ラノベ『安達としまむら』の魅力について
結構前からちょっとずつ読み進めている『安達としまむら』というライトノベルについて書いていきたいと思う。現在3巻まで読了したがなかなか面白い。
なおまだアニメは見ていない。こういうのは原作を読んだ後に見たい派なのでまだ見てない。というかアニメが原作の何巻までやってるのかも知らない。そういうのを調べるとネタバレを受ける可能性もあるので5巻くらい読んだらアニメ見てみようと思う、流石に5巻までは12話でアニメ化できないと思うので。
まぁアニメはいいとして、早速この作品の魅力を語っていこうと思う。
まず、この作品を読んでいると自分はどうしても安達に感情移入してしまう。しまむらが好きなんだけど距離感がつかめずなかなか上手くいかなかったりだとか、安達が思い悩んでいる姿を見ているとなんだか自分のことのようにやきもきしてしまう。
ただ「自分のことのように」とは言いつつも安達は美少女で、自分はおじさんなので安達のやきもきしている姿がかわいいという風にも思う。なんだか感情移入してるんだけどしていないというようなそんな不思議な感覚にとらわれる。
自分だけなのかわからないけど百合作品全般の楽しみ方としてそういう不思議な感覚を味わうという楽しみ方があるんじゃないかと思う。安達という存在に感情移入しつつもどこかで俯瞰的な目線を持って眺めている面がある。というか俯瞰目線の方が大きいのかもしれない。どちらかというと後方父親面してみてる父親気分なのかも。
百合作品のもう一つの魅力、というか恋愛作品全般にも言えるのだけれど、同性同士でも異性同士でも仲良くしている姿を見るのは微笑ましい気持ちにさせられるというのがある。安達としまむらという存在が仲良くしているのを見るとなんだか心地よい気分になる。これは人間にもともとそういう機能が備わっているのかもしれない。
余談だが異性愛の作品とかでなんとなく感情移入できないときがあるのは俳優がイケメンすぎたり、男が優しすぎたりしているところかもしれない。あまりにも自分とかけ離れた造形or性格のキャラクターが主人公だとどうにも感情移入できないというのがある気がする。
だからこそアニメとかはちょっとさえない男がなぜかハーレムを築いていくみたいな展開が結構受けるのかもしれない。ただ同時に本当にこれでいいのかという疑問も生まれるのでなんとなく受け付けない気分になるときもある。
主人公を男にした場合、どうしても自分と主人公を比較してしまう。主人公が善良な場合は相対的に自分を卑下してしまい感情移入ができない。そして主人公がだらしない場合はこんな展開で恋愛になるのは流石にないよなぁと非現実的でちょっと引いてしまう。
だからこそ今の時代は百合作品を見たくなるのかもしれない。男である自分というものを完全に切り離した存在として主人公を女の子にする。そうすることで自分というものを考えず別世界のことのように見ることができる。そして構造としては恋愛ものと同じような作りになっているので、自分を捨象した状態で恋愛ものを楽しめるようになっているのかもしれない。さらには主人公自身の可愛さも楽しめるので一石二鳥。
もちろんあくまでも自分が感じていることに基づいて言ってるだけなので他の人もそうなのかはわからない。ただ少なくとも自分は上記のように感じる。あとこれはあくまでも一面的なもので『安達としまむら』という作品の魅力はほかにもあると思う。つまりは百合作品ってそれだけじゃないよなぁということも感じるのでそこは難しいところ。なかなか自分の中で感じている魅力を言語化するのは難しいと感じる。
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