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小を選択する時代/The Rise of Small (1)

人類が経験したことのない新しい時代

異次元の世界

「個」の時代を特徴づけるものとして、生きるためのスペックが飛躍的に増強されていることがある。それらは技術革新に支えられ、社会的・経済的なインフラによって成り立っている。機能面で言えば、100年前のどんな大企業が持つキャパシティより大きな力を現代の個人は持っているに違いない。ある計算によれば、スマホと同じ計算能力を40年前に手にするには数十億円が必要だったともいう。人類の歴史の中で、私たちは今、異次元の中に生きている。

まず、コミュニケーションにおける物理的な距離がほとんど感じられなくなった。筆者は先週はインドのイベントで話し、来週は上海の技術大学で講義するが、全て自宅からオンラインで行っている。自分の机に座って、世界中の人たちとリアルタイムで、まるで同じ場所にいるように対話できるのは、やはりすごいことだ。

TOKYO町工場HUBが展開するSHIINA FACTORY(アクセサリー制作)のビジネスでは、北海道から沖縄まで全国各地の作家やクリエイターからのご相談を毎日受けている。情報量が多くなる初回の打ち合わせはZOOMで行い、その後はデザインのやりとりも含めメールで行う。あまりに自然にやりとりできるので、発注者もまるで近所の工房に頼んでいるような感覚になるであろう。

また、資金決済や物流の発達は、国内外の取引リスクを大きく軽減した。遠隔地にある相手との取引は、資金回収が常に心配になる。しかし、今ではケニアの奥地にモノやサービスを売ることさえ、資金回収を気にせずに可能だ。たとえ相手が銀行口座を持たなくとも、M-Pesaというモバイルバンキングを通じたPaypalで先払いをしてもらえる。

日本人にとって外国語は壁が高い。輸出入規制はいまだに複雑で、国によっては外国為替政策の制約もある。感染症対策で、運送関係はまだ難しいところもあるのも事実だ。それでも、国際取引はかつてなく身近なものになった。誰にとっても海外は手に届く、クリックひとつのところにある。

巨大な力を持つようになった「個」

私たちが有形無形の装備にエンパワーされている姿は、イメージ的には、アニメの戦隊ロボットの中で暮らし、生活しているようなものだ。生身の人間としての能力は変わらないが、ロボットと一体になることで、はるかに巨大な力を得ている。あまりに当たり前になっているので、特別な感じは薄れてしまった。しかし、つい数十年前の「夢の世界」が、今や誰もが手の中にも握られている。

「個」の時代とは、主義や思想の違いがもたらしたものではない。高度な技術発展、グローバルなインフラ整備、社会の受容性の変化、経済システムのアップグレードによって、初めて成り立っているものである。その意味でも、人類がいまだかつて経験したことのない新しい時代なのである。

「個」の時代に先立つ社会

大きいことが善である

産業革命以降の人類は、市場拡大と大量生産を目指して突き進んだ。産業革命以前、人類の大半が農村で農業をしていた。工業化が進むと、国や地域によって時期や形態は違うが、工場は大量の労働者を必要とし、農村から都市へ人々の大移動が始まった。農業生産者は工場労働者となり、労働者はその家族とともに消費者となった。都市が大きくなり、経済規模が飛躍的に伸びた。

工業化の時代では、成長は善である。大きいことは善である。成長こそが、人々の生活の豊かさを保障した。松下幸之助の以下の言葉が、それを端的に示す。

産業人の使命は貧乏の克服である。その為には、物資の生産に次ぐ生産を以って、富を増大しなければならない。水道の水は価有る物であるが、乞食が公園の水道水を飲んでも誰にも咎められない。それは量が多く、価格が余りにも安いからである。産業人の使命も、水道の水の如く、物資を無尽蔵にたらしめ、無代に等しい価格で提供する事にある。それによって、人生に幸福を齎し、この世に極楽楽土を建設する事が出来るのである。松下電器の真使命も亦その点に在る。

