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治安と"健康"(映画「夜明け前のうた」について)

先日、新宿K's Cinemaで障害者私宅監置についてのドキュメンタリー「夜明け前のうた -消された沖縄の障害者-」を見てきました。

精神や知的、時に身体障害の人をも「治安のため」という理由で小さな小屋や牢屋に閉じ込めて隠していたというかつての制度についてのドキュメンタリー映画です。(サムネイルがちょっと怖いですが…)

過去の話ではない

「許せない、ひどい過去だ」という気持ちになるかなと思ってんたんですが、なんというか、それどころじゃない気持ちになって会場をあとにしました。
というのも、この制度が出来た根本は今にいたるまでじわじわと続いてるのだというのを改めて感じたからです。

多数派でないと「異常」と判断される事、異常な人は普通の人と別の生活で当然、という空気は今も変わっていません。「重度障害者は施設や病院に入ってろ」という意見の人はたくさんいます。
そしておそらく、そういう意見の人の多くは、施設や病院に入った人のその後については考えていないんじゃないでしょうか?

誰が「障害」を作っているのか

障害の話をするとよく「障害者の「障害」は状態や症状だけではない。当事者と社会との間に障害がある」という言葉を聞きますが、本当にその通りだと思います。
私は数年前、しばらく精神科病院に入院していましたが、当時、すごく複雑な思いとともにそれを痛感しました。
病棟には、ズレてはいるけど間違ってはいない人がたくさんいたからです。皆と同じではない部分を矯正したりごまかすのが上手くなったことを「社会復帰できるようになった」としてめでたく退院、という、それが正しい事なのか私にはよくわかりませんでした。

もちろん当人がそれを望んでいるなら万々歳なのですが、こうした矯正を「健康」とすることが世の中において当然であるなら、私は何を目指すために「療養」しているんだろうとよく考えていました。その思いは今も同じです。

正しさの所在

多数派であるのは正しく、そうでないのは間違えているんでしょうか。その正しさの物差しを決めているのは誰なんでしょうか。それが変わったら、今正常とされている人も、異常側になったりしませんか?
正しさのレールの上にいる人のみを健康とし、そうでない人を排除するのが健康的な社会だとは、私にはとても思えません。
そうして閉じ込めていった結果、最後に残るのはどんな人なのでしょうか。

上映について

このような歴史を取材し、関係者から直に話を聞くのはものすごい覚悟と体力が必要だったことと思います。この問題に真摯に向き合い、作品にしてくださった原良和監督に心から尊敬と感謝の気持ちを送ります。
上映情報はこちらになります。

この作品が必要な人はとても多くいるだろうと感じました。
コロナ禍で上映が難航していると伺いましたが、お近くの映画館で見る機会がありましたら、ぜひ行ってみてください。

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