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#平成最後の夏 は何も正しくない


私は今、自分を振った恋人と一緒に住んでいる。


家は幸いにも3LDKだ。それぞれの部屋がきちんとある。

わたしは帰宅すればすぐにシャワーを浴びてそのまま自分の部屋に入りドアを閉めて夜を過ごすし、彼もそんな感じだ。

だけど、キッチンには彼の食の趣味に合わせて揃えたまま放置されている調味料が出番を待ちわびながら静かにこちらを見ているし、私の部屋にも彼の部屋にも変わらずいままでと同じ場所にペアリングが置いてある。

変わったことと言えば、いってらっしゃいとただいまのハグとキスがなくなったことと、一緒にテレビを見なくなったことと、彼のために料理をしなくなったことと、目が合うだけで胸が苦しく感じるようになったことと、自転車がパンクしたとき彼に相談しないで自転車屋さんに持っていくようになったことと、彼も私もお互いがどこに行くのか何をしているのかわからないようになったことと、暑苦しい夏の夜に暑い暑いと言いながら抱き合って眠ることがなくなったこと、そして何の脈絡もなくふいに好きだと伝え合うことがなくなったことだ。

リビングには「ずっと一緒にいられますように」と恋愛に強い神社でふたりでお参りしたときに買った破魔矢が横たわっている。叶えたい恋を大切に抱きしめてあたためている女の子たちがこぞって行くこの神社。やはり効果はとても強いようだ。だって私たちは今も「一緒にいる」。


そばにいるのに一番遠いなんて、そんなふうに感じる日が来るとは思わなかった。

今のこの感情が「情」なのか私には本気でわからない。


新しい家を見つけ、手続きをして、審査を無事に終えて、あとは最後の書類を提出するだけになり「家が見つかったから引っ越すね」と話を切り出した日の晩、彼は「さみしい」と言って私を抱きしめた。

「正直自分の気持ちがわからない。絶対寄りを戻すことはないと思っていたけど、わからない。離れるのは嫌だ。」と。

…なんで。

ぶん殴りたい気持ちとひさしぶりに抱きしめられたその懐かしい暖かさが入り混じってよくわからなくてうまく笑い飛ばせないまま涙が出てしまって困った。

ダメな彼、と言っている私もやっぱりダメな女だった。

離れたほうがいいのは100も承知だ。さみしいと言ったって今すぐに寄りを戻そうとは彼は言わない。そばにいるほど苦しい。家に帰っても心は休まらない。何度も何度もかさぶたを剥がされるようなことが起こる毎日だ。でも、このまま家を出たら、私は一生後悔する。そう思ってしまった。8月16日に引っ越すはずだった私は、まだ彼とふたりで借りたこの家にいる。


曖昧な彼につられて、私もどんどん曖昧になっている。

カカオトークからLINEに変わったあの人とは今も続いていて、「彼を忘れる」ためだった気持ちが、単純に「あの人に会いたい」に変わる夜すらある。セックスをするためだけという自分の中のルールは崩れはじめ、この間はセックスのセの字もない穏やかなランチなどしてしまった。



今の私はきっと、何も正しくない。

けれど、だからこそいつか正しさを知れる。

ずっと正しさのなかにいたら、わからないのだ。

嫌われないように、道を踏み外さないように、人を傷つけないように。そう思って生きてきた25年間を、このたった2ヵ月で容赦なくぶっ飛ばしひっくり返した私のことを、私は甘やかすことにした。



平成最後の夏の、生温い空気を吸って 大きく吐く

これが溜息ではなく、深呼吸であることに少しの安心を覚えながら。





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