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村上春樹著書『猫を棄てる 父親について語るとき』の感想文

(※すみません、めちゃくちゃ長文です)


 恥ずかしながら、読書感想文を書くというのは、記憶しているかぎり中学三年生の夏休み以来のことである。 

 そのときは、アウシュビッツ強制収容所について書かれた本について感想文を書いたと記憶しているが、どうしてその本を手に取ったのかは覚えていないし、書かれていた内容も悲惨であったということしか覚えていない。 

 ただ、人間の記憶と言うものは不思議なもので、普段は小さな壁のシミのようにひっそりと息をひそめているのに、何かがトリガーになって、ふとした瞬間、その存在を思い出すことがある。(読書感想文を書くという作業で私は普段思い出しもしなかった中学三年生の夏休みの宿題を思い出したように)

 これらの「記憶」については、この本作品におけるファクターであり、主題でもあると思うので、以降、重要事項として押さえておきたい。

 さて、今回、村上春樹著『猫を棄てる 父親について語るとき』(文藝春秋、2020年)の読書感想文を書かせていただくことにしたが、内容について簡単にご説明すると、これは村上春樹氏ご自身の ファミリーヒストリー である。

 それらは村上春樹氏自身の記憶、見聞きした話、調べてみたことの結果をもとにして書かれている。中には推測のようなものも書かれているが、それは結果として生じる推測であり、本の内容としては概ね彼の家族、ルーツが淡々と記されているのみだ。

 何故、村上氏がこの本を書くに至ったのかということは最後で触れようと思うが、題名が題名だけに、「村上春樹は猫を平気で棄てに行く輩なのか。けしからん」という方も中にはいらっしゃるのではないかと思う。
 しかし、それは誤解であり、氏は大の猫好きである。本編に書かれている通り、子どものころから猫とは兄弟のように育ち、今までも多くの猫を飼っていらっしゃるので、安心していただきたい。(※村上氏が飼っていた猫の話はとても面白いので、猫好きの方は『村上朝日堂はいかにして鍛えられたか』(新潮文庫、1999年)の「長寿猫の秘密」等をぜひ読んでみてほしい)

 個人的には、猫なしでは今の村上春樹氏はなかったと思うし、この題名を見たとき、

「あの村上さんが猫を棄てに行かざるを得ない状況なんて、彼にとってそれはそれは傷つく出来事になったのだろうなあ…」

と私が心を痛めたことは言うまでもない。

 なので、どうか誤解のないようにしていただきたく、本編に入る前にこのことについて先に言及しておく。

 ただ、残念なことに猫を棄てにいったという行為自体は事実であるようだ。
 まず本編冒頭に村上氏は父親と共有するこのささやかな記憶について以下のように語っている。

とにかく父と僕は香櫨園の浜に猫を置いて、さよならを言い、自転車でうちに帰ってきた。そして自転車を降りて、「かわいそうやけど、まあしょうがなかったもんな」という感じで玄関の戸をがらりと開けると、さっき棄ててきたはずの猫が「にゃあ」と言って、尻尾を立てて愛想良く僕らを出迎えた。先回りして、とっくに家に帰っていたのだ。どうしてそんなに素速く戻ってこられたのか、僕にはとても理解できなかった。なにしろ僕らは自転車でまっすぐ帰宅したのだから。父にもそれは理解できなかった。だからしばらくのあいだ、二人で言葉を失っていた。

—『猫を棄てる 父親について語るとき (文春e-book)』村上 春樹著
https://a.co/1Mbz21M

 そして、村上氏はそのときの父親の様子を以下のとおり描写している。

そのときの父の呆然とした顔をまだよく覚えている。でもその呆然とした顔は、やがて感心した表情に変わり、そして最後にはいくらかほっとしたような顔になった。

—『猫を棄てる 父親について語るとき (文春e-book)』村上 春樹著
https://a.co/7pLZT9D


 村上氏は、この不思議体験について、

「どうして仲良しだった猫を棄てに行かなくてはいけなかったのか」

「どうしてそのことに僕が異議を唱えなかったのか」

ということも併せて一つの謎として書かれている。 

***

 このエピソードを読んで、私は前述した不安について、彼の父と同じく、いくぶんほっとした。

 小学校低学年だった村上少年が猫を棄てたという暗雲たる事実が、猫が帰ってきてくれたということにより致命的な損失の記憶として残さずにすんだのだ。これは喜ばしいことだと思う。

