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「まがり角のウェンディ」第8話(全18話)

Ⅱ ー 2

 手料理を披露する機会は意外と早くやってきた。春の陽気に誘われて海に行くことになったのだ。「お弁当を持っていくね」と言ったら、恵介はいつもの穏やかな笑顔で、「楽しみにしている」と答えた。

 当日は早起きしてサンドイッチを作ることにした。すると、休日だというのに両親まで起き出してきた。父は手伝うと言いながら自分がメインとなって作り始めるし、母は手出しこそしなかったが、不安げに眉根を寄せて亜美の手元を凝視していた。パンを切るだけでも、「指、気をつけてね」などと注意してきて、かえって気が散る。
 こうやって作られたサンドイッチは見た目も味も申し分ない出来となった。問題があるとすれば、堂々と亜美の手料理と呼ぶのははばかれるということくらいだ。
 両親揃って玄関まで見送りに来て、「車に気をつけろ」と言う。いつまでも子ども扱いをしてと笑いそうになるが、できるだけ真剣な面持ちで、「はい」と答える。

 待ち合わせの駅ではすでに恵介が待っていた。亜美は一度も待たされたことがない。亜美も時間に間に合うように着いているのに、それでも必ず恵介の姿がある。
 無言で手が伸びてきて、サンドイッチの入ったトートバッグを持ってくれる。

「ありがとう」
「こちらこそありがとう。早起きして作ってくれたんだろ?」

 正解。そんな言葉が頭に浮かぶ。こんな場面で正解となる会話。恵介はいつも正しい会話をする。恵介はひとの飲み物を飲んでおいて文句を言うようなことなんてしない。
 だけど、正解とはなんの正解なのだろう。自分にとっての正解は、と考えて、浮かんだ顔を慌てて消した。数歩小走りをして先を行く恵介に並んでも、少し騒がしいあの声が耳の奥で聞こえていた。

 電車を乗り継ぎ、モノレールの改札口を抜けた途端、潮の香りと、強い日差しに熱された砂の匂いがした。引き潮らしく、波の音は遠く沖のほうで鳴っている。
 まだ春だから人は少ないだろうと思っていたのだが、レジャーシートの敷き場所に悩むほど人が溢れていた。波が後退した砂浜や波打ち際の浅瀬に、かがみこんだ人たちの姿がある。

「潮干狩りの時期だったか」

 恵介が呟いた。やはり想定外だったのだろう。

「わたしたちも潮干狩りする?」

 海なんて久しぶりだ。潮干狩りに至っては前回がいつだったのかさえ思い出せない。まだ小学生か、もっと小さい頃だったかもしれない。宝探しみたいでわくわくした気分だけは覚えている。
 恵介は冗談だと思ったらしく笑っていたが、亜美が返事を待っているのに気がついて細かく数度頷いた。

「いいよ。潮干狩りをしようか。でも、道具がないな」
「道具なら、ほら、あそこに売店があるよ」

 小走りに近づくと、思った通り、店先に熊手やバケツが並んでいた。手にとって眺めていると、あとからゆっくり歩いてきた恵介がまた笑った。

「本当に潮干狩りするんだね」
「いや?」
「そういうことじゃないよ。ただ、帰りはどうするのかと思ってさ。だって、バケツ持って電車に乗ることになるよ」
「そっかあ。ねえ、本当は潮干狩りしたくないんじゃないの?」
「別にそんなことはないよ。亜美が楽しんでくれるなら、それが一番だよ」

 そう言って亜美の頭をポンポンと軽く撫でる。

「そっかあ……」

 亜美は恵介を見て、熊手とバケツを見て、再び恵介を見てから、バケツの隣にあったビーチボールをレジに持っていった。支払いを済ませて恵介のもとへ戻る。

「潮干狩り、やらないの?」
「うん。やっぱりいいや。ボールで遊ぼうよ」

 波打ち際から離れたところはすいていて、亜美たちは持ってきたレジャーシートに荷物を置き、ビーチボールで遊び始めた。
 ボールは軽くて少しの風にもあおられる。逆風になる風下には恵介が立ってくれた。それでも恵介からのボールはしっかり亜美まで届く。届いたものの、打ち返せない。バレーボールの要領でトスやレシーブをすればいいのだとわかっていても、トスは指の構えをすり抜けて額にあたるし、レシーブは亜美の背後へと飛んでいく。

