見出し画像

『ボナペティ! 臆病なシェフと運命のボルシチ』 試し読み 6(全8回)

←第1回に戻る
←前回に戻る

 昼休みを迎え、沈んだ気分をどうにかしたくなった佳恵は、久々に本社ビルの隣の研究棟へ行ってみることにした。

 三階へ上がると、そこには敷地内唯一の社員食堂がある。中庭を回り込んできたぶん、後れを取ったようで、ブルーの作業着と白衣の社員たちがすでに列を作り始めている。

 佳恵はトレーを取って、本日のA定食の列の最後尾についた。配膳カウンターから親子丼と味噌汁を受け取り、長机の窓際寄りに腰を落ち着ける。

 大きめに切られた鶏肉には、半熟の黄身と白身がたっぷりからんでいた。

 それをはふはふと口に運ぶうち、食欲に引っ張られて気分も上向き始める。うん、この親子丼、なかなかやるじゃない。

 気がつくと、配膳待ちの列はさらに伸びていて、その先頭部から見覚えのあるベリーショートの頭がひょこりと見えた。

「高木!」

 思わず腰を浮かせ、「こっちこっちー」と腕を振ってやる。眠たそうな目がこちらを向いたかと思うと、どんぶりを危うげに傾かせ、彼女――高木リョウは長机のあいだを縫って来た。

「めずらしい」

 佳恵の向かいにトレーを置き、ぶっきらぼうに言った彼女の白衣の胸ポケットには、今日も謎のキャラクターつきのボールペン。紅白饅頭みたいなその猫もどきがなんていうのか、佳恵はよく知らない。ゲームに出てくる何かなのだろう。

「今日も盛大だね」

 リョウの耳の上の寝癖を指差してやると、彼女はだからどうしたという顔で首筋を掻いた。

「こっちで打ち合わせ?」
「そういうわけではないけどさ。気分転換?」
「ふうん」

 リョウはそっけなく返し、拝むように手を合わせてから、きつねうどんを一本ずつ音を立てて啜り始めた。毎度のことだが、上品なのか下品なのか、よくわからない食べ方だなと佳恵は思う。

 十数人いる同期のうち、なぜかリョウとははじめから馬が合っていた。とくに佳恵が企画部に移ってからは、仕事でからむことも増え、話す機会もおのずと多くなった。

 佳恵が企画し、社長のGOサインが出た新商品を、実際に開発する立場にあるのが彼女だ。商品ごとの担当が彼女に決まったあと、

 ――おい長谷川!

 と、怒りの内線がかかってくることも稀ではない。

 ――あんたの開発指示書、なんなのコレ。『シャキッと』とか『まろやか』とか、マジで伝える気あんの? もっとさー、あんたの頭にイメージがあるんならさ、あたしにヨダレ垂らさせてやるくらいの気概を見せなよ。いくらでも垂らしてやるからさ。

 そう言うリョウ自身は、「シャキッと」とも「まろやか」ともほど遠い一匹狼タイプなのだけど、ともかくマイペース極まりない彼女だったら、意見をぶつけ合うのに遠慮は要らない。その意味では、得がたい戦友であると言えなくもないのだった。

 佳恵とリョウは使い込まれたトレーを挟んで、だらだらと世間話をした。同期の誰それが再婚したとか、新しく出たコンビニアイスの話とか。

「ヒモくんは元気?」

 そう言って話を向けてやると、ヒモじゃないっての、とリョウは顔をしかめた。

 三つ年上だという熊っぽい彼氏と、リョウはすでに六年近く同棲を続けている。自称フリーランスの何からしいが、生活費はほとんどリョウ持ち。彼女自身は気にしていないようだが、それをヒモって言うんでしょうよ、と佳恵は思っている。

「通常運転っちゃ通常運転だけど……そういや、『新しい自分になりたい』とか、また血迷ったことを言い出したな」
「何それ」
「さあ?」
「さあって」
「また誰かから影響されたんでしょ。友達が多すぎるのも考えもんだよな」

