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卵かけ御飯について書こうとしていたのに、気づけばエッセイについてのエッセイを書いていた。『デタラメだもの』

外出を自粛したりすることで、物書きとして何に困るかというと、ネタに困ってしまう。あちこち出歩くわけにも行かず、街を行き交う一風変わった人たちを眺めることもできず、新鮮なネタに出会う機会がめっきり減ってしまうというわけだ。

もちろん、何らかの物事に対してそれを改めて見つめ直し、深堀りすることで、もはや当たり前になってしまった事柄に再び光を当ててあげることはできる。人が意識すらしなくなったものに対し、わざわざ言及したりすると、「変わった切り口だね」などと頭を撫でてもらうこともあれば、「変わった人間だね」と気色悪がられることもある。が、まぁそれは仕方がない。

では、何に対して改めて見つめ直してやろうかと模索してみる。するとまず始めに、卵かけ御飯について書きたくなった。生卵をグビグビと飲むことを好む人は、そう多くないと思う。健康のためとか筋トレのためなどと、目的を持っている人に限り、それを習慣としているかもしれないが、特に目的も持たず、生卵をグビグビやる人はそう多くないだろう。

ところがだ、この生卵ってやつ、ひと度ご飯にかけた刹那、圧倒的な旨さを発揮する。ご飯の旨味を引き立てているのか、それとも自身が突然変異的にその旨さを披露しているのか。果たしてそれは定かではないが、とにかく、たまらん旨くなるわけである。

と、卵かけ御飯について深堀りしてみようとしてみたが、「こんなエッセイ誰が読むねん」と、強めのツッコミが聞こえてきたので、テーマを変えざるを得ない。およそ10時間ほど悩んだ挙げ句に絞り出した卵かけ御飯のテーマだから惜しい気持ちはあるが、仕方がない。じゃあ、何をテーマとしようか。そうだ、エッセイについて書いてやろうじゃないの。エッセイについて。

まず手始めに、エッセイという言葉を辞書で調べてみた。するとそこには、『自由な形式で意見・感想などを述べた散文。随筆。随想。』と書かれてあった。なるほど、初めて知った。エッセイとは意見や感想を述べることなのか。勉強になる。

何の役にも立たない非凡な才能を保有した我が脳みそは、ここでエッセイについてのアレコレを書こうとしていたところ、思考が高速回転し、やたらめったら飛び石をピョンピョンと飛び跳ねた結果、人はどういったきっかけで、とある人間のエッセイを読みたいと感じるのか。というマニアックなテーマに行き着いた。どうしよう。今からでも遅くない。卵かけ御飯のテーマに戻ろうか。いや。後ろは振り返るまい。ぐふふ。

そもそも、意見や感想というものは、人、から放出されるものだ。例えば、「この人の意見っていつも斬新よねぇ」とか、「あの人の読後の感想を聞いてると、ついついその本を読んでみたくなる」といった風に、いつだって意見や感想には、人、が陣取っている。

ということはだ、エッセイを読んでもらうためには、まずは、人、を知ってもらう必要があるんとちゃうの。どんなに面白いエッセイや魅力的なエッセイを書いていたとしても、先にその人そのものに興味を持ってもらわないことには、エッセイを読んでもらうのは不可能ちゃうの。と考え、エッセイを執筆することから足を洗おうかしらんという諦めが過ぎったが、さすがにもうちょっと粘り強く深堀りしてみることにした。

思うにエッセイには2通りのパターンがある。それは、既に人気の作家や著名人が書くエッセイと、無名な人が書くエッセイのふたつ。前者をここでは、ファンクラブ型エッセイと呼んでみよう。

既に人気の作家や著名人は、それぞれ既に自身の作品が支持されていたり、知名度を得ていたりするわけだ。その上で、エッセイの魅力のひとつである、その人の考え方や人となりを知る、という醍醐味を味わうことができる。つまりはファンクラブ。もしくは、アーティストがライブをする際、控え室などを見学できるバックステージパス。もともとその人のことは好きで且つ、さらにその人のことをより深く知ってみたいときに読むわけだな。