「あっ。またやっちゃった。恵介、ごめん」
「いいよ、いいよ」

 こんなやり取りを何度繰り返しただろう。
 レシーブしようとしたボールが前方でも後方でもなく、亜美の顎にあたった。そのままビーチボールはどこかへ飛んでいった。

「亜美っ、大丈夫?」

 恵介が駆け寄ってくる。

「大丈夫、大丈夫」

 我ながら無様だなあと笑いがこみ上げる。

「いますごい角度であたったよ。痛くない?」
「痛くないよー。ビーチボールだもん」
「そう。痛くないならよかった」

 恵介は表情を緩めると、飛んでいったボールを求めて辺りを見回し始めた。

「ねえ」

 ボールに向かって走り出そうとしている背中に声をかける。
 恵介はすぐに振り向いた。

「どうした? やっぱり痛い?」
「ううん。そうじゃなくて……笑わないの?」
「え? なんで?」
「だって、さっきからわたし、ボールを変なところにばかり飛ばしているのに」
「一生懸命やっている人を笑うわけないだろう」

 恵介は、なにを当たり前のことを、と言いたげな表情で答え、ボールを取りに走った。
 ひときわ強い風が吹く。恵介の指先が触れる直前にボールは転がっていく。恵介は再び走り出し、ボールを追いかけていく。
 亜美は遠のく恵介の姿から目を逸らし、飛んでくる砂からも顔をそむけた。それでも口の中に数粒の砂が紛れ込み、ざらざらとした感触を残した。

 風が強まってきたため、ボール遊びは終わりにした。ビーチボールの空気を抜いて、荷物をまとめる。風の強い砂浜はお弁当を食べるには向いていない。防風林になっている松林の向こう側が芝生の公園になっていたはずだ。
 波打ち際から離れていくと、次第に風も弱まってきた。
 口の中のざらつきはまだなくならない。口をすすぎたい。砂を噛んでしまいそうで、話をする気にもなれない。
 二人は黙々と公園を目指して歩く。

「あまり話さないね」

 恵介が、淡々と言う。
 口に砂が、と答えようとした瞬間にジャリッと噛んでしまい、亜美はそのまま口を閉ざした。恵介の見ていない隙に素早くティッシュに吐き出す。直後、恵介がこちらを見た。

「もしかして、あまり楽しくない?」
「そんなことないよ」
「楽しんでいる?」
「それは……」

 答えられなかった。考える必要などない。楽しくないわけではないのだから、ただ楽しいと答えればいい。本当の楽しさとはどういうものかなんて難しいことは考えずに答えればいい。きっと、それが正解。けれども一度言いよどんでしまうと、楽しいという言葉に浮かんだ光景に恵介の姿はなく、亜美は口を閉じた。
 恵介が遠くを見つめながら呟く。

「そっかあ。楽しくないかあ」

 待っているんだな、と横顔を見てわかった。亜美が、「楽しいよ」と答えるのを待っている。それがわかるくらい一緒の時を過ごしてきた。こちらからも聞いてみようか。「恵介は楽しんでいる?」って。そう思いながらも声にならなくて、恵介の目がひどくゆっくりとした瞬きをするのをぼんやり眺めていた。

 流れる雲が、恵介の顔に影を落とし、去っていく。

 恵介の口が、短く息を吸い込んで、そっと低い声を吐き出す。

「……じゃあさ、ためしに別れてみる?」

 あれ、珍しい。まずそう思った。恵介のほうからなにかを提案することなどあっただろうか。恵介の顔をじっと見る。
 恵介の瞳が細かく揺れる。間違えた、と聞こえた気がした。でも気がしただけだ。恵介は口を閉じている。

「なんてな。冗談だよ、冗談」

 ははは、と整った笑い声をあげる。
 恵介らしくない口調だった。口調だけではない。誤りを消し去る言葉そのものが恵介とつながらない。いつだって揺るがない場所にいたはずだった。でも本当は、揺らいでいたのだ。閉じ込めていた揺らぎが表れたのがいまだっただけなのだろう。

 海からの風が防風林を揺らし、葉擦れの音が二人を覆った。

「そうね、それがいいかも」

 自分でも驚くほどやわらかい声が出た。一瞬、恵介の目が見開かれる。とっさに亜美はかける言葉も決まらないまま口を開こうとしたが、ひと息早く、恵介が言った。

「……そうか。亜美がそう言うならそうするか」

 こんな時でも恵介は亜美を尊重する。ただもう一度、「冗談だよ」と笑ってくれればよかったのに。
 二人は無言で見つめ合う。一度、恵介が口を開きかけて、すぐに閉じた。両手がギュッと握られている。亜美は自分のバッグをつかむと恵介に背を向けた。亜美が視線を外す瞬間も恵介はいつものように真っすぐ亜美を見ていた。
 ゆっくりと歩き出す。風はやみ、遠くに波の音が聞こえてきた。
 駅へ向かって進む。舗装された道にも砂が広がっていて、蹴り上げるつま先の下にざらつきを感じる。恵介が追いかけてくれたら。せめて声をかけてくれたら。そうしたら、立ち止まれる気がした。だけど背後には見知らぬ人たちのはしゃぎ声が広がるだけで、亜美の名を呼ぶ声は聞こえない。
 途中でサンドイッチの入ったトートバッグを忘れたことに気づいたが、亜美は、振り向くこともなく改札口を抜けた。

