも自分の好きなものは無理して捨てないそうだ。)

生活するのに必要なものだけを買って毎日を過ごしていると、好きな服を着てわくわくしていた頃の自分が遠く思えた。でもあれは20代だったし、失恋する前の話だし、コロナでもなかったからって、服を欲する気持ちをなんとか誤魔化してみたりした。

捨てることにエネルギーを注いで2年が経った頃。ピンと来ない服装でショッピングモールに出かけた日、たまたま入った服屋で母が本当に久しぶりに服を買ってくれた。

それを境に、わたしはまた服を買い始めた。そうしたら声が出るようになって、いろいろなことに興味が湧いて、叶えたいことをもう一度追いかけようと思えるようになった。

必要最低限を超えたら娯楽に分類される服。世界が危機に陥ったとき、わりと早めに淘汰されるであろう服。そうなんだけど。そうなんだけど、わたしは季節ごとに、年が変わるたびに、罪悪感を持ちながらも服が欲しい。

でもさ、食べ物にお金をかける人、アウトドアにお金をかける人、推しにお金をかける人なんかもいて、そのなかで服にお金をかけることだけが悪だとは思えない。

わたしは服にお金をかける。かけてしまうと思う。これは自分のなかで服だけでなくいろいろなものに共通することなんだけど、ここまでにしておこうって危なくない辺りでやめてしまうから、これまでなりたいものになれなかった気がしている。

服ばかり買っていたはずなのに、東京に出たら中途半端におしゃれな人止まりだったのも、それが理由なんじゃないか。

自分の欲望を否定せず、服を通してなりたいものに近づいていきたい。

わたしにとって服とは、短期的に見ていまの自分を正しく表現するのに必要なもので、長期的に見ても人生の目標に到達するのに必要な手段なんだと思い直した。

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