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『ボナペティ! 臆病なシェフと運命のボルシチ』 試し読み 5(全8回)

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 由布子から猛反対を食らった数日後、仕事を終えた佳恵は、田町のひょろ長いビルを見上げていた。
 今夜ここで、“失敗しない飲食店開業セミナー・入門編”が開かれるという。

 ざっと探してみたところ、この手のセミナーは昼間の開催が大半で、平日の夜に寄れるのはここくらいしか見つからなかった。脱サラを狙ってる人も多そうなのに、とも思うのだけど、ないのだからやむを得ない。

『会場はこちら↓』と書かれた立て看板の横をすり抜け、エレベーターに乗り込む。
 由布子はああ言っていたけど、まずは情報収集よね。取って喰われるわけじゃあるまいし、と見物気分でセミナールームに足を踏み入れる。

 と、三十近くあった座席は八割方がすでに埋まっていた。ちらほら見えるスーツ姿の受講者は、同じく仕事帰りに立ち寄ったクチだろう。
 佳恵は筆記用具を机に用意し、講師が現れるのを待った。

 しかしその二時間後、佳恵は夢から叩き起こされたような気分でビルをあとにした。

 ――飲食店というのは、三年以内に九割がつぶれます!

 もしかするとツカミのインパクトを狙ったのかもしれないが、自称・開業コンサルタントとかいう中年講師は、そんなショッキングなデータを早々に持ち出した。

 いやいや、九割って。さすがに盛りすぎでしょ。

 内心苦笑しつつも笑い飛ばすことができなかったのは、街を見渡せばある程度は納得せざるを得ないからだ。

 飲食店がつぶれ、その跡地にまた飲食店が入る。そしてまたつぶれて、次の店が入る……。

 通行人の目から見れば、「あ、店変わったな」と思ったきり忘れてしまうくらいのささいな変化だとは思う。けれど言われてみれば、その陰には一店ずつ、多額の借金と失意を背負ったオーナーがいるのだ。ほぼ間違いなく。

 佳恵は、しょぼくれた気分で吉祥寺の家に帰り着いた。

 セミナー会場を出てからずっと、由布子の「甘すぎる!」という声が頭に響いていた。手探りで壁のスイッチを押すと、がらんとしたワンルームが光に晒される。あまりの家具・家電の少なさに、これで本当に生活できるの、と呆れられることもあるけれど、機能的ならそれで充分だと思っている。家族がいるわけでもないし。

 シャツとタイトスカートを脱ぎ捨て、Tシャツ一枚になる。それから1ドアの冷蔵庫を開け、ヤンキー座りで覗き込んだのだが、中に残っていたのは開封済みのスライスサラミだけ。

「……コンビニ寄ってくりゃ良かった」

 せめて缶ビールでもあれば、と悔やみながらも、乾いたサラミをぺろんと咥える。

 そしてソファベッドに身を投げ出し、くたくたになったフクロウのぬいぐるみを抱き寄せてはみたものの、さっきのセミナーの内容がまだ頭に居座っていた。

「ただ甘いわけじゃあない、とは思ってるんだけど、ねぇ……」

 よっ、と身を起こした佳恵は、セミナー中に手帳にしたためた走り書きを、今度は窓の前に置いた会議用ホワイトボード――佳恵命名“野望ボード”に書き写していった。
 
 ・資金調達をどうするか?
 ・店の立地は?
 
 ――エトセトラ、エトセトラ。
 ただ課題点を並べただけだというのに、すでに宿題を積まれたように気が重い。

 とくに箇条書きの最後、
 
 ・気に入った腕のいいシェフが見つかるか?
 
 という項目にはぐるぐるの花丸を書き加え、吐息とともにペンを放り出した。

「どうすっかなー」

 今日はサラミの塩気が、やけに舌を刺した。


=====

  
 翌日、出社した佳恵は、ぼんやりとキーボードを叩いていた。
 先日まで佳恵が進めていた企画は、上層部の判断で一時凍結となった。要するに、自分は社内政治に負けたのだ。

 よくもやりやがったな、という怒りはあったし、専務を巻き込む半魚人の汚いやり口には吐き気がしたけれど、それよりも意外に思えたのは、怒りがほとんど長引かなかった自分のほうだった。

 力を入れていた企画がぽしゃったというのに、スコンと興味が失せたような……もうどうでもいいや、とでもいうか。

 水をぶっかけられたように消えてしまった火は、このまま再燃することもなく終わるんだろうか?

 佳恵は業務メールを一通送ってから、ふぅと息をついた。
 伏せていた顔を上げると、パソコン越しに後輩のつむじが見えている。

 窓に近いほうから、佳恵、後輩一、後輩二、後輩三。チームリーダーの佳恵を筆頭に、二十代後半から三十半ばの先鋭で作られた、社内の花形とも言われる企画チームである。

 この企画部への異動が叶ったのは、佳恵が二十八のときだった。

 文系の新入社員は、まず現場を知るという名目で、最初は例外なく営業部からスタートする。佳恵はというと、小中高とバレーボールを続ける程度には体育会系だったので、営業もそれほど苦ではなかった。どころか営業成績はなかなか良く、幾度か四半期MVPに選ばれたくらいではあったのだが、企画職への憧れは膨らみ続けていた。

 ――だってこちとら、自他ともに認める食道楽。

 この業界に入ったからには、自分が心から美味いと思うものを作って大ヒットさせたいじゃない?

