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【エッセイ】マインドフルネスの聖地は白だった





【はじめに 僕にとっての白】


世の中に白は200色あるらしい。

そんな白に、あなたはどんなものを連想する
だろうか。

夏のもくもくとした入道雲。
南国の白い砂浜。
陰影のあるしっくいの壁。
白衣の天使。いや、悪魔かもしれない。

僕にとって白といえば、「雪」だ。

水蒸気が冷やされて結晶化して、様々な形で
地面に舞いおり世界を白くそめる壮大さ。
それでいて、手に取ると体温で消えるはかなさ。

そんな不思議な自然現象にたくさんふれて、僕は
大きくなった。

故郷は北海道、札幌。

JRタワー展望台から見た札幌駅周辺(23年2月撮影)

最近は北海道もエアコンがないと過ごせないほど
夏は暑くなり、秋は短くなった。

冬は相変わらず長い。

雪は早ければ10月終わりから降りはじめ
12月には春まで溶けない「根雪」となる。

冬は一面、真っ白な世界に包まれる。

それが3月の終わりに向かって少しずつ緑を
取りもどす。
雪解けとともにふきのとうが顔を出す。

雪は北海道にとって貴重な観光資源だ。

雪まつりでは自衛隊や市民が作った大雪像が
観光客を魅了し、山ではパウダースノーが
スキーヤー、スノーボーダーを魅了する。

今や、北海道は日本だけでなく世界から
注目される観光地だ。
F1チャンピオンであるハミルトンや
フェルスタッペンもお忍びでスキー旅行に
来るほどなのだから。

ちなみに小さい頃、
雪まつりはインフルエンザにかかりに行く
イベントだ、テレビで楽しめと言われたことが
ある。実際にその頃が毎年インフルエンザの
ピークだった。

コロナ禍を経て、その傾向はさらに強まって
いるかもしれない。


【第1章 雪とともに育った僕】


物心ついたときから、冬に雪があるのは当たり前
だった。

***
耳当てのついた帽子を被り、つなぎのウェアを着て、ぼっこ手袋と長靴を履く。長靴にはウェアと
長靴との隙間をふさぐカバーをつけて完全防備。
この格好は今もほとんど変わらない。

娘の雪遊び。完全防備。(23年1月撮影)

小学校低学年まで登下校はこの格好だった。
そして友達との登下校は移動遊び場と化す。
もちろん、いけないことも含めて。

雪合戦は当たり前。
(たまに雪玉に氷塊を入れる危険児たち)

誰がツルツル真円の雪玉を作れるかの勝負。
(傑作を置いておくと翌日には割れている不思議)

除雪でできた車道沿いの雪山登山でスリルを
味わう。(当然禁止事項)

軒先にできた大きなツララでチャンバラもした。
(落雪注意)

この頃が自分の中で一番のワルな時期だったかも
しれない。
でもこれが心底楽しかったのだ。

何のしがらみもない、自由なひとときだった。

***
札幌の各小学校では冬休みのうちに
グラウンドに雪山が作られる。
冬の風物詩である。
標高は5m程だろうか。

目的は低学年のスキー授業なのだが
給食後の昼休みには早い者勝ちでゲットした
タイヤチューブで滑って遊ぶ。
爽快そのもの。

争奪戦に負けると、米袋と新聞紙で作った
簡易ソリに甘んじる。

格差社会をリアルに味わう。

***
学年が上がるにつれ、スキー授業は
本物のスキー場へと場所を変える。

住んでいたのが札幌オリンピック会場の
山の麓であった為、小学校低学年の頃には
おじさん達にそのスキー場へ連れて行って
もらい、いとことスキーを楽しんだ。

同い年のいとこは怖いもの知らずで
急斜面を直滑降で飛ばす。
スノーボードもそつなくこなす。

ビビリで運動オンチの僕は
一向に緩斜面以外のパラレルターンすら
できなかった。

未だウェーデルンはあこがれのままである。

***
雪道運転はおてのもの。
急のつく運転行為はNGだ。
それさえ守れば怖くない…わけではない。

信号付近や駅のロータリーはよく磨かれた
アイススケートと化し、四駆の軽でも低速で
ドリフトがたのしめた。せざるを得なかった。

また、ブレーキで止まらず何度ヒヤッとした
ことか。

悪いことは言わない。
雪道運転は経験者に任せよう。

***
冬は楽しいエピソードだけではない。

大学入試当日に一晩で膝まで降った大雪。
鉄道がストップし、どこかで小銭入れを
落としながらダッシュとバスと地下鉄で
試験会場に向かった。

試験時間繰り下げに救われたが、不合格。
(大雪に関係なく実力不足)
結局入学まで余分に1年かかった。
入学できただけよかった。

研究室からの帰り、抜け道となる大学構内の
農場をショートカットしようとして
何度もホワイトアウトに遭った。
本当に10m先でさえ何も見えない、勘が頼りの
行軍だった。

