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「まがり角のウェンディ」第11話(全18話)

Ⅲ ー 1

 亜美の手に握られたペンが文字を連ねていく。数行、ときには一文の途中で、手を止めて椅子の背に寄り掛かる。目を閉じ、わずかに顎を上げ、指先でペンを揺らしながら思考する。やがて、短く息を吐くと、再び紙面に文章を綴り始めた。

「富田さん、この領収書って見つかったのね」

 課長がレターサイズの薄い紙をつまみ上げ、ひらひらと揺らしている。亜美は手を止めて課長の席へ向かった。

「あ、それはですね、宿泊したホテルに連絡したら再発行してくれました」
「なに、富田さんが連絡したの?」
「はい。いけませんでしたか?」
「いけなくはないけど、親切すぎるわよ。なくしたのが悪いんだから、本人にやらせればいいのに」
「たいした手間ではないので平気です」
「そうやって甘やかすからみんな富田さんのところに清算書を持ってくるのよ。なにもかも引き受けたりしなくていいんだからね。ほら、それも明日でいいから。今日はもう帰った、帰った」

 課長の手が追い払うしぐさをする。

「でも……」

 まだデスクに向かっている人たちを見渡す亜美を見て、課長はパンパンと手を叩いた。

「みんなも切りのいいところで上がりなさいよー。しっかり休んで、明日からまた頑張ること!」

 あちこちで短い返事の声があがり、次々と席を立つ。亜美も自席に戻る。
 机上を片付けていると、隣の席の同期が耳打ちをしてきた。

「今日もデートなんでしょ? 急がないとね」
「大丈夫よ。少しくらい遅れてもきっと気にしないもん」
「そんなこと言ってえ。早く会いたいって顔してるくせに」
「え。やだ。わたし、そんな顔してる?」
「ほらね、あたり」

 からかうだけからかって、「お疲れー」と去っていく姿に、笑顔で手を振る。
 立ち上がり、椅子をしまいながら、「お先に失礼します」と声をあげると、そこかしこから、「お疲れ様」と答える声がある。心地よい疲れと、ささやかな解放感を抱いて職場を後にする。

 入社から三年が過ぎた。
 簿記どころか数字そのものが苦手な亜美が経理部でやっていけるのも周りのおかげだと思っている。研修時に知り合って他部署に配属された人たちは、同期会のたびに誰かに対する不満を肴にしている。他人と比較するつもりはないけれど、みんなの苦労を知れば知るほど我が身がいかに恵まれているのかを実感する。

「亜美ー」

 名前を呼ばれ、辺りを見渡す。待ち合わせ場所の駅前広場は人が溢れていて、声のありかが見当たらない。

「ここ、ここ」

 人垣の向こうで大きく手を振っている。亜美は、すみません、すみませんと呟きながら人ごみを抜け、スーツ姿の太一の前に立って、両手を合わせた。

「遅くなってごめん」
「平気平気。それより、これ見て。すごくね?」

 節の目立つ指先を辿ると、ツツジの植え込みにクローバーがひと群れあった。その中のひとつに指が向いている。

「わあ。すごい」
「だろ?」

 そのクローバーは五枚の葉がついていた。

「珍しいけど、五つ葉のクローバーってどうなんだろう?」

 四つだから幸せという語呂合わせになるわけで、葉の枚数が増えたら意味も変わるのではないだろうか。

「そんなの、幸せの上乗せだろ」

 わかりきったことだと言わんばかりの口調だ。
 それならばと摘み取ろうとした亜美の手は、素早く太一につかまれた。手首を握る太一の手は大きくて骨ばっていて、熱いくらいにあたたかい。

「このままにしておこう。誰か気づくかなあ? やっぱ見つけたときは、すごい、って言っちゃうんだろうな」

 太一は確かめようのないことを楽しそうに語っている。語りながら、手首を握った手が滑りおりてきて亜美の手を包み込んだ。
 五つ葉とはいえ、たかがクローバーでこんなにも楽しめる太一を見て、亜美は声を立てて笑った。笑う亜美がおかしいと言って太一も笑う。
 太一と手をつないでいることをいまでも不思議に思う。大学三年生の春にはこんな自分たちを想像もしていなかった。

