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「スポットライトに照らされて」 7 (全17話)

 昨日一日かけて掃除をした部室は、まるで初めからこの状態だったかのような当たり前の顔をしている。そして、ソファに寝そべる私も、ロッキングチェアでユラユラしている美香も、ずっと前からここにいたかのように居心地良く感じている。

 日差しはギラギラと照りつけるけれど、部室は窓を全開にしていれば涼しい風が入ってくる。クーラーも扇風機もなくたってそこそこ快適に過ごせる。

 だけど、私の中では名前のないドロドロとした熱をもったものがボコボコ沸騰していた。

「なんでもう少し早く始めなかったんだろう」

 何回目になるだろう。言っても仕方のない言葉がこぼれる。

「せめて夏休み前だったら、どうにかなったのかな」

 美香も今更戻れない分岐点を探し求める。

 窓からの風が長机の上に置かれていた一枚のレジュメをパラリと音をたてて床に落とした。私達はそのチラシをソファとロッキングチェアの上からじっと見つめる。また吹いた風でレジュメはパリパリと乾いた音とともに部屋の隅に張り付いた。

「よいしょっと」

 私はおばさんくさい掛け声をかけて立ち上がると、レジュメを手に取った。

 『高等学校演劇発表会 地区大会』

 見出しの文字を見ただけで、トクンと心臓が跳ねる。

 埃とカビの匂いが微かにする舞台袖。息を詰めるキャストたち。

 引幕を開けるだけのことに全神経を集中させるスタッフ。あまり遅くてはいけないが、幕の裾が揺れるほど早くてもいけない。ロープを引く際の滑車のわずかな音さえ極力抑える。これが意外と難しい。だからこれだけを何回も何日も練習する。
 そんなスタッフがいるからこそ、キャストは更なる使命感に支配されるのだろう。

 幕が開けば、体育館の暗幕の隙間から細く漏れる光。目が慣れるまでは観客の顔どころかそこにいることすら見えない。あるのは、ただ私が今ここにいるという確かな実感だけ。

「大会は来年までお預けかぁ~」

 いつの間来たのか、美香が私の手元のレジュメを一緒に覗きこんでいた。

 大会日程を確認しようと古賀先生のもとを訪ねたのは今朝のこと。

 地区大会の一言を口にした瞬間に差し出されたのがこのレジュメだった。地区大会の地区割りが決定したというお知らせだった。
 つまりどの会場校にどの学校が出場するのかはもう動かしようがないということだ。当然、追加も認められない。

 通常七月か遅くても八月中旬までには地区大会の会場校、発表順が決定するらしい。地区割等の協議をする生徒実行委員会があって、そこで各校から事前提出されている希望票をもとにどこの会場校に参加するのかが決まるそうだ。ちなみに会場校は持ち回り分担で、春のうちに出場予定校の顧問たちの会議によって決定している。

「大会に出れなくても、演劇ができればいいかな」
「一年目だしね。強豪校だったら、どうぜ一年生なんかスタッフどころか雑用しかできないし」

 笑顔でさらりと言い合うが、お互いにわかっている。どうせ強がりだ。

 演劇ができる状態に近づきつつあるのは本当に嬉しい。でも、大会に出られなくてもいいなんてちっとも思わない。発表の場は少しでも多い方がいい。そして、発表する以上は認められたい。

 強豪校だったらキャストになれないなんて、そんなことわからない。オーディション次第だ。そして、私はオーディションに受かる自信がある。美香だってそうだろう。一中で大会の主役を射止めたのだから。それで自信がないなんて言ったら嫌味だ。

 もし、自分がステージに立てなくても、演劇を作り上げる一端を担っていられるのなら、それは大きな価値がある。あの雰囲気、一体感の中にいられるというのなら会場整備だって構わない。その魅力がわからない美香じゃない。

「とりあえず、私たちには文化祭があるじゃん」

 美香がレジュメを取り上げて机に伏せて置いた。

「そうだよね。十一月までに劇ができる状態にもっていかないとね」
「そうだよぅ。仲間を増やすにしても、キャストをやれる即戦力は私たち二人だけなんだからぁ」

 そう、私たちには立ち止まっている時間なんかない。猛スピードで流れる「時」は気を抜くと簡単に私たちを振り落していく。
 まずは前に進まなくては。進めるうちに進まなくては。少しくらいの落し物なんか、振り返ってまで拾わなくてもいい。たったひとつの大切なものをしっかりと握りしめてさえいれば、きっとどこまでも進んでいける。

 窓から見える空には張りぼてのように大きな入道雲が聳え立っている。

「うーん。なにから始めればいいのかなぁ」
「基礎練習とかやる? ここでやる発声練習とか気持ちよさそう」

 美香が窓の外に目をやる。夏の日差しはあらゆる色を原色に近づける。山の緑は深く、空の青は力強い。

「常にやっておいた方がいいのは確かだけど、まだその段階にもいっていないよね」

 現実問題として、二人で演劇をやるのはかなり厳しいと思う。二人芝居にすれば一見どうにかなりそうな気もしてしまうけれど、スタッフが一人もいないのではどうにもならない。
 小道具、大道具、衣装などは事前にやることが大半だからキャストと兼務でも大丈夫だけれど、ステージに立ったままでは音響や照明はどうすることもできない。
 そう考えると、部員の確保が最重要課題なのかもしれない。

「古賀センセに相談してみようか」

 美香がおずおずと提案する。

「古賀先生ね……あてになると思う?」
「さあ。でも一応顧問だし」

 言い出しておきながら、たいして期待が感じられない。

「あんなのが顧問でどうやって活動していたんだろう」

 本人がここにいないのをいいことに、私は思ったままを言う。

「先輩たちが余程しっかりしていたとか」
「しっかりした先輩がいたら、県大会常連校が翌年から活動休止にならないでしょ」
「……それ、梢は変だと思わない?」
「変って?」

 なにが変なのかさっぱりわからない。

「ちょっと整理してみようよ。古賀先生が顧問になったのはいつから?」
「前にも話したじゃん」
「いいから。もう一度確認していくの。これがわかれば、部員が増えるかも」

 机に移動してレポート用紙とペンを取り出す。私も「なにそれ」と言いながらも向かい合って座った。

 なにかを進める時の美香は頼りになる。部活動の新規設立についての規約を調べてきたり、顧問や部室を確保したのだって美香の手柄だ。
 普段の美香はポーズなのか、バランスをとっているのか、未だによくわからない。

「古賀先生が顧問になったのは六年前って言っていたかな」
「そうだよね。今年二十九歳で、二十三歳になる年に下郷にきて、演劇部の顧問になったんだよね」
「たしかそう」

 年齢とかは忘れていたけど、六年っていう年数は合っていると思う。話した私より美香の方が覚えているというのは変な感じだ。

 美香がレポート用紙に横線を引いて、六つの目盛をつけた。

「で、最後に大会に出場したのは?」
「三年前」

 三つ目の目盛から左側を塗りつぶす。

「この最後の大会を最後に演劇部が活動休止になったとするじゃない?」

 なったとする、とは変な言い方だ。だって、実際に次の年は地区大会にすら出場していないのだから。

「だとしたら、三年前の部員は全員卒業しているよね?」

 私は頷く。三年前だからそうだろう。当時の一年生も私たちと入れ替わりで卒業しているはずだ。

「じゃあ、これはちょっと置いておいて」

 そう言って、レポート用紙を裏返しにする。動作がどことなく芝居がかっている。

「演劇部が廃部になっていなかったのは、なんでだっけ?」
「なんでって、部員がゼロになっていないから……あっ!」

 どうして忘れていたんだろう。そうだった。誰かがまだ籍を残しているから、顧問も部室もそのままだったんだ。

 あれ? でも。

「この春で全員卒業したはずだよね?」
「そうなの。ね、おかしいでしょ?」

 考えられることは二つ。留年したか、もしくは。
 美香の瞳がキラリと光ったように見えた。

「その次の年も演劇部は活動をしていた。でも、なんらかの事情で大会には出られなかった」

 そうすると、まだその生徒は在学中でもおかしくない。
 どっちの理由だろう。留年して二回目の三年生をやっているという方が自然かな。でも、なにかが引っ掛かる。
 今までにも気になることがちょくちょくなかったか。暑さで中までねっとりしている頭を必死に働かせてみる。

 そんな私たちをあざ笑うかのように、窓の桟にしがみ付いた蝉がジュワージュワーと騒ぎ出した。

「なんだよ。二人してそんな怖い顔をして」

 古賀先生は大袈裟に後ずさる。

 今日の登校当番の先生は誰なのか、今は姿が見えず、職員室には古賀先生しかいなかった。
 先生はTシャツに短パン、サンダルという海にでも行きそうな恐ろしくラフな格好で、隣の小島先生の椅子に足を投げ出している。当然、後ずさる際にも足は下さず、机の縁を掴みながらキャスター付きの椅子ごと後ずさるというものぐさっぷりだ。

 意気込んで職員室まで来たもの、幽霊部員の存在についてどう切り出せばいいものか決めかねていた。顧問である古賀先生がその彼女だか彼だかの存在を知らないはずはなく、知っていながら教えてくれないのには、深いわけがあるのではないかと思わざるを得ないからだ。

「あ、地区大会のことなら、あれだぞ。俺のせいじゃないからな。お前らが演劇部に入るなんて、わからなかったんだから」

 なにを思ったか、見当違いの言い訳を必死にしている。

「もし、梢ちゃんが四月に来た時点で入部するって言っていたら一人芝居でもできたかもしれないけどな」

 自己防衛のために、他人の古傷をえぐるか、こいつは。
 キッと睨み付けた私の腕を美香が素早く抑える。さすがに暴力には訴えないってば。

「でも、あれか。一人芝居だとしても音響や照明はどうにもならないもんな。助っ人程度じゃ演技にきっかけを合わせるのもなかなか難しいだろうし」

 あれ? と美香と顔を見合わせる。意外とわかっているじゃん。
 腐っても演劇部の顧問だな。そう軽蔑とも尊敬ともつかない感想を持っていると、心の声が漏れたのか、美香が「めっ!」と表情でたしなめてきた。すんません。

「ちなみに、文化祭も無理だからな」

 ついでのようにさらりと言う。

「え?」

 文化祭も無理? なに言っているの?

 やけに扇風機の音だけが耳につく。外では蝉も鳴いているし、野球部の金属バットのカキーンという音や、掛け声もしているはずなのに、なぜかブォーという低い風の音だけが大きく聞こえる。

「文化祭って、十一月ですよね?」

 美香がいつもの弾む口調も忘れて、政治家に詰め寄る記者のような口調で問う。

「いつだろうと無理だって」
「なんでですか? 今から準備すれば充分間に合います。音響や照明だって考えればなにか方法があるはずです」

 私は必死だった。大会だけでなく文化祭までも出られないなんて。そんなことがあっていいわけがない。だって、私たちは演劇部で、誰かに観てもらうためにやろうとしているんだから。

 発表をしても観客がいないのなら仕方がない。いや、そんなの悲しすぎるけど、誰かに観せるためにつくった劇なら、満足はいかなくてもある程度の達成感は得られるんだと思う。
 そうではなくて、初めから発表の場が与えられない演劇部って、演劇部としての価値はどこにあるっていうの?

「だって、この一年間の活動実績がないからさぁ。まあ、一年どころじゃないんだけどね」
「そんなぁ……」
「でも、そんなのは私たちのせいじゃないですよね、古賀センセ」
「もちろん、ミカリンのせいでも、梢ちゃんのせいでもないよ」

 おなかの奥でボコリと大きな泡が浮かんで割れた。

「……じゃあ、誰のせいなんですか?」

「え?」
「演劇部を活動休止に追い込んだのは誰のせいですか?」
「いや、それは……」
「県大会出場の常連校が翌年から急に活動休止ってなんなんですか? 一年生や二年生の部員はどうしちゃったんですか?」
「梢……」

 私の剣幕に美香が再び腕をとる。だけど、私はその手を振りほどいた。

「美香だって、この話を聞きにきたんでしょ? この学校にはまだ演劇部の先輩がいるんじゃないの? だから廃部になっていなかったんでしょ?」

 すっかり敬語を使うことも忘れてまくしたてる。

「……いやぁ。こりゃまいったなぁ」

 古賀先生は例のくさい芝居のような、天井を仰いでおでこに手のひらを乗せるしぐさをした。

 ふいに世界の音が戻ってきた。蝉は忙しなく鳴き、グラウンドからは野球部の声がする。

「うん。わかった。演劇部の部員なんだもんな。説明しよう」

 私たちは身を乗り出した。

「ただ、少し時間がほしい」

 説明するだけなのに時間ってなんだ。プリントでも用意するわけじゃないだろうに。

「そうだな、二学期になったら必ず説明するから。悪いが、それまで待ってくれ」

 そう言ってぺこりと頭を下げる。

 先生に頭を下げられてしまっては、私たちは頷くしかなかった。

 とにかく部室に戻ろうとピロティを通ると、誰もいないはずの空間に大の字に寝そべっている人がいる。Tシャツには「根性」の二文字。

「そのTシャツ着る資格ないじゃん。根性の文字が泣いているよ」

 仁王立ちで見下ろしてやると、北山はピョコンと勢いよく起き上がった。

「すいません! なんか急にめまいが……って、なんだよ、先輩かと思ったじゃん」
「めまい起こした人がそんなに素早く動けるわけ?」
「いやいや……。これは、ちょっと休憩というか」
「はあ?」
「だって、外暑いじゃん?」

 言いながら再びコロンと横になる。

「そうだよね~、運動部は夏きついよね~」

 美香が相槌を打つと、北山は転がったまま「あ、わかってくれる?」と嬉しそうに答える。

「でもって、今は休憩時間なんだよね、当然」

 私は美香みたいに優しい言葉なんかかけてやらない。

「違うけどさぁ、マジきついんだって」

 だったらなんで陸上部なんかに入ったのよ。わけわかんない。

「あ、でも俺すごいんだよ」

 起き上がって胡坐をかく。

「サボってばっかなのに、夏の大会でリレーの補欠なんだよね~」
「へぇ! すごいね!」

 美香は手を叩いている。すごいのか? 補欠だよ?

「そう、すごいんだよ、俺。リレーは部内の選抜メンバーみたいな感じだからさ、一年生で補欠って結構すごいんだよね」

 美香はひたすら「すごいすごい」を繰り返している。北山もご満悦だ。
 そんなに盛り上がっちゃって、馬鹿じゃないの? 私はグツグツと熱くドロドロしたものが胃の辺りから噴き出してくるのを感じていた。喉元に力を入れ、抑え込もうとしても、私の中のマグマはせり上がってくる。

「もしかしたら、俺って陸上の才能あるのかも」

 美香が乗せるものだから、北山は調子に乗っている。
 もうだめだ。噴火する。

「だったらきちんと練習してレギュラーになってみなさいよ! サボっている自覚があるんだったら、ちゃんと練習に出なさいよ! それとも、なに? 本気になってやった結果がたいしたことなかったらカッコ悪いとか思っているの? ばっかみたい!」

「……梢?」
「えっと……木内?」

 姿勢悪く座っている北山のTシャツにしわが寄って、「根性」の文字がひしゃげている。

「真面目に一生懸命やるのを恥ずかしいとか思っているんだったら、部活なんかやめちまえっ!」

 怒鳴り声がコンクリート打ちっぱなしの壁に反響している。

 私は部室へ向かった。階段のカメムシも気にせずにガンガン踏み潰して、部室のドアを勢いよく開けたら、茶色い巨大バッタと、緑の巨大バッタがそろって飛び立った。

 しばらくすると、部室のドアが静かに開いて、美香が入ってきた。

「うわっ、なにここ。すっごくカメムシ臭い!」

 せっかく静かに入ってきたのをぶち壊す大声で美香が叫んだ。

「梢の上履き、洗った方がいいって。もとい、絶対に洗って下さい、お願いします」

 言われると、ものすごい異臭が立ち込めているのに気が付いた。しまった。一時の感情でカメムシの大群を無視して歩くなんて、とんでもないことをしてしまった。
 私は靴脱ぎ場にある自分の上履きを外廊下に出してドアを閉めた。中にバッタが入るかもしれないけれど、仕方がない。臭いの元を遠ざけることが優先だ。

「今更外に出してもおそいよ~。部室中に充満しているし。オエッ」

 美香は棚から取り出した過去の台本らしきものを両手に持って仰ぎ始めた。効果があるとは思えないけれど、反省の印として私も美香に倣った。
 やがて少しは臭いがマシになって、私たちは仰ぐのをやめた。臭いが消えたわけではなくて、鼻が順応しただけかもしれないけれど。

「すみません……」

 私は小さくうなだれてお詫びした。

「別にいいよ、カメムシは。あ、いや、よくはないけどさ」

 美香には悪いところはなにもないのに、モジモジしている。

「北山君さ、練習に戻って行ったよ」
「……そう」
「落ち込んでいて、ちょっとかわいそうだった」
「ふぅん」

 それきり美香はなにも言わなかった。

 自分でもわかっているんだ。八つ当たりだって。部活が思いっきりできる状況でありながら、サボっているのが許せなかった。しかもそれでも補欠だなんて。大会に出られるなんて。そんなのじゃダメだって思った。――違う。羨ましかった。悔しかった。恵まれているのにそれに気づいていない北山が。

 でも、そんなことは北山自身が決めること。あいつ自身が望んでいることではないのなら、それは本人にとって恵まれた環境とは言えないだろうから。
 そんなこと、全部わかっている。わかっているのに、我慢できなかった。立場を代えてほしいよ。私だったら、なんでもする。自主練だってやっちゃう。それをきついだなんて思わない。楽しんでやる。

 けれど、私は陸上部ではないし、そもそも陸上なんて興味ないし。だから羨んでも仕方がない。わかっている。わかってはいるんだけど……。

「うわっ! やっぱくっさっ!――ねぇ、梢。これどうやって持って帰るのぉ?」

 美香が鼻をつまんで私の上履きを掲げていた。

『一日練習しなければ自分に分かる。二日練習しなければ批評家に分かる。 三日練習しなければ聴衆に分かる。』

 これは中学の時に先輩から教えてもらった言葉だ。なんでもアルフレッド・コルトーとかいうフランスのピアニストの名言らしい。もちろん音楽のことを言った言葉だけれど、表現するということにおいては同じはず。そういうわけで、新入部員が入るとこの言葉を教えるのが伝統行事となっていた。そして演劇に置き換えて『一日練習しなければ自分に分かる。二日練習しなければ相手役に分かる。 三日練習しなければ観客に分かる。』と覚えさせられた。

 この言葉を思い出して、私たちは発表のあてがないまま基礎練習だけは始めることにした。けれど、一日練習しなければ自分にわかるものを四ヶ月練習しなかったのだから、我ながら驚くほどの衰えっぷりだった。

「うわっ、なにこれ? 自分の身体じゃないみたい!」
「痛い! 膝の裏、痛い!」

 前屈をするが、手がつま先まで届かない。膝の裏がピンと張って今にもブチッと切れそうだ。

「うう~、足が全然開かない……」
「駄目だー、座っているのが精一杯。前屈なんかできないよ~」

 開脚前屈をしようとしても、足を九十度も開いたら股が裂けそうに痛い。上体を倒すなんてとても無理。
 身体中の筋が縮んでしまったかのように、なにをしても可動域が狭くなっている。少しでも無理をして伸ばそうとすれば、途端につる。
 柔軟体操もそこそこに筋トレを始めることにする。しかし、こちらも筋力低下の速さを思い知らされる。腕立て伏せ、背筋、腹筋。どれも全身を痙攣させて倒れ込む。

「腕立て、八回が限界だよぉ。十回もいかないなんて信じられな~い」
「腹筋十回目でおなかつった!」
「腹筋百回なんてとてもじゃないけど、できないよぅ!」

 回数は全然やっていないのに、Tシャツはぐっしょり濡れ、膝まで折り上げてあるジャージも腿にひっついて気持ち悪い。
 まずい。これは非常にまずい。発表が決まってから基礎練習をやっていては絶対に間に合わない。中学三年間、毎日欠かさず、やってきたことがこんなにも簡単に無に還るなんて!

「まさに『継続は力なり』だね」

 力なく転がる私に美香がタオルを投げてくれる。

「ありがと」
「うん。……ねえ、ランニングはどうする?」
「あー。まだあったかー」

 今日やろうと決めた予定は、柔軟、筋トレ、ランニング、発声練習。時間に余裕があったらエチュードとかもやりたいね~なんて言っていたのだが。

「この体力の衰え方からすると、かなりきつそう~」

 美香が体育座りでうずくまる。確かにランニングはきついだろうな。夏だし。
 しかーし! この前、北山に説教に見せかけた八つ当たりをしてしまった手前、やるしかないでしょ!

「行くよ! 美香」
「え~。行くのぉ~?」

 めちゃくちゃ嫌そうな口調だけど、ちゃんと立ち上がる。

 最近ちょっとわかってきた。美香は口に出している言葉よりずっとやる気があるって。たぶんだけど、スポ根みたいなド根性が嫌なんだと思う。それはわかる。なんか暑っ苦しいもんね。
 でも、中身はあっつあつなんだよね。小龍包みたいな感じ。外側はつるん、ぷよんとして「どうってことないですよ」って顔しているくせに、中は激熱。わかるよ、私もだから。たとえはわかりにくかったかもしれないけれど。

 ランニングコースは外周道路。下郷高校は斜面に建っているから、当然のことながら外周は全部坂道。平地なし。ただ、気持ちはいい。校門側はバス通りになっているけれど、部室から見える方は山と畑を眺めながら走れる。上り坂だけど。

 山側は蝉の鳴き声がものすごい。一帯が重なり合った鳴き声で充満していて、肌の表面まで空気が細かく震えている感じすらする。音は空気の振動なんだと実感する。

 外周道路を二周もしたら、足がもつれて進まなくなった。部室まで辿り着けず、誰もいないのをいいことにピロティで大の字に寝転んだ。一日中日が当たらないため、床がひんやりしていて気持ちがいい。北山がこの場所で休んでいたのもよくわかる。

 こんなんじゃ駄目だ。もっと体力をつけなくちゃ。六十分の上演時間に耐えられる体力をつけなくちゃ。柔軟性も必要だ。動きを自然にきれいに見せるためには体は硬いより柔らかい方がいい。
 ああ、この後は発声練習もやらなくちゃ。声も小さくなっているかな。腹式呼吸もちゃんとできるかな。喉を潰しちゃったらいけないからね。滑舌も……。

 ピロティを風が吹き抜ける。夏の匂いがする。眉間のあたりがトロリとしてきて、ゆっくり眠りに落ちていくのを感じる。

 あ……寝ちゃだめ。まだ練習が残っているのに……。

 ――照明、音響、F.O.フェードアウト

     *

 一度はできていたことというのはすごい。柔軟体操は五日もすれば以前と変わらないくらいに曲がるようになり、十日と経たないうちに痛みよりも痛気持ちいい感覚に変わった。ランニングも、苦しいながらも足が地面に吸い付くような重さはなくなってきた。腹筋だけは回復が遅く、どうにか五十回をこなせるようになったところ。

 ランニングを終えて、校門に入ろうとすると、昇降口からやってくる葵が見えた。

「葵ちゃーん!」

 美香が両手を振って、ピョンピョン跳ねる。初日の練習からは考えられない体力だ。

「お。演劇部、やってるねぇ」

 美香とハイタッチしながら私にも笑いかける。

「葵、なにしてるの? 部活は入ってなかったよね?」
「あー、委員会」
「学級委員? 夏休みなのに?」
「そっちじゃなくて。文化祭実行委員。今日、一回目の委員会だったんだ」

 文化祭実行委員は、各クラスから一人ずつ出さなければならない。ほとんどのクラスが二人いる学級委員の片方が文化祭実行委員も兼務しているらしい。クラスの意見をまとめて委員会に上げるのは学級委員の仕事の延長のようでもあるからだろう。

「もう? 文化祭は十一月でしょ? ずいぶん早くない?」
「そうでもないみたいだよ。来週から二学期じゃん? 九月中にはクラスごとの出し物を決めなくちゃいけないから、内訳をどうするか話し合うんだって」
「模擬店ばっかりでもつまんないしね」
「でもぉ、食べ物屋さん以外にやることあるぅ?」

 美香のいうとおり、文化祭といえば食べ物のイメージだよね。なんでだろう。特に面白そうだとは思えないけど。

「去年はお化け屋敷が五クラスもあったんだって」

 葵がうんざりした顔をする。

「そんなにあってどうするの? 十一月に寒い思いしたくはないでしょ」

 さっぱりわからない。そもそもちゃんと怖いのか?

「思いつかなかったんだろうね。あと、迷路とか」

 つまらなそう。そして暇そう。

「まぁ、今から考えておいてよ」
「う~」

 私は肯定とも否定ともつかない曖昧な返事をしてごまかす。だって面倒くさい。もう文化祭とかどうでもいいし。

「あ、でも、演劇部はステージ発表があるから、あまりクラスに顔出せないね。準備期間も練習とかあるんでしょ?」

 声のトーンを上げて話す葵に、うらめしげな目を向ける。

「……え? なに? 違うの?」

 私の反応が意外だったようで、美香にも問う。

「なんかぁ、一年以内に活動実績がないと駄目らしいんだよねぇ。」
「なにそれ? そんな規定あるの?」

 心底残念そうな顔をしてくれる。城東学院の『夕鶴』を観た時から私たちの演劇に対する思いが伝わったのだと思う。思い返しただけで恥ずかしいけど。どこかに入れる穴ないかなとか思っちゃう。

「ゲリラ公演やっちゃえば?」

 葵が過激なことを言う。

「たとえばさ、中庭とかで突然劇が始まるの」

 野外劇か。やったことはないけど、面白そう。中庭は校舎に囲まれているから、きっと声もよく響くだろう。あの階段状になった部分も客席にちょうどいい。きっと通りがかりに覗いていくのだろうから、うんと短い劇がいい。コントのような。それを何本もやる。面白いと思った人はそのまま何本も観てくれるかもしれない。そして、観客がいることで、もっと人が集まるかもしれない。その中心にいるのは私と美香。校舎の窓からもなにごとかと覗く人がいるかも。

「でも、去年ゲリラライブやったバンドは解散させられたらしいけどね」

 葵がさらりと言う。
 一気に夢から覚めた。そんな危険なことできるか。

「文化祭での発表はもういいよ。無理だってわかっているし」

 残念だけど、現実的に考えて美香と二人では無理があるなとは思う。いろいろやりようがあるのかもしれないけれど、今じゃ無理。初心者に毛が生えた程度にしか戻っていないし。体育館ステージみたいな広いところでやるとなると、それなりの実力が必要だ。キャストもスタッフも。細かい理由はいくつも思い浮かぶけど、演劇を知らない葵に言ってもピンとこないと思うから、「二人でスタッフまでやるのも限界があるしね」と言うに留めておく。
 すると、葵は「なるほど、人数の問題ね」とかなり薄っぺらな理解を示した。

「あ、ちょっと今、クラスの出し物でいいこと思いついたかもしれない」

 そう言って上機嫌で「ばいばい」と手を振る。

「あ、そういえば」

 帰りかけた葵が傍まで戻ってきて、小声で告げる。

「玲奈、彼氏と別れたらしいよ」

 ……どうでもいいわ! その情報。


次話


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