 そうして七年前、佳恵は念願叶って企画部へ異動した。

 はじめこそ、不慣れな仕事についていくのがやっとで失敗も多かった。しかしそのうちに仕事の回し方を覚えて、後輩も育ってきた。半魚人みたいな卑怯な横やりさえないのなら、多少のトラブルは経験で乗り越えられる。そう自負できるまでに、今ではなっている。

 だけど――。

 胸が高鳴るような高揚感は、まだここにある?
 理想の店を思い描くときのあのワクワク感は、七年経った今もまだ、ここにある?

 先日、店を出そうと思い立ったときに頭を掠めた問い。それからずっと考え続けてはいるのだけれど、浮かんでくる答えは今なお“わからない”だ。

 佳恵はかぶりを振り、ふと思いついて、後輩一にあてがった企画の進捗を尋ねてみた。

「進んでいますけど」

 当然だろう、と言わんばかりの冷めた表情。そりゃそうでしょうよ、とツッコみたくなるのはぐっとこらえておく。

「今、どのへんなの?」
「先週のミーティングでお伝えしませんでしたか」
「ああ……うん。それから何か進んだかと思って」
「今のところは、とくに。昨日のヒアリング内容をまとめているところです」

 佳恵はうなずきつつも、またか、と内心げんなりしていた。我こそは先鋭部隊の一員だというプライドがそうさせるのか、入社五年目の彼に限らず、皆、報告を渋ってひとりで抱え込むきらいがある。

 それでもひとまず、彼の煙たそうな表情は見なかったことにして作りかけの資料を送ってもらったのだが、データを開いてぎょっとした。数十ページもある。

 ひょっとして、明後日のチーム内会議のためだけにこれを作ってる? であれば、明らかに労力をかけすぎだ。

「そうねぇ……。よくまとまってるし、気合いはビシビシ感じるけど……」
「はあ」
「ここまでのは要らないかな」

 佳恵は言って、彼にも見えるようにディスプレイを動かした。

「たとえば……ん、これ。アンケートの回答を一覧にした部分。重要なものを抜き出すのは、消費者の生の声として、おおいにありだと思う。けど、上へのプレゼンならともかく、まだ検討の初期段階なんだから。これくらいなら、回答用紙の束にマーカー引いて回覧すれば済むでしょ?」

「ですけどそれは――」

「ああ、それからここも。全部打ち込んでデータベース化しとけば、たしかに便利ではあるけどさ、つかんでおきたいのはざっくりとした傾向だからね。誰がこうこうこう言ってたーとか、そういうのまではね。要らない。時間の無駄になっちゃう」

 彼は表情を強張らせ、開きかけていた口を引き結ぶ。

「……お言葉ですけど。長谷川さんだって、いつもおっしゃっていますよね? 生の声は大事だ、アイディアの卵が埋まってる、って」
「そりゃもちろん。でも、それとこれとは別の話じゃない」
「どこがですか。マーカーを引いただけより、見やすくまとめたほうが伝わるに決まってます。どのみちいつかはプレゼン用の資料を作るんなら、今のうちにベースを作っておけば流用できますよね。あとから作り直すより、はるかに労力が少なくて済みます」

 佳恵は言葉に詰まった。この企画がプレゼンまでたどり着けるとも限らないのに――。
 気づかれないように深呼吸して、苛立ちを抑え込む。

「……どう言ったらいいかな。要は優先順位の問題なの。全部完璧にしようと思ったところで、使える時間には限りがあるでしょう? だから大事なものをどんどん優先して、要らないものは削っていかないと。本当に重要なことはどれか、いかに注力するか、それを考えるのも仕事のうちなのよ。完成度よりスピードが求められることだって往々にしてある」

 佳恵自身、そうやって仕事をこなしてきたという自負があった。物事の大小を瞬時に見極め、「ここだ」と思ったところに集中する。枝葉にかかずらっていたら、次々と押し寄せてくる仕事に埋もれてしまう。

 彼のためにも、この機に腹を割って話し合っておいたほうがよさそうだ。

 そう思って姿勢を正したのだが、その矢先、隣の島から声がした。

「長谷川さーん、二番に外線です」
「ごめん、続きはまたあとで。この資料はせっかくだから、できたところまでみんなに見てもらいましょ。いい?」

 後輩は押し黙ったのちにうなずいたが、どう見ても不満顔だ。あとで話に戻ったところで、いったん心を閉ざした彼が素直に応じるとは思えない。

 佳恵は心の内で嘆息しながら、席へ戻っていく後輩を横目に電話を取った。

 こういうときくらい、納得するまで議論を交わしたいのに。
 そうでもしなきゃ、いつまでも歩み寄れないのに……。

 これがジェネレーションギャップってやつかも、と思いつつ、苦笑する気分にすらなれなかった。

→次回に続く

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