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「まがり角のウェンディ」第18話(全18話)

Ⅵ ー ⅰ

 西から梅雨入りの知らせが広がり始めていた。日雇いの現場でもどの地方が梅雨入り宣言されたなどとの話題が多い。亜美の結婚式までもつといいが。
 信也は色の薄い青空を見上げる。
 空の色さえ、亜美の姿を思い起こさせる。幼い頃にお気に入りだったワンピース。街角で出会った半透明の亜美も着ていたワンピース。信也の生きる世界のどこにでも亜美はいて、どこにもいなかった。

 小説を完結させると決めてから、亜美に会いたい気持ちが膨れ上がっている。
 封印していた二十年分の思いは消されたわけではなく、心の奥に蓄積されていただけだった。動き出した時間に引きずり出された感情の渦は、容赦なく信也を巻き込んでいく。

 遥か昔の記憶とは思えないほど鮮やかな感覚が蘇る。抱き上げたときの重さ。ぬくもりと呼ぶには熱い体温。頬の柔らかさ。腕に触れる、吸い付くような小さな指先。青みを帯びた白目と艶やかに濡れた瞳。子猫のように柔らかな髪。抱き締めれば鼻腔をくすぐる日向の匂い。すごいねえ、と見上げる敬慕の眼差し。お父さん、と呼ぶ声がする。お父さん……きっと意識を手放す直前も信也を呼んだのだろう。

 亜美に会いたい。そんなことを思ってはいけない、思っても仕方がないと自らに言い聞かせる。願ったところで叶う望みではないことは承知している。にもかかわらず、信也の心は真っ二つに分断され、高揚と抑制がせめぎ合いながら、傾く寸前のところで均衡を保っていた。
 失ったばかりの頃に感じた、切りつけてえぐってくる鋭利な痛みとは異なり、圧迫し絞めつける鈍な痛みに苦しむ。毎晩、吐き出すように文章を綴った。
 書いている間は少しだけ気分が落ち着く。だが、書けば書くほど物語は終わりへと向かっていく。結婚式を挙げ、永遠の幸せが約束されてしまえば、亜美とのつながりは断ち切られる。亜美の幸せを願いつつも苦しみにさいなまれる。信也の心は狭間で揺れる。

 文章を書いていく。

 ――亜美に会いたい。

 文章を書いていく。

 ――亜美に会いたい。

 文章を書いていく。

 ――亜美に会いたい。僕の娘、亜美に……。

 亜美は、窓辺の眩しさに目を細めた。窓から差し込む光は新婦控室を明るく照らしている。結婚式は天候に恵まれた。
 胸の高鳴りを落ち着かせようと、亜美は窓を開けた。久しぶりの日差しに精彩を放つ木々が目に飛び込んできた。鳥のさえずりも聞こえる。梅雨入り以来休むことなく降り続いた雨は、昨日の午後からぴたりとやんだ。地面のぬかるみも乾き、木立の中に小さな水たまりが残るくらいだ。貴重な梅雨の晴れ間だった。

 見上げた空は、亜美の好きな淡い青をしている。まるで雨の季節の贈り物みたいな日だと思う。なにか大きなものに祝福されていると感じてしまうのは大袈裟だろうか。

 太一と自転車通学をしていた高校時代は、まさかここで結婚式をすることになるなんて思いもしなかった。あの頃は目の前のことで精いっぱいだった。ずいぶん遠くまで来た気がする。
 木々を渡る風がかすかに参列者のざわめきを伝えてくる。
 ふと幼い日に父と見た、見知らぬ人たちの結婚式を思い出す。あれから二十年余り。あの頃は眺めるだけだったウェディングドレスをいまはこの身にまとっている。

 今日、わたしはお嫁にいく。

 教会の鐘が鳴った。
 さあ、時間だ。亜美は胸の上で両手を重ね、深く息をついた。あげていたベールをそっと顔におろす。それからぐいと顎を上げ、ブーケを持って会場へと向かう。

