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ハワイの恋が終わり苦しみの先に悟りへの道が開けた 2

第一章 1 りさのプロフィール




私の名前は徳川りさ。日本ではバブルが弾けてから数年経ち、日本の経済が回復しつつある。円が1ドル100円を割っていた頃にハワイに移住した。それから9年後には離婚をしたから、今はバツイチ。

私の生い立ちを話しておこう。

私はずっとクラシック音楽を勉強して、ロンドンの音楽大学の大学院に留学した。5歳の時からピアノを習い始めて、音楽専門の高校に入り、作曲を勉強した。私はクラシック音楽が好きだったのだろうか、と疑問に思う。音楽高校に入ってからは、一生懸命やった。それなりに成績も良かった。ただ、節目の時には、いつも他の道に行った方が良いのではないだろうか?と言う考えが頭を横切り、それを母親に話すたびに、打ち消された。

幼稚園の4歳児だった時に、まだピアノを習う前の記憶だ。年長組の教室前のオルガンで『猫ふんじゃった』を得意そうに弾いていた。あの時は、確かに音楽の才能があったし、楽しく弾いていた。今思えば、前世でピアノが弾けたのだと思う。そして、自分で作曲した歌を歌いながら、踊っていたものだった。

小学生に入って、クラシックバレエのストーリーのドラマ「赤い靴」のオープニングクレジットで、主役の女優のバレエを踊るシーンに合わせて踊った。その時間をとても楽しみに待っていた。その年のサンタクロースにトウシューズを頼んだ。クラシックバレエを習いたいと母に頼んだら母は言った。

「バレエでは大学に入れないでしょう?」

すでに二人のピアノの先生のレッスンと、週一のソルフェージュのクラス、月に一回は桐朋学園のソルフェージュの先生のクラスを受けさせられていた。母親が怖くて、どうしてもバレエをやりたいと言えなかった。あの時バレエを習っていたら、私は違う人生を歩んでいたと思う。

数日後に母は言った。

「トウシューズを探すのが大変だったのよ」

サンタクロースが空想だとわかった瞬間だった。私はバレエも習っていないのに、トウシューズを持っていた。いつしかトウシューズを手放した。

見えないものに関する私のこと。

私はずっと背が低かった。小学4年生で成長が止まった。神社に行った際には、身長が伸びますようにと神様にお願いした。母がぶら下がり健康器を買い(すぐに洗濯物を干したりして、無用の長物化した)バスケ部に入った。が、どちらも続かなかったので、それらが身長増進に効果が無いとも言えない。見えない事柄に話を戻すと、中学生三年の時に神様は願いを叶えてはくれないのだと悟った。両親が小さいという遺伝子はもちろんある。

雑誌の占い記事はかかさず読んでいたけれど、その頃は、星が何かについても知らなかったし、神についても考えたことがなかった。不思議な事にも遭遇しなかった。今思うと、死んだら星になるのよとか、星の元に行くとか、まんざら嘘でもないようなことがわかる。

小学3年生の時、眠ろうとして布団に入って居た時だった。何のきっかけかは覚えていないが、死んだらどうなるのだろうか。この体が焼けてしまうのだ、苦しいのだろうか、いや死んでからは感じないのだろうけど、この私はどうなるのだろうか。何もなくなるのだろうか。この想いは体を無くしてどうなるのか、すごく怖いと思いながら眠りにつくことは、何度かあった。そのうちに、答えが出ないから、人に聞くこともなく、考えなくなった。

祖父は神主だった。父は神主を継ぎはしなかったが、ずっとお宮で、宗教の中で育っていたのだから、信仰心がないわけがない。が、母が現実的な人間だった。母の実家は割合に裕福で、お寺の檀家だったが、彼女には信仰心が全くない。しかしながら母は、小さい頃からお坊さんが家に来るので、般若心経をそらで唱えられると、幼少のりさに自慢していた。彼女は般若心経の意味がわかっているとは思えなかった。家にはたくさんの京都のお寺の綺麗な写真入りの本が並んでいた。何度も仲間たちと京都や奈良に出向いていた彼女は何が学びたかったのだろう。

その宗教心のない母の影響で、私の家には神棚も仏壇もなかった。

父の話が出てこないのは、母のエネルギーと影響が強すぎているからだ。家が神社だった父は会社を経営しており、争いごとが嫌いな優しい人だ。神棚くらいは、祭りたかったに違いない。

私には、『見えないも』の、不思議体験は無いのだ。

結婚していた夫も現実派で、宗教心が無かった。そう言った考えの人たちに、長い間囲まれて生きていた。

なのに40歳を過ぎた頃から、私の魂に関する探究が始まることになる。


車内から写したダブルレインボー🌈🌈

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