見出し画像

ど忘れ de 438円

今の家に引っ越してから鍵を携帯しなくなった。玄関ドアがダイアル錠なのだ。

仕組みは至って簡単で、ドアに設置されたボタンをカチカチと押すだけ。それで解除できる。出かけるときに鍵を持たなくていいので、ラッキーだと思った。酔っぱらって無くす心配もない。

それがこの間、解除の番号をど忘れしてしまった。

解除番号は7桁で、いつも何となくリズムでボタンを押しているので、改めて「何番だっけ?」と思い返してみても、さっぱり浮かんでこないのだ。

一応当時の状況を説明する。私は既に缶ビールを2本空にしていたのだが、「今日はこれじゃ呑み足りないっしょwww」と思い、コンビニへレモンサワーを買い足しに行った帰りだった。
最近はビニール袋をもらわない事にしているので、裸の500mlのレモンサワー2本と、ポッキーのアーモンド味を手に持っていた。そしていつものように、適当に感覚だけで解除ボタンを押す。取っ手を引く。ガツン! という音がするだけでドアは開かない。あれ、なんでだろう…。

気を取り直す。再びリズムだけを頼りに解除番号を打ち込む。取っ手を引く。ガツン! やはりドアは開かない。このあたりで私は事態の深刻さを悟った。やばい。これ、何番だったっけ。

頭の中で数字を思い浮かべてみる。ええと、2から始まるのは間違いない。で、もっかい2を押して、その次は3で…。いやいや。よく考えたら、最初は1じゃなかったか? 上から下、下、下から上、みたいなリズムだった気がする。それを試す。ガツン! …まじで開かない。なにこれ。自宅に入れないんだけど。思わず笑ってしまった。

地面にレモンサワーとポッキーを置き、顎に手を当てる。本格的な思考モードだ。おそらく2桁であろうIQを駆使し、必死に記憶をたどる。

すると先日、友人に鍵の解除番号をLINEで教えたことを思い出した。なあ~んだ、やるじゃん自分。褒めてやりたくなった。IQも本当は3桁かもしれない。口元が綻ぶ。

しかしポケットを確認したら、携帯が入っていなかった。

はあ、勘弁してくれ。携帯持って外出てよ、5分前の自分。だが過去の私を責めても鍵は解除出来ない。ひとまず開き直ることにした。レモンサワーのプルタブを引く。一気にゴクゴクと飲んだ。ついでにポッキーの袋も開けて食べる。

すると突然、天啓のように7桁の数字が浮かんだ。…何だこれは? 神の予言が舞い降りたアブラハムの気分だった。忘れないうちに急いで鍵を解除する。取っ手を引く。ドアはすんなりと開いた。エルサレム(家の中)に足を踏み入れる。よかった。もうここに戻って来れないかと思った。大きなため息をつく。ど忘れは恐ろしいと、心の底から思った。

☝以上のように…

ど忘れの怖いところは、それが突然やって来ることだ。毎日毎日あたりまえのように使っている番号でさえ、ある数分間、まるで記憶していなかったような状態になってしまう。いや、数分で済めばまだ笑い話で済む。じゃあこれが数十分だったら? 数時間は? 数日間は? 数年間は?

まあ、恐らく一瞬だけ何かを忘れることを、「ど」忘れと言うのであって、そもそも上記のような仮定はお門違いなのかもしれない。しかし、そんな感じの恐れていた事態が、つい先日起こってしまったのだ……。

画像1


その日は天気がよく、気温は25度を超えていた。紛れもない散歩日和である。私は自転車で10分の代々木公園へ行くことに決めた。お手製のサンドイッチとコーヒー、それと赤川次郎の文庫本をエコバッグに詰めた。イカした中古のママチャリにまたがる。ルンルン気分でペダルを漕ぎ、道路の自転車専用レーンをなぞって公園にたどり着いた。このレーンを通るたび、区民税を払ってよかったと思える。

代々木公園にはお決まりのベンチがある。平日の昼間なのでいつも空いているのだ。そこは日当たりがよく鳩も来ないので、毎度長時間利用している。もはや私専用の席と言ってもいいほどだ。

ベンチに腰掛け、サンドイッチをコーヒーで流し込んだ。お手製のサンドイッチは、ゆで卵を砕いて塩コショウを振っただけだが、これが天にも昇るほど美味い。自分の料理は最初から40点ほどの加点があると思った。

日光を浴びながら『セーラー服と機関銃』を読む。ううむ、面白い。やはり赤川次郎は天才だ。女子高生がヤクザの組長になる物語を、綻びなく成立させてしまうのだから。ちなみに長澤まさみ版の映画を観たことはない。薬師丸ひろ子版もない。今度、最新の橋本環奈版を観てみようと思っている。どうでもいいことだが、何となく書き記したくなった。

