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【読書記録】ヘヴン

今回は、川上未映子さんの、"ヘヴン" です。

先に言っておきます。長いです。そしてあまり楽しい感じの文章ではないです。

読む前に

川上未映子さんの作品を、この方の作品だと意識して読んだことが無かったように思う。恐らく何作かは読んでいるはずだけれど。

初めて読んで

美しい言葉で美しく紡がれた文章なのに、なぜこんなにも読んでいて苦しいのだろうと思った。私は一体、どうやって生きればいいのだろうとも思った。いつの間にか大人になってしまった私は、誰のために、何ができるだろう。

選べることと選べないこと

この作品を読みながら、何と戦っているのかも定かではない、でも常に何かと戦っている少年少女たちに思いを馳せた。
小学校、中学校。閉じた社会で生活する彼ら。読みながら「どうして彼らはこんなにも賢いんだろう」と思ってしまった。”頼ってくれれば”、”言ってくれれば”、そんな言葉がテレビから今日も流れてくる。
だけどきっと彼らは、言葉では、それでは何も解決しないということを、知っている。経験からなのか、本能的なものなのか。ずっとこの先も、これからだってもっと酷いことが起こるかもしれないと彼らは知っている。なぜ。どうしてそんな風にあらねばならないのだろう。多分彼らが逃げ出したいのは、学校でも家でもなくて、世間であり、世界。

時間が解決してくれなくたって、根本の原因が解決されなくたって、少なくとも、環境が変わったら好転することって、あるのに。そうも思う。大人になった今だから、思う。そう思えるのは、今私の周りにいる人たちが、本当に素敵な人たちだからなんだろう。そういう場所もあるよってことを、どうすれば知らせてあげられるだろう。

今が最低か、これからもっと酷いことが起こるのか。

それは、たしかに誰も分からないけど、だからといって今より良くなることはない、と絶望する理由にはならない、そう思いたい。
少なくとも大人になると、見ないふりが上手になる。自分を傷つける人とは関わらない、そういう生き方を選べるようにもなる。
理解できないものを排除しようとする人は、どうしたっている。いじめることで、自分が有利に立つことで、安心しようとする人。でもそうするうちに、結局何がしたいのか分からなくなって、どんどんひどくなって、麻痺していって。そういうこともある。そういう人もいる。でもそういう人ばかりではない。
中学生という年頃がそうさせている部分もあるだろう。強く見えている人たちにだって、彼らには彼らなりの柔らかい部分が、傷つきやすい部分がある。中学生という年頃、周りにいる人の考え方や価値観。それは自分で望んで手にしているものでもなければ、コントロールできることでもない。
でも。ちゃんと痛みを理解できる中学生だって、この世にたくさん、いるのに。いるはずなのに。それでも狭い世界で傷つけ合いながら生きないといけない世界って何なんだろう。

正しさについて考えた

主人公が同級生にぶつけられた正論は、どこか何か間違っている気がするのに、やっぱり正論みたいで、苦しかった。私の感情が主人公側に入っていたからだろうか。「そういうことを言いたいんじゃない」と言ってやりたくなった。正しいとか、正しくないとか、いいとか、悪いとか。その基準はどうやって生まれてきたのだろう。誰の基準でこの世界は成り立っているんだろう。自分の身は、自分で守るしかないのか?つらい思いをする人は、身を守る力が足りていないということなのか。
そういう考え方もあると思う。でも、そういう理屈だけでこの世は成り立ってるんだとは思いたくなかった。そして実際、そうでないと思う。理屈とか理論とか、そういうものではない、何か分からない、よく分からないものたちが絡まり合ってできてるんだと思う。この世は。みんなみんなきっとどこか歪んでいる。それを隠したり、ぶつけあったり、歪み同士が絡み合ったりして、それが社会というものになってゆく。

違う人間であるということ

いじめはいけません、ただそういう話ではないんだと、思う。根本的に、本質的に他人と自分とでは見えている世界が違うのだ。彼らには彼らに見える世界があり、彼らの中に、それぞれのヘヴンがある。
他人と自分で見えているものが違う。ラストのシーンで僕が見た景色が、これまでのそれとまったく違ったのと同じほどに、根本的に。

生きていくうちに、自分の見え方が変わることもある。それによって何かを理解できるようになるかもしれないし、逆に分かり合えなくなる何かもあるかもしれない。弱者であることの強さ。強者であることの弱さ。自分と違う立場にある人について、想像力、で補えること、補えないこと。

関わらない、ということも、あるときには大切なんだと思う。多様性。多様性。と言われるけれど。多様であることを認めることと、多様な人全てと分かりあうことは、全く違うということ。多様性を大事にしましょうということは、自分とは異なる価値観で生きる人がたくさんいるということを知っておくということだと思う。認め合おう、分かりあおう、というのとは、また少し違うと思う。分かり合えないことがあってもいいと思う。認められない何かがあっても仕方ないと思う。ただ、相手にも同じ権利が、ううん、権利とかじゃない。相手も、同じ、人間であると想像しなければいけないと思う。相手も、呼吸をして、ご飯を食べて、眠って、転んだら痛いし、刺されたら死ぬ、人間である、ということ。

この先にあるもの

この物語の登場人物たちは、どうなってしまうんだろう、この先。大きくてあったかい人に出会って、どんな風であっても自分は自分なんだって思えるようになっていればいい。誰かを無理に見下したり、常に臨戦態勢でいたりせずに済むようになるといい。自分の人生を、自分にとって本当に必要で、本当に大事な人達によって構成される世界に生きられるようになればいい。

子供は、子供なりに賢くて、でも経験してきたことの量の分だけ、大人の方が分かっていることもある。だからこそ、大人が大人であるが故に持てる全てをもって、子供を守らなければいけないと思う。私はそういう風に思うから、だから、子供を傷つける事件が、すごく、すごく苦手だ。教員が生徒に…というようなニュースを耳にする度、怒りすら感じる。それがたとえどこの誰とも知らない人でも。「先生」という、教える、という立場を少なからず自分で選んでその仕事についているのに。他の事件のように上手に聞き流すことができない。どうして。と思ってしまう。どうして。

書きすぎた。溢れてしまった。
長々とすみませんという気持ち。
尻切れトンボですが書き疲れたので終わります。

最後に

こんな風に感情を思いのままに吐き出したものを、公開してしまってもよいのかと悩み、この文章、書いてから1か月ほど置いていました (本当はNote初めてすぐごろに書いた文章です)。
でも、何度読み返しても、これを、この文章をこれ以上私の中でどうこうすることは出来ないなと、思いました。ので、そのまま投稿することにします。

どこまでも自分よがりな文章ですが、読んでくださってありがとうございます。
今日という日も、皆さんにとって良い一日でありますように。


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