穏やかな日があれば、ドカ雪の日もある。
帰省中に見事に大雪に遭い、一日3〜5回
ほどの雪かきをして、筋肉痛、腰痛になった。

実家の雪かきはスペースが駐車場3台分。
土木作業員だったじいちゃんがこれを
毎日やっていたのに感服した。

ツルツル路面を忍者のように歩く術を
こころえていても、何度転んだことか。
しかも幹線道路の横断歩道が一番危ない。
尻もちをつき、尾てい骨に走る激痛。

***
少し考えただけでも
この地でないとできない、これだけのことを
経験してきた。


【第2章 雪とマインドフルネス】


そんな雪であるが
僕のこころを「無にしてくれる」特別な存在だ。

***
雪は曇天から
時にはヒラヒラ綿のように舞いおり、
時には横なぐりの真っ白な世界となり、
時には小粒の弾丸がアラレとしてたたきつける。

僕はヒラヒラ舞い降りる雪を実家の
窓越しに見るのが大好きだ。

どれひとつとして同じ形のない綿状の白が
これまたどれひとつとして
同じ軌道を通らずに舞い落ちる。

それを、ただ ただ 見上げる。

このときばかりは
勉強、研究、仕事や人間関係の悩みも
そばでかかっているテレビの音も
母の作る夕飯の香りも
何も頭に入ってこない。

短時間だが
何よりも心を落ちつける
視覚のみに集中した世界。

これが1つ目の「無」である。

***
もうひとつは、雪が降りしきった後の
暗く冷え切った晴天の夜の世界だ。

放射冷却により、肌の感覚は寒さを通り越して
痛みに近い張りつめたものへと変わっていく。

そして、そこを歩くと「ぎゅっ、ぎゅっ」
という新雪を踏みしめる音がリズミカルに
聞こえる。

この触覚と聴覚だけでもたらされる
そこは、まさに透き通った世界。

これが2つ目の「無」である。

***
この2つの「無」は、マインドフルネスだ。

メンタルを壊してからマインドフルネスの
存在を知り、実践してきた。
でも、うまくいかないと思っていた。

何だ、昔からやっていたんだ。

僕にとって
マインドフルネスの聖地は、白い故郷だった。

実は、40年と少しの人生の中で、地元の冬を
体感できなかった年が1年だけある。

20〜21年、コロナ禍まっただ中。

奇しくもこの年、不安障害の診断を受けた。

もし、帰省して雪を見上げることが
できていたなら、その後の人生は
うつ病の今と違ったものになっていたのだろうか。


【第3章 雪のない我が家と郷愁】


今住んでいる地は雪が降らない。
降っても年に1度か2度、白く化粧をする
程度の雪が大ニュースになるほどである。

雪が降ると娘と一緒にワクワクする。
明日の朝、どのくらい積もっているかな。
それは、子どもの頃と変わらない。

だけど、
空を見上げても
肌を風に晒しても
地面を踏みしめても
「無」になることはない。

この地には「冬」がない。
ただただ寒い、秋が続くだけだ。
やっぱり、冬、雪、白のある日常が恋しい。

自分はどうしたいのか。
帰るのか。
帰らないのか。
何度も何度も考えた。
特に、じいちゃんが亡くなって実家に
ばあちゃんと母だけになってからは。

言うまでもない。帰りたい。
地元の床屋のマスターに言われる
「帰っておいで」がいつもこころに刺さる。

でも、仕事とお金の面を考えるときびしい。
さらに、今は家族がいる。
仕事、学校、家。
僕の人生の基盤のすべてが今の地にある。

さらに、今の地にない地元の生活の厳しさがある。
それを知らない妻子を連れていくのか?

さらにうつ病を患う今、環境を変えていいのか?

もう、何かが大きく変わらない限り
「帰る」とは言えない。

つまり、自ずと答えは1つなのだ。

今年、ばあちゃんは卒寿、母は古希を迎える。
ふたりとも、すっかり頭が白くなった。
いつかはわからないが、誰にも「最期」は
必ずやってくる。
そろそろ目を背けられなくなってきた。

帰らないと、帰る場所がなくなる。
自由研究で模型まで作った
大好きな白い壁の実家。

それがなくなる日は、確実に近づいている。

帰りたい。帰りたい。帰れない。


【第4章 雪とともに遺す志】

唯一、妻にお願いしていることがある。

もしいつか僕が先に死んだら、遺灰を
できるだけ故郷の近くに撒いてほしいこと。

父の葬儀で知ったが、今は合同墓も
灰の海洋散骨もある。

いずれ、娘にもお願いしなくちゃいけないな。

僕が「かえる」ところは
やはり冬に雪の積もる白い世界だ。

それだけは今もこの先も変わらない。


【おわりに あなたにとっての白】

白という色。
光の三原色を均等に混ぜると生じる唯一無二の色。

赤ちゃんの心のような色。

改めて、あなたは白にどんなものを連想する
だろうか?


(了)

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