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【はじめての仕事】料理嫌いが厨房に就職したら いじめられて地獄を見た話。


はじめに

これは料理大嫌いな私が福祉施設の厨房に就職し、いじめと不眠で精神病んで2年で退職するまでの記録です。

(退職の翌日に転職先で仕事を始め、5年後また転職することになるのだがこれはまた別の記事に書きます。)



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学校を卒業し、唯一持っていた調理師免許を生かすべく、福祉施設の厨房に就職した。いや、正確にいえば何一つ得意なことは無いし、かといって勉強嫌い故に進学も嫌だったから消去法だ。

料理は好きではない。寧ろ嫌いだ。けれど「免許がある」以外の理由で就職なんて到底無理だと最初から諦めていた。この選択が後に大きな後悔を生むことになるとは知る由もなかった。


初日の受難?

初出勤日。超激狭の駐車場に四苦八苦し(免許取得翌日の人間が駐車する難易度ではない。)、ようやく出社。

施設の入居者さんたちの朝食の片付けを終え、皆で休憩しているところだった。そこで栄養士さん(シフト管理等もしてる)が私を他のスタッフに紹介してくれた。そして

「じゃぁまず、コーヒー淹れてもらおうか。」

緊張で震える手で人数分のコップにインスタント珈琲の粉を入れる。辺りを見渡すが、ポットが無い。

私「ポットはどこですか?」
栄養士さん「ここねぇ~無いのよ~。」

冷や汗をかいた。

「…。(ポット無しでどうやって珈琲にお湯を入れるんだ!?)」

信じられないかもしれないが、私は散々料理をする学科に在籍していたにも関わらず、ポットのお湯以外で飲み物を淹れるという発想がなかった。

そもそも私の家族は誰も珈琲を飲まないし、ポットにお湯は常にあったし、小鍋でお湯を沸かす=インスタントラーメンの作り方という認識だった。

私が固まっていると、鍋の場所や、厨房の大きなコンロの使い方を教えながら栄養士さんがやってくれた。栄養士さんはとても優しかった。が、私は顔面蒼白だった。


熟年世代の高度な嫌味


とある診断(公共の施設でやってるちゃんとしたやつ)で、「目で見た情報を理解する能力が著しく低い」と判定された私。その通り、周りの状況を見て把握して、考え行動するのが極端に苦手だ。

毎日の仕込みも、施設入居者さんの食事準備も、ずっとあたふたしていた。何をしたらいいのか全く分からない。なので一番優しくて親しみやすかった梅野さんという人に、毎日「何したらいいですか。」と聞きまくっていた。

そんなあるの日の昼食時。剣(つるぎ)さんという人が、梅野さんに言った。

「お医者さん、毎日大変やねぇ~。」

何の話か全く分からなかった。それからことあるごとに、剣さんは梅野さんのことを「お医者さん」を呼ぶようになった。梅野さんの家は医者の家系なのか?なんて呑気に思っていた。これを口に出さなくて本当に良かったと思う。

この「お医者さん呼び」は、私が梅野さんに毎日「何をしたらいいですか。」「○○出来たんですけど次何をしたらいいですか。」等とひっきりなしに言っていたからだ。

この嫌味に気付いたのはなんと、この会社を退社してから7年後くらいである。まさか、自分に対する嫌味が他の人の呼び名になるなんて思いもしなかった。


唐突に気付いた事実

剣さんは私に、感じの悪いことを毎日言った。上記の嫌味は理解に年月を費やしてしまったが、もっと直接的で瞬時に分かるものもたくさんあった。

が、私は何て返したらいいのか皆目見当がつかなかった為、結果 無視した。だって私に直接話しかけずに私が聞こえる距離で他の人に話してるからまぁ返す必要ないかと思っていた。本当に用があるなら直接話しかけるだろうと。まぁ私に直接ガッツリ言っていたこともあったが⋯。

今思い返せばよくやるなぁと思う。ちなみに後述の正社員にも何やかんやは言われている。そしてこの光景を、週3日くらいの出勤時にいつもしっかりと見ている人がいた。

何がきっかけか忘れたけど、唐突に気づいた。剣さんの数々の台詞は、全て本気で言っているのではなく「冗談」なのではないかと。

それからは、何か言われる度に「もぉ~!!そんなことないです~!!」というように、笑いながら言い返すようになった。すると驚くことに、入社して2年後、退職する頃には一番仲良くなっていた。後述の正社員からのいじめからも、場の空気が悪くならないようにいち早く笑い飛ばして場を和ませてくれた。最後の出勤日はこの剣さんと一緒に遅番だったのだが、私は寂しさに耐えかねて「ハグしていいですか。」と聞いた。快くOKしてくれた。あんなにも嫌いだった人なのに、大好きになっていた。