 控室から会場までの敷石を辿る。小道は木々に囲まれていて、木漏れ日が敷石の上を踊っていた。葉擦れの音と鳥のさえずりの中、木立の道を抜ける。チャペルが近づくと人々のざわめきが感じられるようになってきた。

 道の半ばで一人の男性が立っていた。

 一瞬、父が迎えに来たのかと思った。それほどに似ていた。けれども着古した服を身につけている。服だけでなく姿もくたびれた様子で、痩せた体に服をかけているように見える。髪はパサつき、頬はこけ、無精ひげには白髪が混じっている。それでもその男性に対する不快感はまったくなかった。
 男性と目が合い、亜美は思わず足を止めた。
 亜美は思う。

 この人は、かつてなにもない空間に立っていた人だ。

 信也の目の前でドレス姿の亜美が足を止めた。
 小説に書いた通りだった。
 信也はノートに書きこんでいた。この日、このとき、この場所で、亜美が謎の男と出会うシーンを。遠くに人の気配はあるものの、木立の中には誰も来ないよう描いてある。いまここにいるのは二人きりだ。
 どうしても、たった一言、祝福の言葉をかけたかった。しかし、おめでとうの一言が胸の奥につかえたまま出てこない。

 この場にそぐわないみすぼらしい男の前から亜美が立ち去らないでいてくれるのは救いだった。亜美は、信也の姿を認めた瞬間は訝しみ、目が合えば驚きの表情を見せはしたものの、いまはすべてを受け入れたかのように穏やかな佇まいをしている。

 そよ風が吹き、木漏れ日が揺れて、亜美の顔を照らした。木立の中なのに光が溢れている。鳥のさえずりに重なって人々のざわめきが耳に届く。鐘が鳴る。
 時間がない。信也は意を決して口を開く。

「結婚されるんですね」
「はい」
「実は、僕にもあなたと同じ年頃の娘がいるんです」
「そうなんですね」
「僕がいつも家にいたせいもあって、いわゆるお父さんっ子でね。僕もついつい甘やかしちゃって。本当に純粋で真っすぐないい子だったんですよ。こんな僕のことをすごいすごいって言ってくれたりね」
「ええ」
「その娘は、活発なほうではないくせに結構お転婆なところもあって。保育園を抜け出して交通事故に遭いそうになったことがあるんですよ。僕に……僕に、会いたくて……僕に……会うために……」

 信也は声を詰まらせ、言葉を切った。
 亜美が神妙に頷く。

「はい……」

 再び口を開くと声が震えてしまいそうで、信也は口をつぐんだ。二人の間に沈黙の時間が流れるが、亜美は信也の前から立ち去ろうとはしなかった。
 だが鐘が鳴ると、亜美が身じろぎをした。信也の背後に建つチャペルを見上げて言う。

「すみません、わたし、もう行かないと」
「ああ、そうだね。引き留めてしまって悪かったね」
「いいえ。ちっとも」

 行かないと、と言いつつも亜美は立ち去ることをためらっているようだった。信也が送り出してやらないといけない。まだ未来がある亜美のために。
 信也は精一杯の笑顔を浮かべてみせた。

「……純白のドレスがとても似合っているよ」
「ありがとうございます」
「おめでとう。幸せになるんだよ」
「はい」

 亜美が微笑んだ。
 信也は亜美のためにわずかに体を開き、道をあけた。
 亜美が微笑んだまま会釈して歩き出す。信也の横を通り過ぎる。ふわりとブーケの香りがしたと同時に、その姿は揺らめき、視界から外れるより早く風景に溶け、消えた。

 信也は振り向かなかった。
 参列者のざわめきも鳥のさえずりも音という音はすべて亜美が連れていった。辺りはただ、静寂に包まれている。
 木漏れ日が薄れ、木立が翳りに沈む。

