見出し画像

地銀行員の憂鬱、からの卒業

こんにちは、常磐三千太(ときわみちた)です。

今回は営業店で腐り切っていた私が、少しずつ前向きに仕事に取り組んでいけるようになり、最終的に仕事がライフワークと言えるまでになった軌跡を「3 STEP」でお話ししたいと思います。

銀行で働く方はもちろんですが、そうでない方も、これからのキャリアや人生を前向きに歩みたい方には参考となるお話しだと思いますので、ぜひ最後まで読んでみてください。

STEP①:小さな気付き

一時期「かわいいは作れる」というコピーが流行りましたが、私はある事をきっかけに「働きやすさは作れる」ということを知りました。自分の働く環境の「働きやすさ」は自分で作れる、という話です。

入行から5年ほど経っていた私は、ニカ店目で渉外(いわゆる外回り)を担当してました。そして、行内でも有名なパワハラ支店長と、支店長に何も言えないポンコツ副支店長の元で、数字を詰められる毎日でした。

とにかく「どうしたら怒られないか」しか考えることが出来ず、日曜日の夜にはなかなか寝付けないことも多々ありました。

そんなある日の業後、副支店長に呼び出されて「なんで案件取ってこれないだ」と言われした。心当たりはありました。

渉外課の係替えで定例の集金が爆増し、まったく営業に時間を掛けられていなかったのです。月に60件ほどの訪問があり、半日集金で終わることも少なくありませんでした。

そのことを副支店長に伝え、「集金先の見直しを一緒に考えて欲しい」とお願いしました。その時は「そうだな、分かった」と言ってもらったので、状況が改善すると思っていました。

しかし、その後何度か「集金先の件ですが、、」と声を掛けると「ごめん、忙しいからまたにして」と言われるばかりでした。そこで私は思いました。「副支店長なんてほっといて自分一人で進めよう。。」

いま振り返ればなんてことない、当たり前の行動です。しかし、当時の私は怒られることを極度に恐れ、何事も「上司に相談してから」やらなければいけないと思い込んでいました。

というより、上司から指示されたこと以外、何もやっていなかったと言ってもいいかもしれません。

スイッチが入った私は、集金先リスト1件1件に、解約か口座振替を選ぶように交渉し、最終的には半分程度に削減することができました。1件クレームになりましたが、その時だけ副支店長を連れて謝りに行き、事なきを得ました。

この経験がきっかけで、私は「働きやすさ」は自分で作れる、ということに気付きました。これを境に、私は「どうしたら働きやすいか」を考えるようになり、自分自身の「理想の働き方は」「どんな仕事をしたいか」という情動を、敏感に感じるようになりました。

※集金先が減ったからといって営業の成績はそこまで改善しなかったですが、少なくとも自分がやりたい仕事に時間を割き、同僚とサボるだけの余裕は出来ました。

STEP②:内なる情動

2020年2月。コンビニで買ったおにぎりと豚汁を支店の食堂で食べていた私は、テレビに釘付けになっていました。

非常に感染力が強い、新型のウイルスが、クルーズ船で蔓延しているというニュースでした。パートのおばさんと「怖いですね〜」「感染者が広がんないといいけどね〜」なんて呑気なことを言っていました。

それから1ヶ月後、世はまさに大コロナ融資時代。「無担保・無保証で借りられる」衝撃の保証制度でした。ありえないほどの融資相談が支店に押し寄せ、既存先も新規先も対応を迫られる状況でした。

銀行担当者も我先にと提案し、お客さまに認定書を取得してもらうよう依頼しました。不謹慎かもしれないですが、期末に追い込まれた銀行員が一発逆転をできる絶好の機会でした。