 公園で再会したあの日からというもの、二年間の音信不通期間はなんだったのかと思うほどに高校時代と変わらない日々が戻ってきた。
 いや、同じではない。高校時代は学校に行けば会えた。いまは会おうという意思を持って会う。心がほどけていくような会話や互いの間の風が馴染むような距離は同じでも、その時間を自然に得られていた頃とは明らかに異なる。二人で同じ時間を過ごすことが当たり前ではないのだと強く感じた。

 初めのうちは会うことに理由が必要だった。誘うときには、見たい映画があるだとか食べたいものがあるだとか必ず目的を提示した。だけどよくよく考えてみれば、映画も食事もそれが目的ならば別に相手が太一である必要はない。太一のほうもきっと同じで、だからどちらも、「大学の友達を誘わないの?」とは聞かなかったのだと思う。亜美も太一に誘われてもその理由を尋ねたりはしなかった。ほかの誰と行っても構わないのに、ほかの誰かを誘ったりはしなかった。本当の目的は二人で会うことだったから。

 帰りは必ず玄関先まで送ってくれた。高校時代は一度も送ってくれたことはないのに太一は送ると言ってきかなかった。まだ早い時間であれば、少し遠回りをして河原を歩いたり、公園のベンチでおしゃべりをしたりすることも少なくない。
 そしていつしか、ただ歩いたり話をしたりするためだけに会うようになった。
 本当にほしいのはそんな時間だったのかもしれない。大学を卒業するまで、そんな時間を積み重ねた。

 大学が別々でも学生同士だから時間の都合はつけやすかった。けれども社会人となるとなかなか難しいだろうことは容易に想像できた。亜美の会社は一般的な土日祝日休みだけれど、不動産会社に就職する太一は休日が不規則だ。終業時間も亜美と合わない。これまでのように気軽に誘えるとは思えなかった。

 大学卒業を間近に控えたあの日、いつもならば次々と話題が溢れてくる太一は珍しく口を閉ざしていた。その態度は、亜美と同じ思いでいるように見えた。

 ひと気のなくなった夜道を亜美の家まで歩く。月に雲がかかり、宵闇が深くなる。
 どちらともなく、教会の門の前で足が止まった。太一がまだ実家暮らしだった高校生の頃、いつも手を振っていた場所だ。卒業式の日も。

 教会の敷地内の木々は、明かりのない黒々とした恐ろしげな風景とは裏腹に、さわさわと優しげな葉擦れの音を奏でていた。
 家まで送ってくれるはずの太一は、立ち止まったまま動かない。
 駅のほうから靴音がして、見知らぬ人が道を折れていった。靴音と気配が遠のき、教会の木々もまた静まり返っていた。
 高校卒業のときは出せなかった言葉を、四年後のいまなら出せるだろうか。

「ねえ、太一」

 考える前に呼んでいた。
 太一の目が真っすぐこちらを向いた。街灯の明かりが瞳に反射して煌めいている。

「なんかわたしに言うことない?」

 木立の間を風が渡る。さわさわと葉擦れの音がする。
 太一の口が開く。

「そっちこそ」

 真剣な目をした太一と見つめ合う。
 二人は同時に息を吸い込んだ。

「付き合おうか」

 一陣の風が吹く。木々が一斉にざわめく。雲が流れ、月明かりがはにかむ二人の顔を照らした。

 あれから三年。いまでもまだ鮮やかに覚えている。夜風の匂いまでが鼻腔深くによみがえる。思い出すたび、あの頃の甘美な息苦しさもよみがえる。

「なに食べようか?」

 つないだ手を子供のようにブンブン振って太一が尋ねる。スーツ姿は様になっているのに、こういうところはちっとも成長していない。

「うーん。なにがいいかなあ」

 手をつないで歩く。
 互いに食べたいものをいくつかあげる。太一は、なに食べたい?ではなく、なに食べようか?と聞く。二人のことは、二人で一緒に考えようとする。太一となら、そんな食べ物の名前をあげるだけの会話までもが楽しい。

