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【読書記録】夜行

今回は、森見登美彦さんの、"夜行" です。

読む前に

突然ネガティブなところから始まるが、正直私は、森見登美彦さんの作品に苦手意識がある。
高校時代の友人が森見登美彦さんの本を好んで読んでいたことをきっかけに、私も何作か読んだ。どういう経緯で手に入れたのかさっぱり覚えていないが、夜は短し歩けよ乙女は所有している。
しかし、大学に入ってからは見かけても手に取ることはなくなってしまった。

理由の一つとして、その頃の私の世界の狭さがある。私が読んだ何作かには京都周辺の地理の詳細が出てきた記憶があるが、地元の田舎の世界しか知らない私には全く想像がつかなかったのだ。

もう一つの理由 (こちらの方が大きい) として、最初から最後まで「よく分からない」というのがある。ストーリーや語彙が難しいというよりも、全体的にけむに巻かれているような分からなさ。濃い霧の中に見えたものを必死にとらえようと目を凝らせば凝らすほど、どんどん霧が濃くなってゆくような不安感。しまいには自分がどこにいるのかも分からなくなってしまうような。そんな感じ。少し、怖いのかもしれなかった。私は、”狐に化かされるってこういう気持ちなんだろうな”と思っている。

初めて読んで

読みながら、ほらぁ、やっぱちょっと怖いやん、と思った。ふわふわした、地面がなくなってしまうような感じ。当たり前にそこにあると思って信じていたものが、まやかしだったみたいな、心細さ。これだ、心細さ。これだと思う。私が苦手な理由。

とまあ、ネガティブな感じで書いているけれど、久しぶりに読んだ森見登美彦さんの作品 ”夜行”、読み終わった感想としては、素直に面白かった、というのが正直なところ。私も少し、大人になったのかもしれない。得体の知れない不安感を、物語を読んでいる間だけに留めておけるようになったのかも。

不確かな世界

この作品に出てくる、夜行と暁光という対称の連作、それぞれが存在し、それぞれしか存在していない世界。
宇宙はずっと夜で、暗闇で、でも地球上では常にどこか一部で日が昇っている。対をなしているものは、二つでひとつなのかもしれないし、全く無関係のものなのかもしれない。私がこうしている瞬間に、どこか少しずれた世界線で、もう一人の私は生きているのかもしれない。この世にいて、本当に確かなことって、何なんだろう。

私が、個人的に本当に確かだと思っていることは、「生きているものはいつか死ぬこと」だ。そして、「私は生きているもの」であり、つまり「私はいつか死ぬ」ということ。三段論法というやつですな。
ただし、それが成り立つためには、今私は「生きて」いる、というのが私の中の前提として存在していなければならない。この物語を読んで思ったのは、もしかしたら、私が生きていると思っているのは、私だけなのかもしれない、ということだ。私は、本当は生きていないのかも。少なくともどこかには、私が生きていない世界線も存在しているのかも。そもそも私が生きていると認識しているのは、誰なんだろう。
私が認識している自己は、本当の私なのだろうか。今私が存在している世界は、生まれてきた世界と本当に同じもので、その延長線上にあるものなのだろうか。

本を読むだけで、私にとって唯一の”本当に確かなこと”を揺らいでしまうのだから、それは苦手意識を抱いても仕方ないだろう。

私がよく想像する、パラレルな世界に生きる自分、とは少し違うと思う。自分の選択の仕方で違う未来にたどり着いていくのとは違う。何かの手違いで、本当の場所から離れたところに落っこちてしまったような。この記事、比喩だらけだな、抽象的。ともかく、自身の意思とは違うところで、私の人生は操られているかもしれなくて、そのことに気づく術を、実は誰も持ち合わせていないのだな、という感じかな。
自分の認識している現実なんて、しょせん不確かなものなんだよってことなのかなあ。
世界は、魔境なのか。

自分の認識というもの

ある時、今日が昨日の続きであるということを不思議に思ったことがある。
昨日の記憶はある。記憶の中の昨日の日付に、一日足すとちゃんと今日の日付になる。携帯電話も、テレビの表示も、会社のパソコンも、紛れもなく今日の、同じ日の、同じ時刻を示している。だから自分は、大きな時間の流れの中の、今日、という地点にいることは間違いないのだけれど。昨日、と、今日、の自分がつながっていることが、つながっていると認識していることが、不思議だと思った。なぜ、昨日眠って、眠っている間の意識はなくて、それなのに目覚めた時に今日が昨日の続きだと分かるんだろう。

“自分の中の一番新しい記憶”と、”今”を、眠りというギャップで補正してつなげているとすれば、夢の中の記憶はどうして夢で、昨日の記憶はどうして昨日の記憶だと分かるんだろう。
昏睡状態に陥って眠っている間に1年たっていても、自分の認識ではそれは昨日と今日なのではないだろうか。だとすれば、こうやって今日が昨日になる日々を繰り返しているのは、全然当たり前のことなんかではないのではないか。

そんな考えにとりつかれていた時も、同じように、自分の認識している現実というものに自信がなくなったのを思い出した。

こんなことばかり考えていては生きてゆかれないので、日々にはこなすべき仕事があって、もっと身近で悩むべき事柄を常に何かしら抱えているのかもしれない。
実際、今考えてみても不思議だとは思うけれど、あの時の不安感はどこかへ行ってしまった。

よく分からない文章になってしまいましたが本日はこれでおしまいです。
読んでくださった方、ありがとうございます。
皆様の今日と私の今日が同じ時空間にあることを祈っています。

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