場所を変える、という話


中学校の同窓会の知らせが届いたので、これを書こうと思う。


私は学生時代、一度だけ転校をした。中学三年生の一学期のはじまりに、しかも私立の中学校から公立の中学校へというとてつもなくアウェーな状況での転校だった。

原因は、所謂「いじめ」だ。

トイレの個室に閉じ込められて上からバケツの水をぶっかけられたりだとか、机の上に花瓶の花が置いてあったりだとか、靴の中に画びょうを入れられたりだとか、そういった「派手」な類のものではない。いじめに派手もクソもないのだけど、確かに差はあるのだ。私へのいじめは、「地味」だった。

派手ないじめを敢えて見逃す事例が多い中、地味ないじめなんてのは到底気付かれない。気付かれないのか見て見ぬふりをされているのか。

少なくとも私の場合は後者だった。


すれ違いざまに何人ものクラスメイトに「死ね」という言葉を呟かれる。授業中は教員の目を盗みこちらを振り返りながら何かをコソコソと話され笑われる。机の中にはお茶でびちゃびちゃになった紙が入っている。回ってくるプリントにはもれなく落書きがしてある。歩いていれば転ばない程度にぶつかられるし、休み時間には隅にいる私へ向けて聞こえるような大きな声で「床重ってこのクラスに一番いらない存在だよね」と叫ばれる。

ああ、そういえばいくつもノートを更新しているのになんの自己紹介もしないままだったことを思い出した。どうもはじめまして、私は床重(とこのえ)といいます。


そんなこんなでクラスに一番いらない存在の床重さんは、まんまと精神を病んだわけである。朝起きれば自然と涙が出る。パジャマを脱ぎながら、着替えながら、歯を磨きながら、学校に行かなくてはと考え、家を出る時間が近づくにつれ胃がひきつるように痛む。ずっと胃潰瘍が治らないまま、いつも胃薬を飲んでいた。

このとき、私は涙と嗚咽は必ずしもセットではないことを知った。朝の支度をする間、絶え間なく涙は流れているのに、表情筋はひとつも動かなかった。喉がしゃくりあげることもなかった。ただ、涙だけが流れていた。

今思えば、異常だった。容易にわかることだ。だけど、あの時の私には学校が、二年三組のあの教室が、世界のすべてだった。ここで生きていけなくては、死ぬしかないと思っていたのだ。

なにが一番ダメージが大きかったって、身体的な傷は一切負わされないことだった。証拠がない。それを、私に色々やらかしてきた彼らもちゃんとわかっていた。教員は、証拠がなければ動かない。


どうにもできず、胃薬を飲みながら涙を止めながら学校に通い続けていた私が、ついに学校に行けなくなったのは、唯一の「クラス内の友人」と本を読んでいるときだった。

いつものように教室の隅から「いらない人間スピーチ」が始まったとき、私はどうにかごまかしたくて「またあんなこと言われちゃってるよ」と笑いながらその子に言ったのだ。

そうしたら彼女は、「なにが?」と言ったのだ。私と目を合わさずに。


次の日の朝、身支度をしている時、私は嘔吐した。

もう、だめだった。


直接「いらない人間だ」と彼らに言われているより、目の前のその子に私の痛みを“なかったこと”にされるほうが何百倍もキツいことだった。

洗面台で嘔吐し、号泣する私を見つけたのは母だった。

なにをどう喋ったのかは覚えていない。もう嫌だ、死にたい、行きたくない、とほぼ泣き叫んでいただけで、なにも聞き取れるような言葉ではなかったと思う。それでも母は全てを理解して…というより、なんとなく何かには気付いていたのだと思う。

ずっと黙って私の背をさすっていた手を止め、はっきりと強い声で「そんなところ、行かなくていい」と言った。


そこからはほんとうに早くて、あれよあれよという間に私の転校が決まった。完全に無気力になってしまった私に代わり、母がものすごい早さで色々なことを動かしてくれたのだ。

少しでも私が逃げなのではないかと転校を迷うと「あんなところはねえ、こっちから願い下げなのよ」と怒っていた。決して一度も「逃げていいのよ」とは言わなかった。それが本当に、私にとっては救いだった。


いじめに対しての救済方法として「逃げ」という言葉を使うことは、全くもって正しいことではないと思う。


もっと素敵なところへ「場所を変える」だけなのだ。


私のいじめの発端の原因は教員にあったのだけど、その担任は転校に最後まで反対をし、学校に私を呼び出し転校理由を聞いた。私が震えながら「いじめにあったからです」というと「いつ?どんなふうに?だれに?クラス会議を開こう」と返してきた。挙句の果てには「いじめじゃなくてからかいでしょ?いじられキャラってことじゃない?愛されてるじゃん!元気出していこう」と言い放ったのだ。




結局私は「勉学のため」と言うよくわからない理由で転校して、その転校先で今の仕事に繋がる縁を得ている。なので、なるべくしてなったことなのだと今は思っている。

しかし「いじめを乗り越え強くなれたので、あの環境には感謝しています。あれがあったから今の私がある」なんていうお手本のようないいことは口が裂けても言えない。あの時私に何かした人間、担任、全てぶん殴りたいし、殺すより私と同じ目に合えばいいと思うし、鼻毛を一本一本抜いてやりたいし、ていうかいつか絶対全員社会的に抹殺してやる とめちゃくちゃ根に持っている。

でも、たぶん私が思い浮かべられる全員、いじめどころか私のこと自体もう忘れているのだ。どっからか私の連絡先を探し当てて同窓会の知らせを送ってきたのは、あのときクラスで「いらない人間スピーチ」を聞いていたであろうクラスメイトだった。最高のクラスだった三組~と。「三年のときは~」という思い出エピソード付きで。三年のとき、いねえよ、私。

いじめからは10年が経って、私ももうこうして文章に起こせるようになっているけれど、今でも、ふいに中学生くらいの子たちの笑い声が聞こえるとびくりとする時がある。曲がり角で急にその年くらいの男の子の集団が現れると心臓がばくばくとして冷汗がでる。

たった一年だった。だけど、十代という、自分が形成されていく時期に真っ向からただ生きていることを否定されるというのはあまりに酷だ。かさぶたができて自然に剥がれ落ちても、痕は残る。永遠に。心にも効くアットノンみたいなやつがあればいいんだけど、なかなか難しい。なにより身体が否応なしに反応してしまう。

私は母が寄り添ってくれたのでこうして立ち直ったけれど、転校なんてそうそうできる環境下にないまま苦しんでいる人も多くいると思う。そんな人を全員救えるような力は私には到底ない。「どうか生きて」なんて言えるようなアレでもない。

ただ、今私は沢山のひとに助けてもらい、ご縁をいただきながら、やりたい仕事をやって生きている。母に恩返しができるようにと、社会で楽しく戦っている。

今すぐに「素敵な場所」へ行くことができなくても、いずれ絶対に自由に動けるときがくる。

たとえば、「不登校」なんて言い方をされるから逃げのように聞こえる。悪いことのように聞こえる。でも、いじめを受けた側にとって学校に行かないことは戦い方のひとつだ。逃げじゃない。

不当な心、身体への暴力を受けたとき。それでこちらが場所を移すことになったとき。それに後ろめたさを感じるとき。心の中でこう啖呵をきってほしいと思う。

「そんなのはねえ、こっちから願い下げなのよ」と。





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