いじめのはじまり

この現場で私以外の正社員の人が1人だけいた。その人が主に料理をするので、仕込みと配膳がメインのパートの皆はあまり逆らえずにいた。

入社して3ヵ月ほど経った頃。この正社員の、私に対する態度が棘のあるものに変わっていった。私にだけ素っ気なかったり、他の人が一度も注意されたことがないようなことを私にだけ言ったり。みんなでおすそ分けの栗を食べていたら私だけ「食べてないで早く〇〇してください。」なんて言われたり(※私だけ何か出来ていなかった訳でも、急ぎで何かしないといけなかった訳じゃない)。さらにこの人の他に正社員は私だけだったので、それに対する嫌味も日常茶飯事だった。

その頃から精神的に病んでいき、転職を考えるようになった。

せめて仕事内容(仕込み、料理、配膳)が好きならまだしも、元々料理大嫌いなんだからもうたまったもんじゃない。

何もかもが面倒くさくなり、休日家で1人食事をする時は、食べ物を噛むことすら面倒でボロボロこぼした。休日ですら、楽しみではなくなった。どうせ気休めにしかならなくて、すぐにまた仕事なのだから、と。

時計を見ることが怖くなった。見る度に、あと何時間後には仕事だという計算ばかりしてしまうからだ。常に仕事に行く事に怯えていた。頭がおかしくなりそうだった。


病んだ思考回路と救いの手

毎日の出勤が憂鬱になった。毎朝、通勤路で「ここを曲がって全く違う所に行きたい…。自殺は嫌だけど、本気で失踪してしまいたい。けど数日で足が付くんだろうなぁ。」と本気で思っていた。現実逃避で仕事以外の時間はずっと小説を読んでいた。ミステリー小説にハマっていた私は、意図的な失踪がいかに難しいかを察してしまっていた。

やっとの思いで退勤すると、また通勤路で思うことがある。道幅がかなり狭く、高さがある土手に差し掛かるタイミングだ。「このカーブを曲がり切らずに直進してしまいたい。」

身一つで大怪我を負うのは怖かった。だが、車ごとならそんなに怖くないかもしれない。

「あぁでもせっかく就職祝いでお父さんとお母さんに買ってもらった車なのに申し訳ないなぁ。でももう明日が来るのが嫌だなぁ。ちょうど全治3ヵ月くらいの怪我、出来ないかな。そしたら合法的(?)に、両親から咎められることなく、職場の人に『これだから今時の子は』なんて言われることもなく、仕事を休めるだろうに。」

当時の私は、全身大怪我することの何百倍も、仕事に行くことの方が怖かった。病んだ思考だけど本気だった。「死なない程度に、けどすぐ治らない程度にどうやって大怪我しよう…。」と、毎日思っていた。とにかくこの身がどうなろうと、仕事が休めさえすれば良い、と。


拒絶反応と命を救った誤診

入社して半年程から、指のぱっくり割れが出来るようになってしまった。指の関節部分に亀裂が入り、曲げたり水に触る度に鋭い痛みが走った。

さらに半年後。夏に極端に悪化した。ぱっくり割れを起こした所(だいたい両手指で8ヶ所くらい)の痒みが耐えられず、毎晩1時間おきに目が覚めた。そして蛇口の水で冷やしながら、とち狂ったように搔きむしり続けた。血やら透明の液体(血小板?)がいっぱい出た。ろくに眠れない日が退職まで続くことになる。

あらゆる薬局に行き、あらゆる絆創膏と市販薬を試した。地元の皮膚科7件くらいに行き、あらゆる処方薬を試した。仕事の食器洗いの時は肘までの長い手袋をするようになったが、すぐに破けるので何度もホームセンターで買い替えた。一時的にマシになる時はあれど、治ることはなかった。

もしかして何かのアレルギーでは?と思い地元で一番大きな総合病院でアレルギー検査(パッチテスト)をしてもらった。当時は今ほどの技術がなかったからか、

あらゆる検査項目の液体などを染みこませたガーゼ20枚くらい?と、保護テープを背中貼られ

「3日間はお風呂に入らないでください。それ以降は入ってもいいですが、背中は濡れないようにしてください。」なんて言われた。

そんな無茶な。お尻くらいまである超ロングヘアにそれは無理過ぎるだろ。(当時の交際相手に髪型が変わるほど長さを切るな、染めるな、パーマをあてるな、と言われていた。)

しかもこれが真冬のこと。私の家は超田舎で築80年くらいなので、お風呂は外(別の建物)だし、換気は窓を開けるしかなく、冬は超寒いのだ。少し、医者を呪った。

検査結果は意外なものだった。

「反応があったのは、ここだけです。金属アレルギーですね。

なっ…なんだってー!!??そういえば厨房で仕事してるわけだから毎日調理道具は触っている。原因はそれか。けど、アクセサリーつけても何ともないけどな?