 リョウが身体を揺らすたび、うどんの出汁とシチューの混ざった匂いが佳恵の鼻先を掠める。今は一日中ホワイトソースを煮込み続けているとみえて、白衣が乳臭い。

「次に来るのは農業だーだのなんだの、ブツブツ言ってるなと思ってたら、今度は修業してくるっつって出ていっちゃったよ。大ちゃんの頭の中身が読めたら、司法試験にも一発でパスできる気がする」
「あんたらってほんと難解よね……」

 佳恵は呆れついでに、「ね、聞いた?」と尋ねてみた。

「にゃにを」

 さらに一本、うどんが吸い込まれていく。

「私の企画のこと」
「ああ――まあ。風の噂で」

 ここで誤魔化したり、下手ななぐさめを言ったりしないのが彼女らしい。

「その件については、まああれだよね、言いたいことがないでもないけどさ。ここだけの話、なんかもういいかなとも思ってて……。いくらこういうのを作りたいって本気で考えたところで、制約も多いじゃない? 原価がどうとか、品質との兼ね合いとか。事前の根回しも面倒だし。そういうのよりもっと面白そうなことを見つけちゃった、っていうか」
「企画馬鹿のあんたが?」

 うどんの端を口から垂れ下げたまま、リョウが上目遣いに見て寄こす。

 佳恵は神妙にうなずき、周囲をうかがって、「実はビストロを作ろうと思ってるんだよね」と打ち明けた。

「だけど今んとこ、前途多難って感じでさぁ。あ、ここからは愚痴ね。私はイケるんじゃない? って思ってるんだけど、甘いって言う人もいて。つまりはせっかくの正社員の身分を手放すなんてーって心配してくれてるらしいんだけど、そう言われたらたしかになあ、とも思うでしょ」
「よくわからんけど……あたしの場合、仕事なんて趣味だしな」
「ん? どういうこと?」

 高木リョウ流の、それこそよくわからない論理に首をかしげたとき、昼休み終了のチャイムが鳴った。

 結局真意は謎のまま、佳恵は慌ただしく職場に戻り、午後も打ち合わせや書類に埋もれて過ごしたのだった。


=====

  
 憂さ晴らしのように仕事に没頭したため、その日はいくぶん早めに退勤できた。

 せっかくだし、帰る途中のどこかで一杯引っかけよう。そう思って電車に乗り込んだのだが、佳恵は気づけばあの店――《ルージュゴルジュ》の方面に向かっていた。

 まだ未練があるってこと?

 それは否定できないけど、うじうじするのは私のガラじゃない。にわかに反抗心がもたげて、《ルージュゴルジュ》の最寄り駅のひとつ手前で降車する。

 いい感じのバーでもあったら、そこで食事も軽く済ませちゃいたいんだけど……。

 そんなことを考えつつ、駅の裏手をうろついていると、小さな十字路の手前であれっと足が止まった。十字路から路地裏へと入っていくのは、どことなく見覚えのある青年だ。

 誰だったっけ?

 佳恵は首を捻り、しかし思い出さなければいけない気がして、青年のあとを追う。

 すると、路地裏に入っていくらもしないうちに彼の姿は忽然と消え、それに取って代わるように漂ってきた匂いに気づいた。

 かぐわしい――まるで、何時間もじっくり煮込んだスープのような――。

 ネオン街に似つかわしいものでは少なくともないし、空腹をグリグリ刺激されてしまう罪深い匂いだ。

 どこよ、どこからなの!? 

 佳恵は焦燥感に煽られ、出どころを探し始める。鼻先でトリュフを探し当てるような心地で嗅ぎ回る。

 ――と、やがて佳恵の足が止まったのは、ある雑居ビルの裏だった。

「ここだ」

 この換気扇。
 急いで表へ戻り、歩道に出ていた立て看板を確かめてみたものの、そこにあしらわれていたのは小洒落たカクテルの写真だけ。見た感じ、ごく普通のバーでしかない。

「あの匂い、本当にこの店からなの……?」

 佳恵は訝しみながらも、看板の脇から地下へと続く階段を下りていった。

→次回に続く

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?