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珍しい名前をつけられた私の人生

名前―――この世に生まれておそらく最初に両親からもらうものであり、ほとんどの人が生涯を共に過ごす、人間にとって大切なもの。私の名前は日本人にしてはとても、とても珍しい。そして今はその自分の珍しい名前を気に入っている。しかし一方で、名前に関していい思い出だけではなく悪い思い出も人一倍経験して今に至っているのも事実だ。今回はそんな中で考えたことを書いていきたいと思う。


私の名前はギリギリまでプライバシーを守りながら言うと、『外国人によくある名前のカタカナ表記』である。英語の教科書でだれもが一度は見たことがあるような名前だ。そして私はハーフでもクオーターでもなんでもなく日本生まれ日本育ちの紛れもない日本人である。今までの人生で自己紹介をする際に舌が絡まるくらい使ってきた受け答えは

①ハーフじゃないんです

②カタカナで書くんです

③いやこれあだ名じゃないです本名なんです

の3本セット。この名前をつけた両親は海外文化や異文化交流が好きだったので、将来自分の娘もグローバルに活躍し豊かな人生を送ってもらいたいという願いと、何のとは言わないがほんの少しのファン心理がかさなってこの名前をつけたらしい。


世の中にはキラキラネームという言葉があるが、私の名前はその定義には微妙に入らないのだと思っている。Wikipediaによると、キラキラネームとは ”一般常識から著しく外れているとされる珍しい名前に対する表現” と定義されている。またあるいは ”常識的に考えがたい名前や、名乗りにない読み方をする名前、カタカナに音を当てはめたような当て字の多い名前” などの説明もあった。英語の読みをカタカナに直してはいるが私の場合『当てはめた』ではなく『素直に表記を変えた』というべきだし、そもそも英語圏において私の名前は常識的ですらあるのだから、私の名前は厳密にはキラキラネームではないのだろう。


とにかく、キラキラネームにしろそうでないにしろ、とにかく珍しい名前の者は子供の時にイジメを受けたり就活で苦労したりする、というイメージがあるのではなかろうか。私も実際に体験した。小学校低学年のころだったと思う、ふと私のクラスメイト達が「日本人なのになんでそんな名前なの?」と無邪気な質問を投げかけてきた。それを発端に、『英語人』というあだ名でよくからかわれたり、ひいては上級生の男の子に廊下ですれ違いざまにいじられたりもするようになった。

今思えば最初の質問なんて心からの子どもらしい無邪気さによるものだっただろうし、英語人とかいう悪口なのかすらわからない謎のあだ名に至っては笑い話の一つであるが、当時の私は他人と違うことを恐れ、恥ずかしく思い、真剣に悩んだ(因みに当時上級生の男の子はなんか怖かった)。名前なんて結局は親のエゴだ、勝手に変な名前を付けられて私がこんなにつらい思いをしているのに親は平気な顔して「気にしないの、素敵な名前だと思って付けたんだから」なんて言う。一生この名前とともに生きていくことに軽く絶望し、将来絶対に改名してやるとまで思っていた。


転機が訪れたのは小学5年生の時。英語圏への海外旅行にて、たくさんの現地の知らない人たちの前に立つ機会があった。そこで私の名前は当然ながらすぐにその場にいた全員に覚えられ、それは楽しい交流ができ、非常に思い出深い経験になった。今でも鮮明に覚えている。大勢の現地人に自分の名前をコールされ続けたこと。本場の発音で名前を呼び、まるで友達のように気さくに話しかけてくれた人々のこと。

それは初めて私が『この名前でよかった』と思った経験だったのである。

いじめられていた時より少しばかり大人になっていたのか、数年前の名前に関するからかいもくだらない事だったなとやっと思えるようにもなっていた。


それから成長と同時に新しいコミュニティも接する人たちの数もぐんと増え、知らない人たちに自己紹介することも当然多くなった私は、その際自分の名前についてむしろ褒めてもらえることが多くなった。かわいいね、かっこいいね、おしゃれだね、等々。大人数の中であったり相手が年配の方であったりしたときには、周りの人よりも格段に速く名前を覚えてもらえる。自分の名前を好きだ、というまでは行かずとも自己紹介のネタとして、自分のチャームポイントとしてとても便利だと感じるようになった。それを最も強く実感したのは大学入学直後、怒涛のサークル新歓シーズン。今までの人生にはない桁違いの人数に自己紹介をしたが、この名前のおかげでほとんどの先輩や同期に最初から私のことを覚えてもらうことができていた。自分の名前を大勢の人から何回も呼ばれるのを満更でもなくむしろ嬉しくすら思う日が来るだなんて、小学校低学年で名前いじりにあっていた過去の私は夢にも思わなかっただろう。


おわかりだろうがもう私の名前に対するコンプレックスはまるでない。むしろチャームポイントである。たまたま良い機会に恵まれたゆえにここまで考えが変わっただけかもしれないし、結局名前なんて親のエゴのようなものだという考えは変わっていない。しかしそれならそれでいいではないか。名前はその人の一生に文字通り一生付き添ってくるものではあるけれども、ならばこそ自分の人生の中身をその名前に左右されるなんてばかばかしい話ではないか。


最後に私の好きな言葉を紹介したい。TVアニメ『暗殺教室』で教師である殺せんせーが、キラキラネームであることに悩む生徒を励ます際に口にしたセリフである。

親がくれた立派な名前に正直大した意味はない。意味があるのはその名の人が実際の人生で何をしたか。名前は人を造らない。人が歩いた足跡の中に、そっと名前が残るだけです。

この言葉、名前というある種の呪縛からその人を『解き放つもの』であり、一方で名前というある種の鎧に甘えることを許さない『檄文』のようなものでもあると私には感じられた。私は外国人の名前であるからといって、一応親がそう望んではいるからといって、世界を飛び回るグローバルな人材になろうと、そういう生き方をしようとばかり考えなくていい。日本にいたってどんなことをしたって別にいい。自分の好きなように生きていく。

しかしどう考えたって、自己紹介で『(外国人の名前)です』と名乗った奴がその名前くらいしか面白い所がなく、中身も魅力もない大変つまらない奴だったら拍子抜けも甚だしい。私は嫌である、例えば日本でゴンザレスとかいう名前の奴が死ぬほどつまらない男だったら。そんなの絶対受け入れたくない。まあ人間ユーモアだけの話ではないが、あくまで私という個人は殺せんせーの言葉を借りつつ言うなら、


『一生懸命歩んだ濃くて魅力的な人生の足跡の中に、両親がくれたこの特別な名前をそっと残す』


そのために日々生きたいと思うし、生きねばならないと思うのである。










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