では、後者の場合はどうだ。無名な人間が、意見や感想を述べるわけだ。それが非ファンクラブ型のエッセイ。考えてもみて欲しい。無名な人が主張する意見や感想に、あえて耳を貸してやろうという心優しい人は、この国にどのくらいいるだろうか。街なかで偶然すれ違った人がいきなり、「すんません、僕の主張を聞いてもらえませんか?」とにじり寄ってきたら、誰だって小走りで立ち去ることだろう。無名の壁はここにある。

そしたら、どないしたらええのん? 無名の人間が自分の主張や感想に耳を傾けてもらうためには、もうこれしかない。エッセイ内で語るエピソードを盛っちゃう。もう、盛っちゃう。どんどん盛っちゃう。それくらいしなければ、無名の人間が語る主張になど、誰も耳を傾けてくれやしない。生きる術なわけだ。

仮に、一日のうち3人の人間に同じことを言われたというエピソードがあったとしよう。3人なんかじゃ甘いわけだ。いっそ30人にしてしまおう。一日のうち30人もの人間から同じことを言われたというエピソードに昇華すれば、「おお、なんやなんや、えらい賑やかな話やないか」と興味を深めてくれるはずだ。

最終的には、「じゃあ、30人から言われた同じことって、どんなことだったの?」という疑問に対し、「おはよう」というセリフだったんだ。なーんて、やたらと反感を買うようなオチをくっつけてあげればいいわけだ。広げた風呂敷は自分で畳んでいるし、誰も文句は言うまい。日本は銃社会じゃあるまいし、撃たれることもない。

しかし問題がある。話の内容をいくら盛ってみたところで、話を読み進めてもらえなければ、盛り盛りの箇所にも辿り着いてくれない。そこで大事になるのが、冒頭のツカミだ。そのエッセイを読んでもらえるかどうかのカギは、語り始めが握っていると言っても過言ではない。

「最近、過ごしやすい天気になりましたね。でも、すぐに夏が来て、暑いなぁ暑いなぁ、なんて言い始めるんだろうな」などという毒にも薬にもならない書き始めじゃ、誰も先を読み進めてはくれまい。有名作家や著名人が書くエッセイの場合は、前提としてその人のファンが読むわけで、そのエッセイを丸っと読みたい欲求を持った人が手に取ってくれる。そうでない無名の人間が同じことをやっちゃダメなわけだ。

「なんだか寝苦しいなぁ、なんて思って朝目覚めたら、どうやら逆立ちしながら眠ってたみたいで。これって幼少の頃からの癖なんですけど、癖ってなかなか抜けないですよね。今日はそんな癖をテーマにエッセイを──」くらい攻めないと。

実は、これら以上に重要なことがあるのです。それが何かって言うと、タイトル。有名作家や著名人が書くエッセイなら、仮にタイトルが「海」であっても、読者はきっと読んでくれる。しかし、無名な作家が書く「海」なんて誰も読んでくれないわけだ。じゃあどうすればいいのか。そう。まだ見ぬ読者が「ん?」と立ち止まるタイトルをつけてあげるわけだ。

「海派か山派かについて友人と議論していたら、あまりにも白熱し過ぎて殴り合いの喧嘩になった」とか、「今、遠泳をしながらエッセイを書いています」とか。とにかくまだ見ぬ読者の「ん?」をいただかなければ、冒頭さえも読んでもらえない。ここで勝敗が決すると言ってもいいだろう。

では、このエッセイのタイトルは何にすればいいのか──を考え、はや2時間以上が経過した。何も思いつかない。ええい。そんな時は、ありのままをタイトルに託してやればいいんだ。そう考え、タイトルを冠してみたものの、どう考えてもまだ見ぬ読者に読んでもらえそうにないので、本作をボツにするかどうしようか、悩み始めてから、はや2時間以上が経過した。

デタラメだもの。


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