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#014 ようやく小説が小説になる!

魯迅の「中国小説の歴史的変遷」は、唐(618-907)の時代に入ります。魯迅は、このように語っています。

小説は、唐代になって一大変遷をとげました。前回述べましたように、六朝時代の志怪と志人の文章は、いずれもごく短いもので、しかも事実の記録と見なされていました。唐代になると、それが意識的に小説をつくるようになったのです。このことは、小説の一大進歩ということができます。それだけでなく、文章も長くなり、曲折に富んだ描写もできるようになって、それまでの簡古な文体とはたいへん異なるものとなりました。文体の点から見ても一大進歩ということができます。

唐代になって、ようやく、これまでの「取るに足らない巷の世間話」の採集ではなく、「フィクション」としての「小説」を意識的に書くようになったらしいです!

まぁ、でも、唐以前にも、「あったんじゃないかなぁ〜」とは思っているんですよね…wあくまで、歴史的分類から外れてしまっただけで、「真っ赤な嘘の物語」を好んで書いていた人もいるはずですよね?w

だって、荘子が寓言を用いたように、「例え話を作る」という行為は、古代から行われていたのですから…問題は、作り話を重用するようになり、歴史的文献として残すことになった、その社会的背景ですよね。

ちなみに、当時、これらの作品は「伝奇体」と呼ばれ、けなされていたようです。魯迅の授業を続けます…

唐も開元(713-741)、天宝(742-755)以後になりますと、作者が輩出し、様子が一変します。それまでは小説を軽蔑していた者たちが、小説をつくりはじめるようになりました。これは当時の社会環境と関係があります。唐代では、科挙の試験のさいに、「行巻」というものがたいへん重視されました。受験生たちは都へやって来ますと、まず自分の会心の詩作を巻子[カンス]に写して、当時の有名人に拝謁に出かけます。もしそれが賞賛を受ければ、「声価十倍し」て、及第の望みが開けます。そのため、この行巻がきわめて重視された訳です。開元、天宝以後になりますと、しだいに詩が倦まれる傾向が出てきました。すると小説を行巻の中に入れる者が現れ、しかも名声を得たりする者が出てきました。そこで以前は小説に不満であった者たちが、さかんに小説を書くようになり、そのため伝奇小説が一時隆盛をきわめるようになりました。

この「行巻」ってやつは、推薦状を得るための技能試験のようなものなのでしょうか…。でも、裏口入学の口利きみたいで、ちょっと怪しい感じもしますよね!事実、この行為、腐敗が入り込む余地が大きく、宋代(960-1276)になって改められることになったようです。

この唐代あたりから、「あぁ〜聞いたことある!」っていうような作品が登場してきますので、それを見ていきたいと思うのですが…

それは、また明日、近代でお会いしましょう!


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