 こらえていた涙が一筋零れ落ちる。ひとたび零れた涙はとめどなく流れ落ちていく。無精髭が覆う顎を掴むように口元にあてた指の隙間から、低い声が漏れる。

 一切の音が消えた木立の中、信也の嗚咽だけがやけに大きく響いていた。

 チャペルの扉の前で待っていた父が、階段をのぼってくる亜美に笑みを向けた。

「どうかしたのか?」

 いつもかけられる言葉が今日は深く響いた。ベールの下から頬に手をあてると、浮かない顔をしているのが自分でもわかった。
 階段の最上段から、いま来た道を振り返る。そこには、木立の中に延びる敷石が続くだけで、先ほどまでいたはずの男性の姿はなかった。
 亜美の頬を涙が一筋零れ落ちた。
 つられたのか、父が鼻をすする。

「亜美、まだ泣くのは早いだろ」

 亜美は指先で涙をぬぐい、笑みを浮かべる。

「お父さん……ありがとう」

 亜美の言葉に、父は噛み締めるように頷いた。

 鐘が鳴る。
 空は変わらず晴れ渡り、木立の中の道までも光に満ちている。
 亜美は父と並んで扉に向かう。差し出された腕に手を添える。
 ウェディングロードは、花嫁の一生を表すという。扉の先が誕生。一歩一歩が亜美の一年一年。

 扉が内から開かれた。純白の布が祭壇まで真っすぐに伸びている。その先には白いタキシード姿の太一が待っている。視線を上げれば、正面に丸いステンドグラスが見えた。ウェディングロードの両側に並ぶ席には通路に沿ってリボンが渡され、色といえば花の白と葉の緑だけで、色とりどりのステンドグラスとは対照的だった。
 亜美は父と揃えて一歩を踏み出した。参列者の笑顔に迎えられる。右足を出して、両足を揃え、左足を出して、両足を揃える。一足ごとにドレスの裾が衣擦れの音を立てているはずだが、拍手に紛れて亜美の耳には届かない。ゆっくり一歩一歩、過去を辿る。
 太一はずっと満面の笑みを浮かべている。あの笑顔に向かって一歩、また一歩、真っすぐに歩いていく。
 太一と出会い、離れ、また出会い。そんな思い出をひとつひとつ辿っていく。

 白い布が途切れ、太一の正面に立つ。亜美は父の腕から手を離し、その手を太一の腕に添えた。父の口が、よろしく、と動いた。目礼を返した太一とともに祭壇に向き直る。視界の隅で、父が離れていくのが見えた。ここからは太一との未来。

 式が始まる。そして、亜美は太一との永遠を誓う。

 向かい合い、指輪を交換する。太一の指先が小さく震えていた。そっと顔を窺うと瞳が濡れて光を散らしていた。亜美の視線に気づいた太一と目が合い、微笑み合う。参列者の顔もほころんだ。
 太一の手によって亜美のベールがあげられる。視界を遮るものがなくなって、たちまち辺りに光が満ちた。目の前には太一がいる。
 肩に手が置かれる。ひらけたばかりの視界が再び遮られる。亜美はゆっくりと瞼を閉じた。二人の影が重なった瞬間、チャペルは拍手に包まれた。
 二人は互いに見つめ合う。
 チャペルの扉が開かれた。外の光に照らされてウェディングロードが白く輝く。扉の外はまばゆい光が満ちている。
 拍手がひと際大きくなる。
 二人は寄り添い、ともに光のほうへと歩き出す。
 祝福の鐘の音が辺りに響き渡っている。

 こうして二人は末永く幸せに暮らしました。

 こうして二人は末永く幸せに暮らしました。

 そっとペンが置かれる。
 ノートの上に落ちていた影が去り、光を受けた紙の白さに、綴られた文字が映える。
 開かれたままのページには、こう書かれている。

 まがり角のウェンディ    了



まがり角のウェンディ   了


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この小説は、五条紀夫と霜月透子の合作です。

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