さて、この時点で、私が代々木公園に着いてから3時間が経っている。

その頃になると雲行きは怪しくなり、雨が来そうな雰囲気が漂っていた。まずい。雨の中を自転車で帰るのは危ない。それにスキンヘッドと言えど、単純に濡れるのは嫌だった。急いで『セーラー服と機関銃』をエコバッグにしまい、駐輪場へ向かった。

画像2

今回の物語はここから始まる。そしてたぶん、すぐに終わる。

察しのいい方は気づいていると思うが、私はこのとき、自転車の鍵の解除番号をど忘れした。しかもそれが、たった4ケタにも関わらず、だ。

私の自転車の鍵は100均で買った安物で、4ケタの番号をクルクルと回して解除するあのタイプだ。ゆえに、いつも4つのうち1つだけを少し動かして鍵をかけていた。つまり、解除番号が「4444」だとしたら、「5444」という風に1つだけ動かし、後で解除しやすくするというやり方だ。

なので当然、いつも通りの手続きを踏んだ。左端の数字を動かして解除を試みる。しかし鍵は動かなかった。あれ? 右側だったっけ? 右端の数字を動かす。やはり解除されない。おかしい。何故だ。いつも右左どちらかの1つしか動かさないはずなのに。焦りがこみ上げる。いよいよ雨が降って来た。

くそー。何で開かないんだろう。手元に力が入る。右端、左端、どっちを動かしても鍵は開かない。どう考えてもおかしかった。あり得ない事が起こっている感じだった。

そこで私は、例の「本格的な思考モード」を導入することにした。顎に手を当てる。冷静になって考えてみる。……で、気づいた。番号がグチャグチャに動かされているのだ。全く心当たりのない4ケタの数字がそこにあった。

まさか! もしかして他人の自転車!? 思わず一歩飛びのく。ウィングさんが念を発動した時のキルアみたいになった。しかし目を凝らしてみても、そこにあるのは自分の自転車だ。初台のリサイクルショップで、8990円で買ったイカすママチャリだった。

えー、じゃあどういうこと。意味がわからなかった。しばし逡巡する。一休さんのシンキングタイムのBGMが聞こえた。そして理解した。たぶん、誰かがこの自転車を盗もうとしたのだと。それでダイアルをグチャグチャに回して、私の固定の数字が崩されたのだと。それしか考えられなかった。

ねえ、勘弁してよ。超めんどくさいんですけど。小森純みたいに呟いた。しかし状況は変わらない。どうやったって鍵が開かないのだ。この公園から自宅までは、自転車だと10分だが歩くと30分はかかる。雨の中、長距離を歩くなどあり得ない選択だった。もういいや、一旦カフェにでも逃げよ。小走りに代々木公園駅前のドトールへ駆け込む。Tシャツはびしょ濡れだった。

ドトールに入ると、クーラーが効いていて濡れた体が震えた。何か温かい飲み物を求めていた。いつもはブレンドコーヒーだが、甘味も欲しかったのでホットココアを注文する。もちろんLサイズ。438円だった。こんな情けない状況にムシャクシャしていた。もしメニューにテキーラのショットがあれば、店じゅうの黒ギャルの分まで払っていたかもしれない。

ココアを受け取り、2階へ上がる。喫煙ルームで煙草を吸って冷静になった。こんなとこでココア飲んでるけど、まじで鍵の解除番号を思い出すことが出来ない。どうしよう。最悪の場合、植木屋が使うみたいなハサミを購入して、鍵を切るしかないのだろうか。憂鬱な気分になった。私が一体なにをしたというのだ。ただゴキゲンな気持ちで公園に来て、文庫本を読んでいただけはないか。世の中の不公平に嫌気がさした。あさま山荘に立て籠もろうかと思った。

そのとき、再び脳内に神託が飛び込んできた。

「……2」

え? なんだこれは。狭い喫煙室を見回す。しかし当然、そこには誰もいない。

「5…22」

ちょっと待って、行かないでください。悔い改めますから。ロザリオのデッカいネックレス着けますから!

「5422…。それから『約束の地』へ向かうのだ」

そして神は消えた。私はすぐさま番号を携帯にメモした。

速攻で公園に戻り、自転車の鍵を解除する。5422。神のお告げ通りだった。

それ以降、私は聖教新聞の購読を検討している。選挙だって公明党に投票するつもりだ。

以上、ほとんどウソです。

しかし以下の気持ちだけは本当だ。

自転車を盗もうとしたそこのヤツ。438円返せ!




この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?