 そして、同時にこのときの父親の心境がいかなるものであったかということに、思いを馳せた。

感心して、ほっとした

 これは、結果的に猫を棄てずに済んだからであろう。

 このことから、父親も猫を棄てることについていくらかの葛藤罪悪感を抱いていたのだと思う。

 もちろん、そこに至るまでにはやや込み入った事情があっただろうし、そのせいで父親はなにかしらの理由とある種の諦めのようなものを仕方がなく拾ってきて、このような行動に出たのだと推測される。もちろん、猫を棄てるということは時代が時代であるからといって、褒められることではないし、むしろ許されないことだと思う。(そして同時に、これを読んだ私が動物を棄ててはいけないという認識を持てる今の時代とその流れに感謝したい)

 ただ、そこには確かに葛藤と罪悪感があった。

棄てる、棄てられるという経験

 これは後述する村上父のエピソードにかかってくる。

 また、もう一つ印象深い父との思い出として、村上氏は父親の「おつとめ」について取り上げている。

 父親は毎朝朝食を取る前に仏壇の前で熱心にお経を唱えている。それは誰にも邪魔をすることができないほどの、強い集中力をもってして行われる。その姿が、幼い村上氏の脳裏に焼き付き、今も記憶の残滓として残っている。

 そして村上少年は尋ねる。

誰のために祈っているのか、と。

 父は答える。

前の戦争で死んでいった人たちのため、そこで亡くなった仲間の兵隊や、当時は敵であった中国の人たちのためだ、と。

 それについて、村上氏はそれ以上その問題について尋ねなかった。場の雰囲気というか、子ども心に尋ねられなかったという。とにもかくにも、そのエピソードはそこで終わる。

 そのあとには、祖父 村上弁識、父親 村上千秋とその兄弟たちについて一通り書かれている。

 住職であった祖父の突然の訃報、残された寺の世継ぎ問題、守るべき家庭とその決断…。「家族」という形には、多少なりとも様々な問題を抱えていることが分かる。

 そして、そのエピソードの中に、千秋氏が一度奈良の寺に小僧として出されたものがある。しかし、彼は間もなくして健康を害して(村上氏の推測によると、環境に慣れなかったせいで)、家に戻され、両親の子として育てられたという。

 村上氏は父親が経験したその事実が、父に心の傷として深く残っていたのではないかと感じている。そして、同時に、戻ってきた猫を見て、ほっとした父親のことを思い出すと記している。

村上氏はこの問題をこう提起している。

僕にはそういう体験はない。僕はごく当たり前の家庭の一人っ子として、比較的大事に育てられた。だから親に「捨てられる」という一時的な体験がどのような心の傷を子供にもたらすものなのか、具体的に感情的に理解することはできない。ただ頭で「こういうものだろう」と想像するしかない。しかしその種の記憶はおそらく目に見えぬ傷跡となって、その深さや形状を変えながらも、死ぬまでつきまとうのではないだろうか?

—『猫を棄てる 父親について語るとき (文春e-book)』村上 春樹著
https://a.co/05CgTBn


 ここで一つ取り上げておきたい村上氏の作品がある。私が一番好きな本『アフターダーク』(講談社文庫、2006年)だ。

ここに登場するタカハシという青年が、この村上千秋氏と村上氏本人をモデルにして生まれたのではないかということに、私はこの本を読んで改めて気づいた。というより、この『猫を棄てる 父親について語るとき』に書かれている出来事が『アフターダーク』に及ぼした影響は大きいと推測する。

 『アフターダーク』の物語には、法学部に所属するタカハシという気のいい大学生が登場する。ただ、タカハシの父親はあまり良くないことを業としていて、父親は刑務所に入れられたことがある。母親をすでに病気で亡くしていたタカハシは、父親が刑務所に入ることで、一時的な孤児になってしまう。そのことは彼に大きな傷を与えることとなる。そして、主人公のマリにこう語る。

