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【雑記】楽しみを見つけること

  
 個人的な出来事に関することだが、同じようなことを感じたことのある方がいらっしゃるかもしれないと思ったので、シェアする。

 私は楽器を弾くのが趣味で、年に一回くらいの頻度でアマチュアのオーケストラ(通称アマオケ)の演奏会に出演している。(聴きに来られたことのない方、アマチュアといえども意外と本格的で面白いですよ。)
 ところが、ここ数年活動に参加していてあまり楽しいと感じられなくなってきたのだ。もちろん、旧友と一緒の時間を過ごしたり、打ち上げをすることはかけがえのない時間である。それに、他の人と一つの音楽を奏でる楽しさは他のものに代え難い。しかし、何かが足りないんだよなあ、、、という気持ちが払拭できなくなってきた。ひとまず今年に関しては参加することを決めたが、何か煮え切らない気持ちが残っている。

 具体的に、どの点に不満があるのか考えてみた。
 仕方ないことであるが、学生の部活動とは違って社会人が主体なのでメンバーそれぞれのモチベーションはまちまちである。また、中心となるメンバーは固定的ではあるものの、多くのメンバーは演奏会ごとに入れ替わっている。結果として、こういう演奏がいいよねという共通認識が十分に形成されず、単に楽譜に書かれていることを再現することがゴールになってしまっているように感じる。楽譜をなぞることはあくまでスタートラインに過ぎず、自分たちならではの表現を模索するのが面白いのに、勿体無いなと思うのだ。ここ数年、社会人になったり、noteを書き始めたりと、何かを生産することに意識が向くようになってきた。だからとりわけ違和感を感じるのかもしれない。

 アマオケの活動を振り返ってみると、与えられたプログラムやスケジュールをこなすという受動的なスタンスになっていたように思う。理想的なアマオケ像と現実とを勝手に比較をして不満が生まれていたのかもしれないと反省した。結局のところ、自分ができることは、自分が楽しめるように工夫をすること、そして楽しみを周囲にシェアしていくことである。人から与えられるものは代わり映えしなくて当たり前、せっかくやるんだから前向きに関わろうと気持ちを新たにした。

 話が飛ぶが、古典に対する向き合い方も似ていると感じる。
 今回取り上げたクラシック音楽然り、文学然り、学術書然り、内容は今の時代から見れば目新しさがあるわけではなく、なぜここまで持ち上げられているのか理解し難いと思っていた。
 しかし、時間が経ってから同じ作品に触れると、新たな発見があることに最近気づきはじめた。例えば、アマオケで以前に演奏したことのある曲を再度演奏することになった時に、ここは楽器同士の掛け合いがあったんだ、とかフレーズをこうとった方が面白そうだな、と思うことがある。作品の内容が変わったわけではなく、自分の向き合い方が変わったのだ。
 古典作品の内容は普遍的で、何度触れても飽きない。時代の淘汰を乗り越えるだけの内容の濃さがあることは間違いない。作品からどれだけ引き出せるかは、自分次第なのだと思う。いかに自分に引き付けて作品に触れるか、工夫することを大切にしたい。
 今日は文化の日である。数々の名作、古典に触れることができるのはありがたいことだと改めて思った。


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