そんな疑問もあったが、この診断と、友人、当時の交際相手とそのお母さんの助けもあって、転職を決意した。私の両親はずっと反対していた。就職して1年、2年で辞めるなんて以ての外だったらしい。鼻で笑われた。まぁ大卒から当時50歳頃まで一度も転職も休職もしていない父だもんな。母は、「お父さんが良いって言ったらね…。」としか言わなかった。

退職の決定打は友人の一言。

私「もう仕事辞めたい…。でも病気でもないのに、2年くらいで辞めるのもダメだなと思って…。」

友人「アレルギーも、立派な病気よ?」

ハッとした。そうか。そうなんだ。友人の前でわんわん泣いた。炬燵布団が涙と鼻水でぐしょぐしょになるくらい泣いた。そうか、私は病気だったんだ。病気だって医者にちゃんと認めてもらえたんだ。もう、辞めていいんだ。もう1日たりとも、あんなところ行きたくない。私が正社員に何か言われてる時、他の皆が一斉に、笑える空気に変えようと気を遣ってくれるのにも罪悪感でいっぱいだ。

数日後、現場にたまにしか現れない社長に、直電した。辞めたいと伝えたら、3秒の沈黙の後、「いつにするで?」と言われた。反対はされないだろうと思っていたが(※この社長からもボロカスなじられていた)、こんなにもあっさりOKが出るとも思ってなかったので、拍子抜けした。すぐにでも辞めたかったが、会社の規約上正社員は退職を伝えてから1ヵ月は在籍していないといけなかったので、耐えた。


そして退職

いじめが始まって約1年9ヵ月。不眠が始まって9ヵ月。やっと、退職日を迎えた。この段階でまだ両親に退職することを話していない。反対されるのは明らかだったからだ。

しかし次の仕事が決まっていて尚且つ無職期間が無ければ文句もさほど無いだろうと踏んでいた。なので仕事最終日の退勤後まで隠し通すと決めいていた。退職日の次の日から新しい職場…つまり5連勤くらいになるが致し方ないと諦めてた。尚、有給休暇の制度はあれど、使うなんて以ての外!という会社だった。

入社初日に色々教えてくれた栄養士さんは、退職することを私が皆に言う前に知っていた。シフト作成の担当だから、社長が電話で伝えたんだろう。周りに人がいない、食品庫で聞かれた。不意打ちで驚いた。

栄養士さん「辞めるって本当?」

私「…はい。…………皆さんに いつも めちゃくちゃフォローしてもらって、すごく嬉しかったです。でも、もう、耐えられなくて。」

それだけで十分理解してもらえた。申し訳なかった。

仕事最後の日。皆から花束をもらった。内一人からは、大きなバッグを贈ってくれた。厨房とは別会社に所属している施設のスタッフさんからは「(辞める理由は)やっぱり人間関係ですか?」と言われた。退職の原因はいじめをしていた正社員と社長だけで、他の人とは年齢差が40~50歳くらいあれど仲良くしてもらっていたんだけどな。何か察していたんだろうか。

バッグを贈ってくれた人からは、なんと手紙までくれた。内容は「どんなことを言われも、あなたは何も言い返さずに無視していましたね。偉いなぁと思っていました。あの人は、醜い心の人なんです。そんな人の言うことを、信じる必要はないんです。どうか、新しい職場でお元気で。」というものだった。いじめの張本人(正社員)と仲良かったと思っていたのに、意外だった。そして、そういう認識で私を見守ってくれていたんだと。


おわりに

そんな感じで無事退職し、新しい職場に就いてから3日で指のぱっくり割れと激しい痒みと不眠症は完全になくなった。原因は、金属ではなかった(退職後、金属を触っても平気)。多分ストレスだったんじゃないかなぁと。それか、今でも洗剤を直接触ると水泡が出来て痒みがあるので、洗剤かな。


色々あったけど何が言いたいかというと、

①誰に何と言われようが、自殺や失踪寸前まで病むくらいなら仕事を辞める。

②1人で抱え込まずに、親身になってくれる友人に相談する。

③好きな職業に就くのは難しかったとしても、嫌いな職業にだけは就かない。

④嫌いな職業だとしても、人間関係さえよければわりとなんとかなる。※逆(好きな職業でも人間関係最悪)だとすぐメンタル病む。


ということです。新社会人の方、はじめて仕事をする方をビビらせるような記事になってしまった。申し訳ない。けど、この4つだけは忘れないでくれたら嬉しい。

最後まで読んでくださり、ありがとうございました!

また転職の記事でお会いできれば嬉しです。



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