1932年5月5日、松下電器製作所(当時)の第1回創業記念式での松下幸之助による社主告示

ここにはGrowth(成長)=Well Being(豊かで幸せな生活)の考え方がある。まずは物質的に豊かになることが優先される。豊かさの「最低限」は全体の生活水準が上がると引き上げられる。50年前に贅沢であったことが、今では「最低限」の要件であることもある。今では「持続可能性」という言葉が人口に膾炙しているが、成長を優先する社会経済のあり方は今も昔も変わっていない。

規模こそ全て

一般に社会で目標とされている「成長」とは、基本的には質よりは量である。成長を図る指標としてGDPが使われているのはその証左である。工業化社会にあって大量生産は成長のエンジンである。

大量生産大量消費の時代には、大きくなることが経済的に合理的であり、必要でもある。規模の経済を生かしてコストを下げ、価格競争力をつけて他を圧倒する戦略を取ることが王道だ。

工場を作り、巨大な設備を整え、それを動かす大量の労働者を抱える。マーケティングや営業、組織管理のためのオフイスを持つ必要もある。海外に支店を持ち、現地法人も設立する。こうしたことには莫大なお金が必要となるが、規模の大きさは信用の高さと比例した。大きい方が信用される。大きいことは良いことであった。ニッチという戦い方もあるが、それはいわば弱者の戦略であった。

規模を大きくしながら、効率的であるためには、二つの面を強化する必要がある。ひとつには細かく仕事を分業し、細分化し、各工程での専門性を高めることである。もうひとつはそれらの工程や人材を管理するマネージメント能力を高めることである。この二つが効率的に機能するシステムが最優先とされた。

企業の成長は産業の成長につながり、国の成長に直結するものであったので、社会のあらゆる構造も、教育や福祉に至るまで、そのシステムの効果を最大化するように最適化された。「個」は抗いようもなく、このシステムに取り込まれた。

小さいことは弱いこと

大きいことが善である時代では、規模は序列を示す指標である。小さくあることは序列上の下位の位置であること。誰もが、序列の階段を上がることを目指した。

日本では特にその傾向が強かった。筆者も子供の頃には、「一流大学に入り、一流企業(大企業)に入ること」が人生の成功であると言われ続けた。「鶏口となるも牛後なるなかれ」という言葉もあるが、世間では余程珍しい人か負け犬の遠吠えのようにみなされた。大企業で働く人がエリートであり、失敗しない人が成功であった。失敗する者は、落伍者のレッテルを貼られる。

多様性というのは、水平的にものを見る見方である。序列は垂直的なものの見方である。社会の中で女性の地位は低かった。障害者や性的マイノリティは序列の中にも入っていなかった。序列的な価値観が社会を占めるとき、多様性は生まれない。

このような考え方の根底には、小さいことは弱いことだという認識がある。実際、弱かった。

リソースがないと戦えないのである。何をやるにもコストが高かったからである。ツールがないから人手が必要でなのに、小さくてはコストを賄えない。世間は失敗を許さないので、新しい挑戦は資金的にも社会的にもリスクが高すぎた。

インターネットが普及する前、東京と京都間の通話でさえ高い長距離電話料金を払わなくてはいけなかった。広く宣伝広告するには新聞広告かテレビやラジオのコマーシャル以外は選択肢がなかった。チラシを自分で配るにもデザインや印刷費に大きな支出を覚悟しなくてはならない。

小さいことは弱いこと。それは永遠に続く社会の構造のように考えられた。今もそのように信じている人も多いのかもしれない。

社会構造転換の30年

平成の始まりの段階でも、上記のような状態であった。「個」の時代を迎えた今、何か昭和の遠い記憶のようにも感じるが、つい30年前のことである。

古い社会構造から新しいものへの転換は、必ずしも容易ではなかった。むしろ振り返れば、混乱に次ぐ混乱の時代でもあった。前回は東京の製造業の変転の歴史と現状について書いたが、製造業だけでなく、社会全体としても大きく揺れ動いた30年間であった。

「個」の時代に至るには、代償が必要だった。

つづく。




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