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「まがり角のウェンディ」第7話(全18話)

Ⅱ ー 1

 亜美は、カフェテリアに向かう廊下で予鈴を聞いた。カフェテリアが近づくと、席を立つ音が騒がしく響く。授業に向かう学生たちが絶え間なく出てくるため、亜美は出入口の壁際に背をつけて道をあけた。
 人波が途切れたところで中に足を踏み入れる。ナチュラルメープル色を基調とした空間にガラス張りの壁面から光が差し込んでいた。カフェテリアは光が溢れすぎていて、目がくらむ。眩しさに目が慣れるまでしばし壁際にたたずむ。
 明るさに馴染んで見渡せるようになってもまだ人の動きは続いていて、友人に手を振り出口に向かう人のほか、中庭へ続くドアを抜け各々の校舎へと消えていく姿もある。
 もちろん席に残った者もいる。けれどもその中に目当ての姿はない。再度ゆっくりと見渡してからテラス席の並ぶ中庭に出る。

 すっかり葉桜になった木陰のテーブルに、その姿を認めた。友人を見送った笑顔の残る口元に紙コップを運ぼうとしているところだった。

「恵介」

 歩み寄りながら声をかけると、恵介は紙コップをテーブルに戻して片手をあげた。

「やあ。お疲れさま、亜美」

 恵介が隣の椅子を引き、亜美は短くお礼を言って腰を下ろした。

「ほんと疲れたよ。三年生になった途端、演習ばっかりなんだもん」
「必修?」
「選択必修。でもどれを選んでも演習なの。講義だけだった頃が懐かしいよ」
「そうか。大変だな」

 うん、と頷いたあとはもう話を続けられなくなってしまう。まだ新しい授業は始まったばかりだし、実のところ、そこまできついわけではない。だけど、たまに小石でも投げ入れて波紋を起こさないと、凪いだままでは氷を張ってしまいそうな気がしてしまう。そこは風も吹かない湖で、亜美だけが小石を投げてもたちまち水面は滑らかになる。

「これ飲んだら行こうか」
「まだ飲み終わってないなら急がなくていいよ。わたしもなにか買ってこようかな」

 財布片手に席を離れようとしたときだった。

「あ、亜美。ちょうどいいところにいた!」

 同じゼミの人だ。まだ、すぐには名前が出てこない。笑顔で間をつなぎながら頭の中の名簿を素早くめくる。名前が脳裏に浮かんだところで、「お願い!」と拝まれる。

「亜美って次の国語学演習取ってるよね?」
「え? あ、うん。取ってるけど」
「よかった。代返しておいて。わたし、これからバイトなの。うっかりシフト入れちゃって。この時間シフト薄いから休むとやばいんだ」
「でもわたし、今日は……」
「ほんと、ごめん。今度ランチおごるから」

 かなり急いでいるらしく、最後のほうはすでに走り出して叫んでいた。手を振りながら去っていく姿に、慌てて声をかける。

「あのっ! ちょっと待って!」

 駆けだそうと二、三歩踏み出したが、追い付けそうもないことに気づき足を止めた。振り向くと、恵介が優しい笑みを浮かべていた。

「頼まれちゃったね」
「どうしよう……あ、でも連絡先交換してあったかも。断ろうかな。どう思う?」

 スマートフォンを取り出しながら、恵介を窺う。
 今日は三限を欠席して恵介の部屋でパスタを作るはずだった。手料理をごちそうすると約束したものの、なかなか空き時間が重ならず、今日の国語学演習ならば発表当番ではないからと、ようやく都合をつけたのだった。恵介が一言、先約優先だろ?とでも言ってくれたなら断りの連絡をいれるつもりだ。

「亜美のしたいようにすればいいと思うよ」
「したいようにって言っても……代返、頼まれちゃったしなあ」

 反対してほしくて、逆のことを言ってみる。

「そうか。なら、授業に出る? こっちはいいから」
「え。でも……」
「亜美の手料理はお預けだな。残念」

 そう言って、恵介は亜美の肩を二度軽く叩いた。

「なんか、ごめんね」
「いいって、いいって。また今度よろしく」

 恵介の言う「また今度」がいつになるかわからない。本当に楽しみにしてくれているのかさえわからない。話すことといえば、会うまでにあった出来事の報告と、これからの予定の相談ばかりだなと気づいて、少し笑ってしまう。
 そんな亜美を見て、恵介が怪訝な顔で覗き込んだ。でもそれだけ。「ええ? なになに?」とか「なに笑ってんだよー」とか、言ってくれても構わないのに。河原の土手に座っていただけでも声をかけてくるようなことをしてくれても構わないのに。

 本鈴が鳴った。

「亜美、急がないと」

 恵介が紙コップをクイッとあおった。立ち上がりつつ、「じゃあな」と笑顔を見せる恵介に手を振って、亜美は教室へと走った。

 両親には今日は遅くなるかもと伝えてあったが、恵介の部屋に行かなかった分、帰宅は早くなった。そのせいか、玄関を開けると同時に父が心配そうな顔をして飛んできた。

「どうした? 早いじゃないか。具合でも悪くなったのか?」
「ううん。なんともないよ」
「じゃああれか、友達と喧嘩でもしたか?」
「してないって。大丈夫。本当になにもないから」

 笑顔を見せても父は、「なにかあったら言うんだぞ」と声をかけてきた。亜美は、二階への階段をのぼりきるまで、ずっと背中に父の視線を感じていた。
 父に告げた「なにもない」という言葉に嘘はない。恵介とは喧嘩どころかいさかいも起こしたことがない。いつだって、恵介は微笑みをたたえ、亜美の意見を尊重する。

 恵介とは学部は違うが、一年生の頃から一般教養科目でよく顔を合わせた。お互い一人で出席している科目が多かったことが、親しくなるきっかけになったのだと思う。
 講義室では特に席は決まっていないのに毎回なんとなくみんな前回と同じ席に座る。亜美と恵介もそうだった。一人で出席している人は後方に集まりがちで、二人の間には空席がひとつあるだけだった。自然と互いの存在を確認するようになり、いつしか曖昧な目礼を交わすようになっていた。

 あれは、梅雨に入る直前の、重い雨雲が垂れこめている日のことだった。始業のベルのあとで休講が決まったことがあった。学生たちはすでに席についていて、講義室にはざわめきが満ちていた。

「今日は先生遅いな」
「そうね」

 その頃には挨拶だけは交わすようになっていたが、短い言葉とはいえ、会話らしい会話をしたのはこの日が初めてだった。
 助教がやってきて教卓から声を張り上げた。

「急ですみませんが、先生のご都合により、本日休講となります」

 講義室に声が溢れた。せっかく来たのにという不満の声は、予想外の自由時間を獲得した喜びの声に紛れた。突然降ってきた自由時間の使い道に迷う人は誰もいないようで、瞬く間に講義室は空になった。残されたのは、時間を持て余した二人だけだった。
 さてどうしたものかと思案していると、恵介と目が合った。無言でいるのも落ち着かず亜美から話しかけてみた。

「あいちゃったね」
「おれ、次もあいているんだよね」
「あ。わたしも。履修登録でうまく埋められなくて」
「二コマあくのってきついね」

 そんな話をしながら、どちらが誘うともなくカフェテリアに向かっていた。
 それが始まりだった。一年生の前期のことだ。

 あれから二年。周りの友達に比べたら続いているほうだと思う。くっついたり離れたりを繰り返している人たちはいても、亜美たちのように穏やかに時を重ねたという話は聞かない。


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この小説は、五条紀夫と霜月透子の合作です。

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