 まだ日は高く、帰る人はほとんどいないのだろう。車内は空席が多かったが、亜美は座らず、ドアに半身を預けた。緑と低層の家屋は後方へと流れていき、次第にビルやマンションが目立ち始める。風景に空間が失われていく。雑多な街並みは亜美の心の隙間をも埋めていく。駅に着くたび乗降者はあるが、人は入れ替わっても誰もが口をつぐみ、静寂を埋めるように電車の走行音だけが空気を震わせている。
 二コマの空き時間をともに埋めた日のことをはっきりと覚えている。持て余していた隙間を丁寧に埋めてくれた人。だけど、二人の隙間は埋まらない。
 逆方向の電車とすれ違う。風圧でドアがバタンと大きな音を立てた。バタバタと小刻みに震え、戸袋との隙間から冷たい風が吹き込んでくる。完全にすれ違ってしまうと、風はやみ、再び規則正しい走行音だけが鳴り続く。
 電車は川へと差し掛かる。家に帰るならもう二駅だ。だけどとても帰る気分ではなかった。亜美は次の駅に降り立った。

 高校時代には毎日自転車で通った道だ。普段使う駅とは反対方向のため、前回はいつ通ったのかさえ思い出せない。少し遠回りをして川沿いへ足を向けた。河原に降り注ぐ日差しはやわらかくあたたかい。ゆっくりと遊歩道を歩いていく。朝より荷物が減っているのに腕も足も重かった。

 これから先、恵介と顔を合わせる機会はないかもしれない。
 もう三年生だ。一般教養科目の単位取得をしてしまったら、学部の違う恵介と重なる授業はない。校舎だって離れている。よく待ち合わせたカフェテリアだって、双方の中間地点だから使っていただけだ。食事をするためならそれぞれの学部の食堂を利用したほうが便利だ。広いキャンパス内で出会ったのが稀有なことだったといまならわかる。

 自転車が追い越していき、小さな風が通りすぎた。髪から潮の香りがした。遊歩道の真ん中で亜美の足は止まっていた。
 散歩中のミニチュアダックスフンドが首を伸ばして亜美の匂いを嗅ぎ、それから邪魔だと言わんばかりに見上げてきた。すぐ飼い主にリードを強く引かれて連れ去られる。それでもなお犬は何度も振り返る。犬の視線を避けて、亜美は川沿いを離れて住宅街を行く。

 サンドイッチを作った朝が遥か昔の出来事のように感じられる。恵介の笑顔と「おいしいよ」の言葉を思い浮かべては頬が緩んだ。食べてくれただろうか。おいしいと思ってくれただろうか。食べる姿を見たかった。一緒に食べたかった。
 ごめん冗談だよ、と手を取り、引き留めてくれればよかったのに。そうしたら、わたしもごめん、と言って、そのまま手をつないで公園に向かい、レジャーシートを広げ、サンドイッチを食べたのに。
 違う。一度は冗談にしてくれたのに、本物にしてしまったのは自分だ。

 公園の前を通りすぎようとして視線を感じた。ベンチに前足を揃えて座る茶トラの猫がいた。ゆっくりと近づいてみる。じっと亜美を見ているが、身じろぎひとつしない。怯えさせないように緩慢な動作で猫の隣に腰かけた。猫は亜美から視線を外し、香箱座りになった。そおっと背中を撫でると、小さく喉を鳴らし始めた。

 木漏れ日が揺れる。

 恵介との日々もこんな穏やかなひだまりのようだった。
 撫でる手に、わずかに力がこもる。猫がハッとしたように顔をあげた。

「あ、ごめんね。強かった?」

 すぐに道のほうから砂を踏む音がして、撫で方のせいではなかったと気がついた。公園にやってきた人の気配を感じながら猫を落ち着かせようと優しく毛並みを撫でる。

「大丈夫よ、怖くない、怖くない……」

 けれども近づく足音に猫は素早く起き上がり、茂みの中に姿を消した。

「亜美!」

 突然名前を呼ばれ、ハッとして視線を移す。
 砂を踏みしめ、公園を横切って近づいてくる姿がある。大きく手を振っている。

 太一だった。


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この小説は、五条紀夫と霜月透子の合作です。

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