しかし、1週間もしないうちに状況は変わってきました。「役所に長蛇の列ができ、申請書の発行まで1週間かかる」「保証協会も保証決定まで、何日かかるかわからない」。

ふと、現実に戻されました。まさに有事。目の前には飲食店をはじめ廃業に追い込まれそうな中小零細企業、個人事業主が溢れていました。

当時コロナ融資を実行した企業のうち、一体どれだけの企業が本当に必要だったのか。本当に必要な企業に行き届かず、廃業に追い込まれたところもあるのではないか。

なぜ1つの保証制度のために、あそこまで情報が錯綜し、手続きに振り回され、役所の職員・保証協会の審査担当・申込法人の経営者が疲弊しなければならなかったのか。

そして、こんな想いが頭を巡りました。
「デジタルで申請ができて、システムで自動承認されれば、もっと迅速に融資を実行できたのではないか」

銀行のアナログさは常日頃感じていましたが、社会課題を現場で感じ、なんとかしたい、という想いが強く芽生えました。この「想い」に気付けたのも、集金先を整理した経験を踏まえ、自分自身の中にある情動に敏感になれていたからだと思います。

そんな矢先、公募の通達が出ました。有力地銀の「デジタル企画部」への出向ポスト。これは絶対に逃してはいけないと思い手を挙げ、出向の機会をもらいました。

このあたりから、仕事が「生き方」そのものに近づいて来た気がします。

STEP③:やり尽くした

1年間の出向期間を終え自身の銀行に戻り、私は自由気ままに仕事をしていました。まだデジタル企画の知見やノウハウが少なかった銀行だったので、ネット上にある先進事例を探して勝手に資料にまとめ、報告したりしていました。

当時の自分の原動力は2つあり
 ①自分が働いてる会社に誇りを持ちたい
 ②日本の未来を明るくしたい
と思っていました。少し詳しくご説明します。

①自分が働いてる会社に誇りを持ちたい:
まずもって私は、この第二地銀で働いていることを恥ずかしく思っていました。大学の同期は大手ばかりに就職し、引け目を感じていたからです。

しかし、中小企業の社長を相手に営業をしている中で感じたことは「企業の大きさに関わらず、誇りを持って素晴らしい仕事をしている人たちがいる」ということでした。

そして、私もそうなりたいと思いました。ネームバリューはまったくない銀行でしたが、「お客さまと社会のために役立っている」と胸を張って言える会社で働きたかったのです。

そのためにどうするか。せいぜい1000人ちょっとしかいない銀行です。そんな小さい銀行で幸いにもデジタル企画を担当していたので、自分の頑張り次第でいくらでも良い銀行に出来ると信じていました。

②日本の未来を明るくしたい
子供が生まれてから強く思うようになりました。近頃「日本オワコン説」のような通説が好まれる傾向がありますが、私は捨てたものではないと思っています。

そこで、「中小企業から日本を元気にする」と、わりと本気で思っていました。小さい銀行ですが、中小企業取引は厚かったですし、良いサービスを作れば選んでもらえると思って頑張っていました。

このように、わりと熱い想いを持って働いていました。

しかし、出向から戻って2年弱経った頃、色々と不満が出て来ました。そして、それは管理監督職のやる気がない、組織の統率がとれていない等、自分一人ではどうしようも無い事でした。

「自分が上に上がって組織を変える」ということも考えたのですが、あまりにも時間がかかり過ぎますし、不確実なことが多すぎるので、選択肢から外しました。

そこで、気付いたのです。
「この銀行でやりたいことはやり尽くした」

もう卒業の時だと察しました。そう思った日の昼休みに転職エージェントに登録し、1ヶ月半後には転職先が決まっていました。

おわりに

私は今でも「自分の仕事に誇りを持つこと」「日本の未来を良くしたい」と思い、仕事をしています。
銀行は変わりましたが、変わらず「中小企業から日本を元気にする」というミッションは変わっていません。

もはや仕事というよりライフワークになっていますが、すべてはあの「小さな気づき」から始まったマインドだと思っています。
要は仕事も人生も、自分の手で「作れる」ということに気付けるかどうか、なんだと思います。

以上、常磐三千太でした。

この記事が参加している募集

#創作大賞2024

書いてみる

締切:

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?