「つまりさ、僕はそのときこう感じたんだよ。お父さんはたとえ何があろうと僕をひとりにするべきじゃなかったんだって。僕をこの世界で孤児にするべきじゃなかったんだ。(後略)」

—『アフターダーク (講談社文庫)』村上 春樹著 214p-215p

高橋は微笑んでマリを見る。「つまりさ、一度でも孤児になったものは、死ぬまで孤児なんだ。よく同じ夢を見る。僕は七歳で、また孤児になっている。ひとりぼっちで、頼れる大人はどこにもいない。時刻は夕方で、あたりは刻一刻と暗くなっていく。夜がすぐそこまで迫っている。いつも同じ夢だ。夢の中では、僕はいつも七歳に戻っている。そういうソフトウェアってさ、いったん汚染されると交換がきかなくなるんだね」
マリはただ黙っている。

—『アフターダーク (講談社文庫)』村上 春樹著 218p


 この部分はおそらく千秋氏をモデルにしたのだろう。「捨てられた」というタカハシの心の傷の根源がここにあり、そしてこの作品が一番好きな私にとって、これはとても喜ばしい発見であった。
 別のシーンでは、タカハシがこう語っている。

「君のお父さんは刑務所に入ったことある?」
 マリは首を振る。「ないと思う」
「お母さんは?」
「ないと思う」
「それは幸運なことだよ。君の人生にとってなにより喜ばしいことだ」と高橋は言う。そして微笑む。「おそらく君は気がついてないと思うけど」

—『アフターダーク (講談社文庫)』村上 春樹著 215p


 このシーンは、ある事務的な手続きのミスで従軍することになってしまった千秋氏とその息子である村上氏のことを、私は自然と想起させられた。

 『猫を棄てる 父親について語るとき』の中盤では、一度だけ千秋氏が子に打ち明けた、捕虜の処刑の話が書かれている。それは幼少の村上氏にとって大きな衝撃と動揺をもたらすことになった。村上氏はこのことについて、下記の通り「トラウマが継承された」と述べている。

言い換えれば、父の心に長いあいだ重くのしかかってきたものを──現代の用語を借りればトラウマを──息子である僕が部分的に継承したということになるだろう。人の心の繫がりというのはそういうものだし、また歴史というのもそういうものなのだ。その本質は〈引き継ぎ〉という行為、あるいは儀式の中にある。その内容がどのように不快な、目を背けたくなるようなことであれ、人はそれを自らの一部として引き受けなくてはならない。

—『猫を棄てる 父親について語るとき (文春e-book)』村上 春樹著
https://a.co/eJSvG2i

父は戦場での体験についてほとんど語ることがなかった。自らが手を下したことであれ、あるいはただ目撃したことであれ、おそらく思い出したくもなく、話したくもなかったのだろう。しかしこのことだけは、たとえ双方の心に傷となって残ったとしても、何らかの形で、血を分けた息子である僕に言い残し、伝えておかなくてはならないと感じていたのではないか。もちろんこれは僕の推測に過ぎないが、そんな気がしてならない。

—『猫を棄てる 父親について語るとき (文春e-book)』村上 春樹著
https://a.co/igq5nm9


 自分の父親がある種の犯罪に加担した(あるいは深く関与した)ということは、私的には村上氏の言葉を借りると「具体的に感情的に理解することはできない」。が、たぶんあまり気分のいいものとはいえないだろうと推測される。

 そして、もし私にそのような父親がいても、詳しく話を聞こうと思わない。実際、村上氏もその話について詳しく尋ねていないし、タカハシも物語の中で自分の父親にどのような仕事をしていたかを具体的に問いただしてはいない。

 しかし、偶然同時並行で読んでいた『戦争における「人殺し」の心理学』(ちくま学芸文庫、2004年)や『戦争とトラウマ』(吉川弘文館、2018年)にも書かれているように、そのようなことがあったことは残念ながら多かれ少なかれ恐らく事実だと思われる。
 そして、千秋氏を含めた加害者側の多くの兵士たちにとっても、それらは強烈なトラウマとして記憶に残ったに違いない。
 また、奇跡が重なり、激戦地に送られなかった千秋氏が、自分一人が命を取りとめ、かつての仲間の兵士たちが遠く離れた異国の地で命を落としたことに大きな自責の念があったことについても本編では触れられていることを忘れてはならない。

