見出し画像

「まがり角のウェンディ」第10話(全18話)

Ⅱ ー ⅰ

 日中は汗ばむほどの陽気でも、日が落ちれば途端に空気が冷たくなる。信也は、作業着の襟を合わせた。ボタンを留めた瞬間に汗のすえた臭いが襟元から抜ける。自分でもわかるのだから他人であればもっと強く感じることだろう。着古して汚れた作業着姿のせいもあり、すれ違う人が不自然なほど距離を取ることも少なくない。不快な思いをさせて申し訳ないという思いがちらりと掠めるが、すぐに消える。
 駅前の交差点で信号待ちをしていると、反対車線にタクシーが停まった。ドアが開いて女が降り立つ。聞こえるはずのないヒールのカツンと鳴る音が耳に届いた気がした。タクシーが走り去り、女の全身が見えた。十和子だった。
 十和子は横断歩道の前に立った。ちょうど信也と向かい合う位置だが、あちらは気づいていないようだ。
 目を逸らすとちょうど歩行者用信号機が青になり、カッコウの声が鳴り始めた。うつむき加減に顔を背けて横断歩道を渡る。視界の隅を艶のあるベージュのパンプスが通り過ぎていった。渡りきるとすぐにカッコウが鳴きやんだ。この道は交通量が多く、歩行者用信号の時間が短いのだった。
 歩道を歩き出すと、目の前に通り過ぎたはずのベージュのパンプスが現れた。つま先がこちらを向いている。顔をあげた先には、スーツ姿の十和子が立っていた。
「……やっぱり」
 嫌なものでも見つけたように眉根に皺を寄せている。ならば戻ってきてまで声などかけなければいいのにと思ったが、口に出せるわけもなく、出たのは、「やあ」という間抜けな一言だった。
 十和子はゆっくりと瞬きをひとつした。
「まだこの町にいたのね」
 信也はうつむくように首肯した。
「このあとの予定は?」
 そんなもの、あるわけがない。信也は首を振った。
 十和子は、「ちょっと待ってて」と短く断り、その場で一本の電話を入れた。職場宛なのだろう、直帰する旨といくつかの指示を出していた。
「お待たせ。食事でもしましょ。どこがいいかしら」
「ファミレスぐらいしかわからないよ」
 それだって外観を知っているだけだ。
「いいわよ、それで」
 またこうして十和子と並んでこの町を歩く日が来ようとは思いもしなかった。姿勢よく歩くスーツ姿の女性と、薄汚れた男の組み合わせは、人目をひくようだ。あからさまに見比べてくる視線にいくつも出会う。十和子が気遣うような視線を寄越したが、信也の表情に変化がないのを見て取るとまた前を向いて歩いた。
 まだ夕食には早い時間だからか、店は空席のほうが多かった。
 窓際の角の席に通される。窓ガラスに体を預け、ぼんやりと外を眺める。大通りを行き交う車列のライトがあるだけだった。
 十和子がメニューを眺めながら、「なににする?」と尋ねた。
「僕は飲み物だけで」
「食べないの?」
「お腹がすかないんだ」
 十和子は深く息を吐き出し、メニューを閉じた。
 数分後、ホットコーヒーが二つ運ばれてきた。
「とわ……君は食べればいいのに」
 名前で呼ぼうとして慌ててやめた。遠慮やためらいではなく、自分の口にそぐわない言葉に感じられたからだった。かつてこの口が幾度となく呼んでいた名前だとはとうてい信じられない。
「一人で食べるくらいなら、家で食べるわ」
 コーヒーカップを口に運ぶ手に見たことのない指輪がはまっている。
 視線に気づいた十和子が微笑む。
「ああ、これ? 何年前だったかな……再婚したの」
「そうか。おめでとうございます」
「なにそれ。他人行儀な言い方ね。まあ、いまは他人なんだけど」
 表情が変わるたび、目尻に細かい皺が現れる。一緒に暮らしていた頃にはなかったものだ。二十年近く経っているのだ、皺くらいできるに決まっている。ただ、その皺はけして十和子を劣化させるものではなかった。それどころかメイクやアクセサリーのような装いのひとつになっている。それに引き替え自分は。信也は自身の顎を摘まむような仕草で撫でた。最近では白いほうが多くなっている無精髭が指先に触れる。お互い五十代半ばだというのに随分と差がついたものだ。十和子と自分では重ねてきた二十年がまったく違うのだと突きつけられた気がした。