 いくつかのお店をあげたものの、結局、二人が入ったのはどちらも提案しなかったインドカレーの店だった。店の前を通った際のスパイスの香りに誘われて、太一が即決したのだ。市販のルーの匂いとは明らかに違うスパイシーな香りが店内に満ちている。
 食事中は、ネパール人だという店員が何度もテーブルにやってきては、辛さが口に合うかどうかを気にしていた。大丈夫だと答えるのだが、またしばらくするとおずおずとやってくる。店員が寄ってくるたびに太一は耐えかねたように忍び笑いをする。亜美もつられて笑いそうになり、食べるのに夢中なふりをしてナンを頬張った。

「だいじょうぶですか? からくないですか?」
「はい。おいしいです」

 太一が答え、亜美も咀嚼しながら笑顔で頷く。

「そうですか……」

 店員は不満そうに去っていく。
 たしかにスパイスがきいているが、味を打ち消すほどの刺激ではない。

「もう何度目? そんなに心配なのかしら?」
「うーん。ちょうどいい辛さだと思うけどなあ」

 店員は、食べ終わった食器をさげるときも同じことを言った。

「からくなかったですか?」

 頷きかけた亜美を太一が遮った。

「すっごく辛かったです!」

 亜美は、え?と声にならない声を出す。ちょうどいい辛さだと言っていたはずだ。

「そうですか! からかったですか! ネパールでは、これはぜんぜんからくないです」
「へえ、そうなんですね」

 太一は感心し、店員は喜んでいる。そして、ネパールとインドの食文化はほとんど同じだということ、日本のインド料理の店の大半はインド人よりネパール人のほうが多いということなどの説明を聞いて、ようやく店を後にした。

「なんかおもしろい店だったな」

 太一は飲食店への評価とは思えないようなことを言う。亜美は相づちを打ちつつ、こうして小さな出来事を共通の思い出にしていくのだなあとぼんやり思った。

 人通りの少ない夜の住宅街を亜美の家まで並んで歩く。

「車買おうかなあ」
「どうしたの、突然」
「電車や徒歩より楽だろ?」
「えー。でも車だとさあ……」
「車だと?」
「……つなげないじゃん」
「ん?」
「手。車だとこうして手をつなげないでしょ?」

 太一はしばし無言で見つめていたかと思うと、いきなり抱き締めてきた。

「亜美……」
「ちょ、ちょっと、なに? やめてよ、こんなところで」

 もう家の目の前だ。近隣の住人どころか両親に目撃されかねない。あわてて太一を引きはがし、「じゃあね」と言って玄関に駆け込んだ。
 閉めかけたドアを再度細く開くと、太一はまだこちらを見ていて、笑顔で手を振った。

「またな。おやすみ、亜美」
「今日もありがとう。おやすみなさい、太一」

 亜美も手を振り、ゆっくりとドアを閉めた。
 思わず口元が緩む。鍵をかけてから室内に向き直る。

「おかえりなさい」

 上がり框に母が立っていた。

「び、びっくりしたあ!」

 呼吸を整えてから靴を脱ぎ、改めて母と向き合う。

「ただいま。お母さんったら、いつからそこにいたの?」

 そうねえ、などと返事にならないことを呟く母越しに視線を感じる。リビングの入り口から父が顔を覗かせていた。父は亜美と目が合うと、はっとしたような表情をして、「おかえり」と言った。

「ただいま」

 亜美は盗み見るような両親の視線から逃れ、二階への階段をのぼった。
 なにか訊いてくれれば答えるのに、父も母もおかえりしか言わない。いつかは話そうと思っているのだけれど、どう切り出せばいいのかわからないまま三年以上も経ってしまった。こうなるとなおのこと話しづらい。


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この小説は、五条紀夫と霜月透子の合作です。

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