 そして、『アフターダーク』のタカハシは放火殺人を犯した死刑囚の判決を傍証して、このように述べている。

「しかし裁判所に通って、関係者の証言を聞き、検事の論告や弁護士の弁論を聞き、本人の陳情を聞いているうちに、どうも自信が持てなくなってきた。つまりさ、なんかこんな風に思うようになってきたんだ。二つの世界を隔てる壁なんてものは、実際には存在しないのかもしれないぞって。もしあったとしても、はりぼてのペらぺらの壁かもしれない。ひょいともたれかかったとたんに、突き抜けて向こう側に落っこちてしまうようなものなのかもしれない。というか、僕ら自の中にあっち側がすでにこっそりと忍び込んできているのに、そのことに気づいていないだけなのかもしれない。そういう気持ちがしてきたんだ。言葉で説明するのはむずかしいんだけどね」

—『アフターダーク (講談社文庫)』村上 春樹著 141p-142p


 たぶんある意味では、第二次世界大戦も、現在進行形で巷を騒がせているウイルス問題も根底はきっと同じなのだと思う。

知らず知らずのうちに、それは私たちの日常を犯している。
私たちは誰でも捕虜の首を斬る側になり、斬られる側になる。
ウイルスを撒き散らす側になり、肺を侵される側になる。

 だから、私はそれらを忘れてはならないと思う。当事者たちの痛みに寄り添わなくてはならないと思う。今自分がそのような立場におかれていないことを幸運に思わなければならないと思う。そして、私がそちら側にならないように努めなければならないと思う。

 この話が終わると、村上氏は父と自分の間にあった確執に触れている。様々な時代のうねりに抗えず、自分の望んだ人生を送れなかった父と、それに応えない・応えられない村上氏自身の話だ。そこにはたとえ血を分けた父と子であっても、分かり合えないことがあるということが淡々と描かれている。その結果、彼らの間には大きな軋轢を生みだしてしまうこととなった。

 そして、本の最後には村上氏はこう述べている。

言い換えれば我々は、広大な大地に向けて降る膨大な数の雨粒の、名もなき一滴に過ぎない。固有ではあるけれど、交換可能な一滴だ。しかしその一滴の雨水には、一滴の雨水なりの思いがある。一滴の雨水の歴史があり、それを受け継いでいくという一滴の雨水の責務がある。我々はそれを忘れてはならないだろう。たとえそれがどこかにあっさりと吸い込まれ、個体としての輪郭を失い、集合的な何かに置き換えられて消えていくのだとしても。いや、むしろこう言うべきなのだろう。それが集合的な何かに置き換えられていくからこそ、と。

—『猫を棄てる 父親について語るとき (文春e-book)』村上 春樹著
https://a.co/cOPNaiE


 本作品に書かれているとおり、我々一人一人は偶然が重なって生きている。そこには「もし」は消え去り、事実だけが残っている。

 年度末、私は書類にシュレッダーをかけながら蓄積された情報のことを考えたことがある。私の脳みそに積もり積もった情報(記憶)は、死んでしまったらどこにいくのだろう、と。質量保存の法則は、形のないものにも適用されるのだろうか、と。
 たぶん、現実的には火葬場で骨になったとき、その情報たちも共に灰になってしまうのだろう。「私」という個の存在は、遺伝子や記憶でしか残らなくなる。そしてやがて消え失せてしまう。

 村上氏が今回『猫を棄てる 父親について語るとき』を書かれたのは、その蓄積された記憶を何かしらの形で残したいと思われたからだろうと私は思う。

 私はそれを読んで、継承した。また、ここまで長々とした私の読書感想文(なるもの)を読んでいらっしゃる方がこれを継承しているだろう。

 人間は「記憶のいきもの」だ。

 自分の人生で得たものを何かしら残すことが、人間の役目だと私は思う。そして、この人生で自分には何が残せるのだろうと、私は考える。

 ここまでお付き合いいただき、ありがとうございました。

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