 信也はコーヒーをひと口飲んだ。カップで飲むのなんていつ以来だろうか。そんなことを考える。
 十和子もコーヒーをひと口。
「今日はね、取引先に行ってきて、その帰りだったの」
 あれから転職もせずに同じ会社で働き続けているという。先ほどの電話の様子からするに、かなり責任ある立場になっているのだろう。
「そちらは?」
 ひとのことを他人行儀と言っておきながら、似たようなもの言いではないか。
「見た通りさ。日雇いで食いつないでいる」
「それで暮らしていけているの?」
「暮らし、か。とりあえず、こうして生きているよ」
 こうして生きている。なんの気なしに出た言葉に、互いに視線を逸らした。他人であるはずの二人を強く結びつけるものが鮮やかに蘇る。
 十和子の顔に呆れとも憐れみともとれる表情が浮かぶ。
 ああそうか、と交差点で会った瞬間のことがいまになって腑に落ちる。眉根を寄せたのは信也への嫌悪感ではなかったのだ。
 しかし、嫌悪感を持たれても当然だ。それだけのことをしたのだ。
「全部、僕が悪いんだ」
 声は両手で包み込んだコーヒーカップの中に落ちた。
「わたしは、あなたが悪いだなんて思っていなかったわ。いまでも……ううん、一度だってそんなふうに思ったことはない」
「でも君は別れを選んだ」
「それはあなたを見ているのが辛かっただけ。あなたはいつまでも自分を責めて、悔やんで、立ち直ろうとしなかったでしょう? あなたのそんな姿は見ているこちらも辛かったし、それに、立ち直ろうとする自分がひどく冷たい人間にも思えたの」
「君が自分を責めることはない。僕の責任だ」
「それよ。わたしといるとあなたは自分を責め続けるでしょう? それはお互いのためによくないって思ったから別れることにしたの。あなたも同じなのかと思っていたけど」
 信也は無言で首を振り、残り少なくなっていたコーヒーを飲み干した。冷えたコーヒーはねっとり舌に絡みついた。
 十和子もコーヒーカップを口元に運んだがすでに空だったらしく、水のグラスに持ち替えた。小さくなった氷がかすかな音を鳴らした。
 互いに口に入れるものも、口から出すものも尽き、十和子が伝票を手に取る。信也が声を発するよりも早く、「いいから」と手のひらを向けて制す。
 ファミレスを出たところで、十和子は急に向き直った。
「そういえば、あなた、携帯変えたでしょ?」
「ああ」
 一度は携帯電話を手放した。しかし、その後、やはりなにかと電話番号が必要だと思い直したのだった。もうずいぶん経つ。別れて間もない頃のことだ。
「番号教えて」
 今後連絡を取ることがあるとは思えなかったが、拒む理由も見つからない。番号をそらんじようとしたところ、手が差し出された。
「貸して」
 十和子の手の中で信也の携帯電話が操作される。自分宛てに電話をかけたらしく、すぐにバッグの中で振動音がした。十和子は引き続き携帯電話のボタンを次々と押してから信也にそれを返した。
「わたしの番号、登録しておいたから」
 そう言って、自分のスマートフォンを取り出す。着信番号からアドレス帳に登録し、確認を求めるように画面を信也に向ける。
 数字の下に、「富田信也」の文字があった。
 さっきは二人で歩いてきた道を、十和子一人の後ろ姿が遠ざかる。信号が変わり、車の走行音が騒がしくなった。
 信也は十和子から目を離して歩き始めた。ひときわ大きな走行音が追い抜いていく。路線バスだった。乗降者もなく、停留所を素通りする。けたたましい音を立ててバイクが走り抜ける。
 住宅街への角を曲がると次第に音が離れていく。走行音は少しくぐもって耳に届く。どこか遠くで救急車のサイレンが鳴って、誰かの家の犬が張り合うように吠えている。
 信也は足早に、明かりの少ない道を進んだ。雑草が生い茂った公園の入り口に猫が狛犬のようにうずくまっていた。向かいのコンビニの明かりが届かない暗闇との狭間で、二つの目が光っている。
 公園を根城にしているやせ細った茶トラの猫は、ちらりと視線を寄越し逃げていった。


前話  次話

この小説は、五条紀夫と霜月透子の合作です。

マガジン


この記事が参加している募集

#創作大賞2024

書いてみる

締切: