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#012 器物も百年経てば…

魯迅の「中国小説の歴史的変遷」は、漢の時代の小説を説明したあと、六朝時代の小説へと話が移ります。

とりあえず、いつか役に立つかもしれないので、『漢書』芸文志・諸子略・小説家に載っている15の書物を全部載せておきます。

伊尹説・鬻子説・周考・青史子・師曠・務成子・宋子・天乙・黄帝説・封禅方説・待詔臣饒心術・待詔臣安成未央術・臣寿周紀・虞初周説・百家

では、六朝時代の小説に関する魯迅の授業を読んでみましょう。

中国ではもともと鬼神を信じてきました。ところが、鬼神と人間とは隔てられています。この人間と鬼神との交通をもとめるところから、巫[フ]が出現しました。巫はのちに二派に分かれます。一派は方土、他の一派はやはり巫です。巫は多く鬼について語り、方土は多く錬金術と仙人になる方法を語りました。秦・漢以来、その風潮はしだいに盛んになり、六朝時代になってもやみませんでした。そのため志怪の書が特に多いのです。

巫とは、シャーマンのことです。そして、「志」は「誌」と同じで、「記録する」という意味です。魯迅は、志怪の例として、劉敬叔(390-470)の『異苑』を取り上げます。

義熙中に、東海の徐氏の婢蘭忽ち羸黄[ルイオウ]を患い、而して拂拭すること非常なり。共に伺いて之を察[ミ]るに、掃帚の壁角より来りて婢の床に趨[ハシ]るを見る。乃ち取りて之を焚[ヤ]く。乃ち平復す。

東晋の義熙年間(405-418)に、東海郡の徐氏の下女の蘭が突然疲れ病にかかったが、異常なほど熱心に清掃をするようになった。女の部屋をひそかにうかがっていると、箒が壁のすみから女のベッドに向かって走っていくのが見えた。そこでこの箒を焼きすてたところ、女の病気はもとどおりになおった。

魯迅はこのように言っています。

これによって、六朝時代の人々がすべての物は妖怪になりうると考えていたことがわかります。これが「アニミズム」といわれるものです。このような思想は、現在でも依然としてのこっています。たとえば木の上に「有求必応」(願いごとがあればかならずかなえられる)と書いた横額がかかっているのをよく見かけますが、これは社会でまだ樹木を神とみなして、今も六朝人同様の迷信にとらわれていることを証明するものです。実際にはこのような思想は、もともと昔はどこの国でもあったもので、それがのちにだんだんすたれていったにすぎません。ところが中国では今もって盛んであるのです。……このほかに六朝人の志怪思想の発達を助長したものが、インド思想の輸入です。晋、宋、斉、梁の四朝は、仏教が大いに流行し、多くの仏典が翻訳されましたが、それらに混じって鬼神、怪異の話も同時に紹介されましたので、この時代に中国、インド両国の鬼神、怪異が小説の中に合流して、いっそう発達することになりました。……ただし六朝人の志怪は、おおむね今日の新聞記事のごときもので、当時の人々に小説をつくろうという意図があったわけではありません。このことは知っておいていただきたいと思います。

日本でも「付喪神(ツクモガミ)」といって、器物が妖怪になる話が多く残っています。室町時代の『付喪神絵巻』(16世紀)には、

器物百年を経て、化して精霊を得てより、人の心を誑かす、これを付喪神と号すと云えり

と記されています。ちなみに「有求必応」は、中国語で、yǒu qiú bì yīngと発音するのですが、この四字熟語をもとに、「必ず応える」[bì yīng]という意味を持たせて命名されたのが、マイクロソフトの検索エンジンの「bing」です。

という豆知識を紹介したところで、六朝時代の続きをしたいのですがw…

それは、また明日、近代でお会いしましょう!


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