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【読書記録】乳と卵

その切実さと不器用さがどこか懐かしくて、その感覚を忘れてしまっていたことに少し安心し、少しがっかりした。

読む前に

ヘヴンぶりの川上未映子さんの作品。本屋大賞ノミネート作品ではありませんが、2008年の第138回芥川賞受賞作ですね。
なんせ前回読んだのがヘヴンをだったので、少し身構えて読みました。

初めて読んで

知っていることと知らないことが不安定にごちゃまぜな時代。色んな事が不満で不安で、色んなことに怒り、おびえていた時期。そんな時間が私にもあったってことを、少しだけ思い出した。

この作品には、女しか出てこない。ほぼ三人の女だけしか登場しない時間。その時間が、二人の視点だけで描かれる。

女になってゆくということ、生まれた時から女であるということ。女という生き物、女としての生き方。
ジェンダーとか、フェミニズムとか、そういう次元の話ではない。思想とかではなくて、だた、生き物として ”生”、そして ”性” を持っているということに対する、純粋な、素朴な、疑問。そしてまっすぐな憤り。

意志と異なるところで勝手に身体が変化していくこと。生まれた時から、次の命を生む可能性をはらんでいること。それどころか、生まれた時点でこのどうしようもない身体というものが存在していること。選んだわけでもないのにその身体と共に生活を営まなければいけないこと。
納得できないその事実への、その事実に納得しているように見える人々への、いやもしかすると本当のところは何に対してなのか分からない、憤り。

絶望的な、おおげさな気分

生きているということについて、分からないから不安なのだろうか。分かっても不安なのだろうか。分かろうとするべきなのか、分からないままでいるべきなのか。生きてゆくことも不安で、死ぬことも怖い。

一般的に”思春期”と呼ばれる時期なのかもしれない、知識の深さや視野の広さみたいなもの、精神状態やなんかが、それぞれがそれぞれの速さで成長していく中で、どうしてもアンバランスになってしまうタイミングってあるはずで。この時期のそのアンバランスさって、すごいスピードで変化していく。
大人になって、なんとなくいろんなものを知った気になって、ある程度諦めることも覚えて、そしたら気にならなくなって、忘れていってしまうようなものが、どうしても、どうしても気になって引っかかって不快で仕方ないという時期ってあった。

そんな時に、どうしようもないぐちゃぐちゃの自分をさらけ出して、そのままで受け止めてもらえたら、どんなに安心するだろう。

私は、そのよく分からない不安感が、不快が、大の苦手だった。外ではわりかし優等生を演じていた (つもりだ) けれど、その分家では感情をすぐに爆発させて泣いては、怒られたり笑われたり慰められたりしていたような気がする (育てづらい子供で申し訳なかったです…)。はっきりとした反抗期はなかったけれど、逆に言えばずっと何かに反抗していたのかもしれない。「外面がいい」「内弁慶」「外と家での性格が違う」というようなことを母親に言われていた記憶がある。
親にとってはややこしくて面倒な子供だっただろうけど、今思い返してみると純粋で素直に馬鹿で、どうしようもない不安が常に外に溢れてしまっていたのだと思う。
もしもタイムマシンが出来て、過去にも未来にも作用することは出来ない (現在や未来を変えることは出来ない) という制約付きで過去か未来に行けるならば、迷わず過去を選ぶと思う。中学生ぐらいの私に会って、黙って抱きしめてあげたい。だいぶ気持ち悪い発想かもしれないけれど。

ほんまのことなんて

この物語の緑子ちゃんは、そんな私よりずっと大人で、ずっと冷静で、生まれてくるばかりで消えていくことのない不安を、そこに存在し続ける不条理を、自分だけで見つめ続けている。

物語の終盤で、全ての堰が切れたみたいになって、卵にまみれるシーンがあるのだけれど (読んだことない人にはなんのこっちゃわからんと思いますがご容赦を)、受精することのなかった命の可能性のかけらみたいなものをそこに感じて、同時にその感触を想像して、ぞわぞわとした気持ちになった。そしてそこに繰り広げられる、ぐっちゃぐちゃな光景に、少し気持ちよさも感じた。あぁもうなりふりなんてどうでもいいや、と、突き抜けてしまった後の、いっそすがすがしい感覚。少し違うけれど、とてつもない土砂降りの日に傘をさすのを諦めて、全身で雨を感じている時みたいな。

テンポ

作品の内容自体とは関係ないけれど、語り口 (というのかな?) が面白い作品だと思う。関西弁の、日記と、しゃべり口調っぽくまくしたてるような言葉の綴りで展開されていて。それが物語のなかに独特のテンポを生んでいて、勝手に物語のスピードに緩急が付く感じ。

関西弁で書かれた文章を読んでいるとき、関西出身じゃない人の頭の中でそれはどのように受容されているんだろうとか考えたりする。
一応関西の生まれである私は、関西弁で再生される。ただ、普段の読書は ”言葉” や ”文字” として頭の中にそのまま入ってくるのに対し、関西弁で書かれたものは関西弁の音声的なイメージへの変換が挟まるので、読むのに少し時間がかかる (計りようがないので確かではないかもしれないが、少なくともそんな気がしている)。
この間、谷崎潤一郎さんの卍を読んだのだけれど、時代背景への知識不足に加えてめちゃめちゃに大阪の語りだったことがあって、読み終えるまでにすっごく時間がかかった。

ともかく、この語り口だからこそ、ある意味での切実さとか、温度感みたいなものが感じられる部分もあると思うんだけれど、これって誰が読んでも一緒なのかな、と思ったりするのです。

今回はここまでです。
読んでくださった方、ありがとうございます。
昨日、どかんと空に浮かんでいる月に感激して写真を撮ったのですが、ケータイのカメラで何の技術もない私が撮った写真では、全くその存在感が切り取れず悲しい気持ちになりました。

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