「まがり角のウェンディ」第1話(全18話)
Ⅰ ー 1
ノートの上に、一本のペンがある。
手が伸びてきてペンを握る。開かれた白いページに影が落ちた。
手が、文章を書き始める。ペン先と紙が擦れ、乾いた音を立てる。文字を綴る音のほかは時折りページをめくる音がするだけだ。
手が、文章を書いている。音を立てながら文字が並んでいく。やがて手は止まり、乗り出していた上体が起こされたことで紙面の影は消えた。
「んんー」
伸びをして背中の強張りをほどき、出来上がったばかりの文章を見下ろす。
……信也は深くため息をつき、目を閉じた。
河原のほうから中高生と思われる少女たちの弾むような話し声が聞こえてくる。犬が吠える。自転車のベルが鳴る。バットにボールが当たる音。歓声。
ゆっくり瞼を開くと、緩慢な動作でノートを閉じた。それからおもむろに床に散らばっているノートを段ボール箱に詰め始める。
段ボール箱の蓋を閉めたら、心も密閉された気がした。
今日はここまでにしよう。
亜美は、静かにノートを閉じた。
「亜美ー」
「はーい」
階下からの父の声に返事をする。亜美は立ち上がってから、まだ制服のままだったことに気がついた。慌てて部屋着に着替えようとして、ふと、手が止まる。この制服を着るのもあとひと月あまりだ。
カレンダーに目をやって残された日にちを数えていると、再び父の声がした。
「亜美ー。ご飯よそっちゃうぞー」
「わかったー。いま行くー」
急いで着替えを終え、部屋をあとにする。一階におりると、メイクを落とした母が洗面所から出てきたところだった。コンタクトレンズからメガネにかけ替えている。ジャケットを脱いだだけのスーツ姿だから、食後すぐに入浴するつもりなのだろう。
「お母さん、おかえりなさい」
「ただいま」
すれ違いざまに母は亜美の頬を優しく撫でた。入れ替わりに洗面所の鏡の前に立つ。かすかに残っていたメイク落としの匂いは、泡立てたハンドソープの香りに隠れた。
ダイニングから両親の笑みを含んだ声が聞こえてくる。
手洗いを済ませて席につくと、すでに味噌汁もお茶も用意されていた。
「いただきます」
三人は、声を揃えた。
テーブルの真ん中に置かれた深鉢には鶏と野菜の煮物が盛られていて、まだ湯気が立っている。その湯気の向こう側で、母が料理に箸を伸ばしながら父に尋ねた。
「それでどうしたの?」
どうやら亜美が席につく前からの話が続いているようだ。
「一度ドアを閉めて、いなくなるのを待ったよ」
聞けば、夕方、父が買い物に出ようとしたとき、玄関先で猫が昼寝をしていてドアを細くしか開けられなかったのだという。一声かければ逃げ出したものと思われるが、父は静かにドアを閉めて猫が去るのを待ったらしい。
話を聞き終えた母は呆れることもなく、「大変だったのね」と言った。
父はひとつ頷いて、「タロウの眠りを邪魔したら悪いからね」と答えた。
タロウというのは猫の名だ。この辺りは地域猫が多く亜美も五匹くらいなら見分けがつく。父はその猫たちを勝手に名付けた。タロウからゴロウまで。もちろん我が家でしか通用しない名だ。しかも、タロウは雌猫だ。このネーミングセンスでよくライターなどという仕事ができるものだと思う。
そう。父は在宅でライターをしている。たまに打ち合わせだとかで外出することもあるが、たいていはメールと電話で済ませているようだ。そのため、依頼のあった原稿を仕上げつつ、家事全般をこなしている。
幼い頃の亜美は、いつも仕事中の父の横に座り、見よう見まねで自分が文字と信じている線を書き続けていた。父の手元を覗いては、「これ、なんて書いてあるの?」などと問いかけもした。煩わしかっただろうに父に邪険にされた記憶はない。それどころか尋ねた文字の書き方まで教えてもらえた。おかげで亜美がひらがなをすべて書けるようになったのは、同い年の子たちよりも遥かに早かった。
「そうだ。卒業式の日、休暇とれたわよ」
「本当? じゃあ、お母さんも来てくれるの?」
父は在宅ワークだが、母はオフィス勤めをしている。母がどのような仕事をしているのか詳しくは知らない。部下がいるみたいだから役職についているのだろうという認識しかない。いずれにしても毎日とても忙しそうで、学校の行事に顔を出すことは滅多になかった。期待の眼差しを向けると、母は大きく微笑んだ。
「亜美の晴れ姿を楽しみにしてるわ」
「晴れ姿だなんて大袈裟だよ」
高校の卒業式で、亜美は答辞を読むことになっていた。
国語の成績は悪くないし、作文も得意だ。それで代表に選ばれたのだろう。学校では内緒だけれど気紛れに小説を書いたりもしている。書くことは好きだ。答辞の立候補者を募ったが誰も名乗り出なかったと聞き、それならばと快く引き受けたのだった。
「お父さんが下書きを見てやろうか?」
「あら、いいじゃない。亜美、そうしてもらいなさいよ」
「待ってよ。まだ完成してないってば」
「のんびりしていて間に合うのか? 読む練習だってしなければならないだろ?」
「スピーチのコツだったら、お母さんだって教えてあげられるわよ」
「二人とも心配しすぎ。平気です。これでも文章を書くのは得意なんだから」
亜美は笑顔を作り、念を押すようにさらに一言つけくわえた。
「ご飯を食べたら、また書きますよ」
食事を終えた亜美は、自室のベッドに倒れこんだ。
両親の前では気丈に振る舞ってみたものの、実はまだ、ほとんど答辞を書けていなかった。小説ならいくらでも書けるのに、答辞となると納得のいく文章が思い付かない。
学校で過去の原稿を見せてもらったこともあるが、いろいろ読んでしまった分なにを書いても誰かの真似をしているような気がして、かえって筆が進まなくなってしまった。ほかの生徒は過去の卒業式なんて知らないのだから、そんなに悩まなくてもいいのだとはわかっている。でも、ほかの誰でもない、自分らしい内容にしたいと思う。
それに、友達はみんな亜美の父がライターだと知っているから、さすが親子だねと思われたい気持ちがないわけでもない。
責任とプライドが邪魔をして、なにをどう書けばいいのかわからなくなっていた。もう何日も、書いては消し、書いては消し、と繰り返している。家で書こうとするからいけないのかもしれないと考え、教室や図書館などでノートを開いてみても、やはり言葉は浮かんでこない。
クラスの雰囲気もそわそわし始め、いよいよ卒業が近いことを実感する。
このままでは間に合わないという思いが日々大きくなっていく。
だけど、引き受けた以上はやっぱりできませんなどと言えるはずもない。言ったところでいまさら誰かに代わってもらえるわけでもない。
受験が終わった頃から授業らしい授業もなくなり、みんなは残された高校生活を大切に味わっているように見えた。時折り、「答辞進んでる?」とか「頑張ってね」などと声をかけてくれる人もいるが、亜美は、「まあね」とか「ありがとう」としか返せない。ほとんど書けていないという事実は亜美の口から語られることはない。
やるしかない。書くしかない。だけどなんでもいいわけじゃない。何度も自分に言い聞かせる。気持ちだけが昂って、時間だけが過ぎていく。
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