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廓庵禪師『十牛圖』 第一圖~尋牛(じんぎゅう)

2023年のInstagram @tokujiro_official で投稿した”アスリートのコーチング”を加筆した

廓庵禪師『十牛圖』
第一圖 尋牛(じんぎゅう)
從來不失、何用追尋。 由背覺以成疎、在向塵而遂失。 家山漸遠、岐路俄差。 得失熾然、是非鋒起。
頌曰
茫茫撥草去追尋
水闊山遙路更深
力盡神疲無處覓
但聞風樹晩蝉吟

只管區區向外尋
不知脚底已泥深
幾廻芳草斜陽裏
一曲新豐空自吟
又      壊衲璉和尚
本無蹤跡是誰尋
誤入煙蘿深處深
手把鼻頭仝歸客
水邊林下自沈吟

從來不失 何用追尋

従来(じゅうらい)失(しっ)せず、何(なん)ぞ追尋(ついじん)を用(もち)いん。
背覚(はいかく)に由(よ)って、以(も)って疎(そ)と成(な)り、向塵(こうじん)に在(あ)って遂(つい)に失(しっ)す。
家山(かざん)漸(ますま)す遠(とお)く、岐路(きろ)俄(にわ)かに差(たが)う。
得失(とくしつ)熾然(しねん)として、是非(ぜひ)鋒起(ほうき)す。

茫茫(ぼうぼう)として草(くさ)を撥(はら)い去(さ)って追尋(ついじん)す
水(みず)闊(ひろ)く山(やま)遥(はるか)かにして路(みち)更(さら)に深(ふか)し
力(ちから)尽(つ)き神(しん)疲(つか)れて覓(もと)むるに処(ところ)無(な)し
ただ聞(きく)く楓樹(ふうじゅ)に晩蝉(ばんぜん)の吟(ぎん)ずるを
和(わ)する
只管(ひたすら)区区(くく)として外(そと)に向(むか)って尋(たず)ね
知(し)らず脚底(きゃくてい) 已(すで)に泥(どろ)深(ふか)きことを
幾廻(いくめぐり)か芳草(ほうそう)斜陽(しゃよう)の裏(うち)
一曲(いっきょく)の新豊(しんぽう) 空(むな)しく自(みずか)ら吟(ぎん)ず
又(また)      壊衲璉(えのうれん)和尚(おしょう)
本より蹤跡(しょうせき)無(な)し是(こ)れ誰(だれ)か尋(たづ)ぬる
誤(あやま)って煙蘿(えんら)の深(ふか)き処(ところ)の深(ふか)きに入()いる
手(て)に鼻頭(はなあたま)を把って 仝(もと)に帰(かえ)る客(きゃく)
水辺(みずべ)林下(りんげ)に自(みずから)沈吟(ちんぎん)す

従来(じゅうらい)失(しっ)せず、何(なん)ぞ追尋(ついじん)を用(もち)いん。

はじめから仏性を失っていないものを、どうして探し廻る必要があるのだろうか。探し求めようとする気持ち強く起こすから仏性が隠れ、せっかく持っているものに背を向けているから、大切なものを見失ってしまう。闇雲に探すから遠ざかり、理屈に囚われれば惑乱・葛藤する。本来、自分が果たすべき役割からは遠ざかり、人生の分かれ道にぶつかっては迷路にはまっていくのが現実である。
頌(しょう)とは仏徳をたたえる賛辞
果てしない煩悩を払い除けては仏性を探す。自分にないものを探せば探すほど、全く方向すら分からなくなった。疲労困憊して如何にすればよいか途方に暮れる。確かなのは楓樹に鳴く夕暮れの蝉の声が聞こえることである。
和する
ひたすらに慌ただしく外を探し回っているばかりで、自身の足元が深い泥の田んぼであることすらも気付けない。沈みゆく太陽の下、若草の薫るあたりで繰り返し、繰り返し豊作の歌の同じところをひとりむなしく歌っている。
さらに和する  壊衲璉和尚
もともと足跡なんてありはしなかったのに、探しているのはだれなのだろう。こちらが仙人の栖む蔦かずらの奥に迷い込んでいるだけなのだ。自らの手で牛の鼻面を掴まえて共に家路につく旅人が、池と森の辺(ほとり)で物思いにひとりで耽っている。

「自分にとっての大切なもの」に気づくことは難しい

「自分で自分を探す」とは「自分のことをよく知ること。」しかし、「自分にとっての大切なもの」に気づくことは難しい。
他人さまと比べて、自分に足りないものばかりを見てしまう。
さらに、知識や経験が増えてくると、自分が何をしたいのか分からなくなってしまう。

廓庵禪師『十牛圖』桜梅桃李
春は『桜の花』『梅の花』『桃の花』『李(すもも)に花』は競うことなく、それぞれが咲くべき時期に、咲かせるべき自らの木に美しい花を咲かせる。
それぞれが遠慮をしているわけでもなく、それでいて、相手の邪魔をしているわけでもなく個性を輝かせて季節を知らせてくれている。
Appleの創業者の故人へ「尊さと自分しかない良さは、自分自身とそれを支えてくれる人だけが理解してくれればよい。ニーズは他人が決めるかもしれないが、価値は自分でしか語れない。」と僕は伝えた。

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