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「まがり角のウェンディ」第17話(全18話)

Ⅴ ー ⅱ

 ぱらりとページをめくる。このノートも残り少なくなってきた。明日の仕事帰りにでも新しいのを買ってこなければ。
 仕事を終えて日当を受け取ると、信也は誰よりも早く現場を去った。
 最寄り駅で降りる。足早に住宅街を進む。教会の角を曲がる。閉じられた門扉を見上げて、早く続きを書いてあげなくては、と思いを新たにした。
 公園の向かいにあるコンビニでノートを手にレジへ向かうと、いつもいる店員と目が合った。小さく目礼する。顔を覚えられているかもしれない。だが、気にしなかった。
 ノートを手にしたらもう待てない。信也はアパートへと走った。道行く人が訝しげな目を向けてきたが、気づかないふりをする。ジョギングでもないのに中年の男が街中を走る光景が奇異に映ることはわかる。だが、どうでもよかった。
 信也の頭の中には一刻も早くペンを握って続きを書きたいという思いしかなかった。
 帰宅するなり段ボール箱の上に真新しいノートを開き、ペンを握る。
 手が、文章を書き始める――


 富田家のリビングのソファに太一が座っている。最近では太一の定位置だ。

 食後のコーヒーを持ってきた父に、太一が軽く頭を下げた。

「すみません、また夕食をごちそうになってしまって」
「いいんだよ、このくらい。新居のキッチンだってまだ片付いていないんだろう?」
「ええ。結婚式も近づいてきて、なかなかまとまった時間がとれなくて」

 新居はここから三駅離れた町にある2LDKのマンションで、先に太一が一人で住んでおり、亜美は結婚式のあとに初めて太一と同じ家に帰ることになっている。
 亜美も時折り新居を訪ねて少しずつ整えてはいるが、土日休みの亜美と主に平日休みの太一ではなかなか休みが重ならない上に、ただでさえ少ない二人揃っての休日は式の準備に費やされている。けして苦痛になる忙しさではないが、慌ただしいのはたしかだった。
 一人暮らしに慣れていて普段は自炊派の太一も、最近はコンビニ弁当で済ませることが多いようだ。それを気にしてか、父はたびたび太一を夕食に招待していた……。


 ペンを手にしていない時間も信也の頭の中では常に亜美の物語が紡がれていく。帰宅中の車窓から見える景色の中に突然亜美の姿を見つけても不思議ではない気分になる。
 電車を降り、人の群れを追い越して家路を急ぐ。駅前の横断歩道で赤信号に足止めされていると、作業着のポケットの中で着信音が鳴った。電話など滅多にかかってくることはない。とっさのことに通話ボタンのありかを求めて指をさまよわせ、ようやく耳にあてたあとで着信画面を確かめなかったことに気がついた。

「はい」
『あの、富田さん、ですか?』
「え? ああ、はい。そうですが」
『わたし、十和子です』

 そういえば先日会った際に電話番号を交換した気がする。

「先日はどうも」
『またそんな他人行儀な言い方して。まあいいわ。いまどこ?』
「え? 家の近くの駅だけど」
『この前わたしと会ったとこ?』
「ああ、そうだね」

 信号は青に変わり、人が歩き出す。信也は渡らずに道の脇に避けた。

『ちょっと会えない? この前のファミレスにいるんだけど』

 道沿いのファミレスに目をやった。いまさら十和子と交わす会話などなさそうだが、すでに近くで待っているのを断るにはそれなりの理由が必要な気がした。それを考えるのは面倒だった。駅にいるなどと答えなければよかったのだが、それこそいまさらである。なんの用事か知らないが、さっさと会って終わらせたほうが早そうだ。

「わかった。いま行く」

 信也は短く答えてファミレス目指して歩き出した。
 店内に入ってすぐ窓際の席に十和子の姿を認め、傍らに立つ。十和子は信也の作業着を上から下まで眺めてから言った。

「どうしたの? 座れば?」
「いや。すぐ帰るから」
「急いでいるの?」
「うん。まあ」
「ふうん。注文しなくてもいいから座れば? 目立つよ」

 そう言われて、信也は向かいの席に浅く腰かけた。

「なに?」
「挨拶もなしって、本当に急いでいるのね。だったら用件だけ言うわ。まだ文章を書く気はある?」
「文章……」
「そう。取引先がライターを探しているの。継続的に使える人が欲しいんですって。心当たりがあるからってこの件を預かったんだけど……どう? やる気ある?」
「ライティングか」
「ずっとやっていたでしょ? やっぱりあなたにはそういう仕事のほうが向いていると思うの。いまのあなたは、自分を痛めつけることを選んでいるように見えるのよ」
「いや、いまは」

 即座に断ると、十和子は呆れたように深く息を吐いた。

「だから、そうやっていつまでも過去のことを……」
「いや、違うんだ。そうじゃなくて。僕は大丈夫だから。本当に、大丈夫だから」
「でも」
「もう心配してくれなくても大丈夫だから。僕の時間は動き出したんだよ」

