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2:生い立ち(社会人〜祖父の死)

家の畑に植えたほうれん草が芽を出し始めました。種を蒔くのが遅かったのでほっとしています。


今回は入社からひとつの転機までをお話したいと思います。(また長文です)

前回はこちら。


【入社〜若手時代】何もないと思いきや

入社からしばらくは研修と工場実習。
配属に至るまで自覚する大きなストレスはありませんでした。
が、このタイミングで受診した大腸がん検診で潜血ありの判定。
ああ、大学院時代と同じかなと考えて精密検査には行かず…今となってはありえない判断だなと思っています。

結局潰瘍性大腸炎と判明したのが10年後でした。

心当たりは環境の変化です。

初めての寮生活。
古さと遠さと激辛麻婆豆腐が出る食堂となかなかの寮でしたが、先輩や同期とのつながりができてよかったと思っています。
が、右も左もわからない、環境も違う土地で生活することが大きなストレスだったのでしょう。
ずっと実家暮らしだった反動ですね。

【若手時代】楽しい先行開発と苦しい製品開発

研修が終わり配属されたのは、会社の主流事業ではないOEM製品開発。その中で新機能ユニットの先行開発を任されました。
構造がプラモデルのような製品で、からくり好きな自分としては充実した楽しい日々を過ごしていました。
紙や粘土で味見試作して、よければ樹脂切削品による試作評価で採否判断。今であれば3Dプリンタで即ですね。

もちろん楽しいばかりではありません。

製品化ともなれば問題が山積。型成形品で組んでも性能が出ず悩んだり、個体差を確認する為先輩と夜遅くまで組み換え評価をして悩んだ記憶があります。

それでも、上司や先輩のフォローもあり不安になることもなく担当製品の製品化を果たすことができたのはよい経験でした。

【転機1】放ったらかしと祖父の死

そんな会社をやめようかと思ったことがこれまで2回あります。

1度目がとある製品開発時に祖父が亡くなったこと。

ここではメインではなくオプション品を得意先との共同開発として行っていました。

文化も思想も違う得意先の担当者とひとつひとつ形状寸法をすり合わせながら形にしていきました。
そうしてたどり着いた型着手への設計審査後の出図確認で部長が一言。

「俺はこのオプション品の存在を聞いてない。これだけ審査をやり直せ」

型手配の日程は決まっているわけですから、設計審査をゼロからやり直すには絶望的な日程感でした。
しかし、製品設計責任者からの応援はなし。

え、放ったらかし?毎回打ち合わせも出て進捗共有もしてるのになぜ?

先輩とふたりで突貫作業をすることとなりました。

残業の許されるギリギリで準備して乗り切った心身ともにきつい夏の1週間。
心にモヤモヤが残ったことは覚えています。

祖父が亡くなったのはその年の秋でした。
亡骸と対面して、自分でも信じられないくらい涙が出ました。

よく虫取りしたなぁ。
将棋では100回に1回も勝てただろうか。
かっこいい自転車も買ってくれて嬉しかったなぁ。

そんな中、葬儀では数年ぶりに父親とも対面。
だいぶ老け込んだ印象でしたが、出てくる感情はほとんど怒りでした。
失踪時のいざこざが尾を引いていた為です。

葬儀後にトンボ返りして考えたのがこの先のこと。

実家は祖母と母だけになってしまいます。
そして夏の心のモヤモヤ。
自分はこのままここで頑張るべきか。
それとも地元に戻って実家を支えるべきか。

そんなことを考えていたタイミングで入社時初めての上司が転職することに。
送別会の後の帰り道、悩みを打ち明けました。
返ってきたのは「よく考えて、やりたいようにやればいい」とのアドバイス。

やりたいことは…
ものづくりで人を笑顔にすること。
何の為にここに来たのか。帰っても何もできないよな。
このまま残って頑張ることを決めました。

この判断がよくも悪くも自分に新たな、そして大きな転機をもたらします。


今回も長文となりましたが、最後まで目を通していただいた方々に感謝申し上げます。

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