 信也が立ち上がると、十和子がじっと観察するような目をした。

「そうね……なにがあったのか知らないけど、大丈夫って言葉を信じるわ」
「ああ。紹介してくれようとしたのに悪かったね。じゃあ、元気で」
「あなたも」

 人並みの挨拶をする信也の姿を見て安心したのか、十和子はようやく緊張の解けた顔をした。そしてもう信也を引き留めなかった。
 信也は走って帰宅し、ノートを開くのももどかしく、ペンを握った。
 手が、文章を書き始める――


 今夜も父は太一を家に招待し、リビングでずっと談笑している。

「亜美がな、太一くんとゆっくり過ごす時間がなくて寂しがっているから、遠慮せずにうちに寄ってくれよ」
「え。亜美がそんなことを?」
「ちょっと、お父さん。わたし、そんなこと言ってないでしょ。太一も信じないでよ。平気よ、わたし」
「平気っていうのも太一くんに悪いんじゃないのか?」
「もう、お父さんったら。ねえ、お母さん。なんとか言ってやってよ」

 ダイニングテーブルを拭いている母に訴えても、「いいじゃないの」と笑顔が返ってくるだけだ。亜美もシンク周りの片づけを手伝うために立ち上がる。いつもは父がやっているが、太一が来たときは母が代行している。特に決めたわけでもないのに自然と互いに合わせられるなんてすごいと思う。自分たちもいつかはそんなふうになれるのだろうか。
 太一と父はソファに並んで話を続けている。

「実はね、亜美は、保育園を抜け出して交通事故に遭いそうになったことがあるんだよ」
「へえ。そんなことがあったんですか」
「結構お転婆だったんだよ」

 父はコーヒーカップを手にしたまま口をつけるもことなく、亜美の思い出話を語っていく。小学校では……中学校では……。その話を太一は楽しそうに聞いている。
 片付けの終わった母が新しいコーヒーを淹れ、亜美を誘って二人がいるリビングへ向かう。父の話は続く。母が相づちを打つ。亜美が覚えていない話も多かった。太一が笑う。
 夜は静かに更けていく。
 結婚式の日は、すぐそこまで迫っている。


 手が、文章を書いている。
 文章を綴りながら、頭の片隅で考える。これをライフワークにすることは可能だ。すでにそうなりつつある。だが、こちら側の自分はあちら側の亜美より先にこの世を去る。いつまでも自分が亜美を見守ることなどできない。
 どこかでこの物語を閉じなければならない。『亜美は末永く幸せに暮らしました。めでたしめでたし』そんな童話の終わりのような結末を描けば、信也の手を離れた後も向こうの世界は『末永く』続くに違いない。
 ペンを握る手がしばし止まった。再び動き出し、数行書いては、またすぐに止まる。
 信也は書きかけのノートの上にペンを置くと、仰向けに寝転がった。

 サアーッと乾いた砂を撒いたような音がアパートを取り囲む。雨が降り始めたようだ。
 この物語を終えるならば、それはいつのどの時点にするべきか。
 信也とていつなにが起こるかわからない。自分が老いるまで書き続けることができる保証などどこにもない。突然なんの前触れもなくこの世界を去らなければならないこともある。そのことを信也はよく知っているではないか。
 そうだ。そうなのだ。だから、亜美のことを考えるならば早いほうがいい。となると。

 ……結婚式か。

 信也はゆっくり起き上がり、そのまま外へと出ていった。
 傘もささずに住宅街を行く。夜更けの街は雨の音しか聞こえない。風もなく、雨は幾筋もの細い糸となって空から垂れ下がっていた。明かりはいくつかの街灯と客のいないコンビニだけだ。
 教会の前まで来ると雨音が大きくなった。雨量が増したわけではなく、木々の葉に当たって音を立てているためだった。

 ここは、亜美と――あちら側の亜美と、出会った道だ。

 やはり結婚式で終わりにしよう。そう決心した。ただ……。
 教会に目を向ける。閉じたアイアンゲートが雨に濡れて艶やかに浮かび上がっている。
 ただ、ひとつ心残りがある。

 大人になった亜美に、もう一度会いたい。一度だけでいい。

 叶わない願いだということは承知している。二つの世界が並走しているならば、重なることはない。たとえ並行世界とつながる方法があったとしても、向こうの世界には自分よりもっと亜美にふさわしい父親がいるのだ。まるで違う人格とはいえ、もう一人の自分であることに変わりはない。直接の接触はしないほうがよいと思われた。

 雨音が強まり、雨量も増した。たちまち顔に当たる粒の衝撃を感じられるほどの本降りになった。向こうの世界も雨が降っているのだろうか。
 信也は胸の奥まで雨に濡れた気がして、ゆっくり踵を返した。


 亜美は段ボール箱の蓋をガムテープで閉じた。
 部屋の隅に引っ越し用の段ボール箱が積み上げられている。荷造りもだいぶ済んだ。

 ひと息つこうと窓を開ける。サアーッと乾いた砂を撒いたような音が夜の街を覆っていた。静かに降る雨を眺めつつ、亜美は祈る。

 どうか結婚式は晴れますように。


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この小説は、五条紀夫と霜月透子の合作です。

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