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続・ああ、愛しい女性たちよ。「ナショナリズムとジェンダー」上野千鶴子著


(前回からのつづき)

フェミニズムを語る社会学者、上野千鶴子氏の真髄はこれだ。

フェミニズムの目的は、ある排他的なカテゴリーをべつの排他的なカテゴリーに置き換えることではない。
「わたし」が「女性」に還元されないように、「わたし」は「国民」に還元されない。そのカテゴリーの相対化を意図する。

ここに「相対化」という言葉を使う千鶴子節がアホの私には実に分かりにくいのだが、言い換えるなら、それぞれのカテゴリーまたは属性を「絶対化しないこと」という意味だ。まだいまいち見えてこないので、 ChatGPTに聞いてみた。

この文は、個人としての「わたし」が単純に「女性」や「国民」というカテゴリーにあてはめられるだけではない、という意味を伝えようとしています。具体的には、次のように説明できます:

「わたし」という個人は、「女性」というカテゴリーだけで説明できるものではない。同様に、「わたし」という個人は「国民」というカテゴリーだけで説明できるものでもない。このように、個人の多様な側面を一つのカテゴリーだけで捉えるのではなく、カテゴリーそのものを相対化(多様な視点から見直すこと)しようとする意図があります。

千鶴子先生よりはお友達になれそうだ。

本書には、国民と女性、ひいては国民国家とフェミニズムという点において、日韓の「慰安婦」問題のためのシンポジウムで起きたある議論が紹介されている。

千鶴子先生が、フェミニズムの視点により政治的利害関係のないところで話し合おうと試みる中、その先生の発言に対して会場からこんな声が上がった。

「フェミニズムが国家を超えることは難しいのではないか」

発言者は韓国系アメリカ人で、自分は日本軍に侵略された側の土地の女性として、戦争のチアリーダーとして侵略軍に加担していた日本の女性たちを全く無化にはできない、と激しく反発したのだった。

私はそんなことは考えたこともなかったが、事実、日本のフェミニズムは国家を超えた歴史がないらしい。

私は、海外のフェミニズムはかなりの影響力を持って日本に渡ってきていると思うし、うちの旦那のように海外で川上未映子の「乳と卵」を英語版で読んでいる男もいる。国際結婚をして国外に住んでいる私から言うと、個々の女性観は女女間、男女間、男男間において常に交流しているように思う(これはちゃんと考えてみるとかなり奥が深そうだ)。しかし、ここでの話はそういう個人的なことではないので話を戻そう。

千鶴子先生は、まさに「慰安婦」訴訟の中の個人補償の理論はフェミニズムが「国境を越える」意味になる、と言っている。これもChatGPT に解説してもらおう。

慰安婦問題では、被害者個人への補償を求める動きがあります。この動きは、フェミニズムが提唱する女性の権利や平等の問題が、特定の国や文化に限られず、国際的な問題として認識され、解決されるべきだという考え方を表しています。つまり、個人補償の理論は、女性の権利を守るためのフェミニズムの理念が国境を越えて影響を及ぼし、国際的な連帯や協力を促進するものだという意味です。

なるほど、先生がここに力を込める理由がよくわかる。
それにしてもこの本の説明はいちいち言葉が難しい。素人の私がこれを読むには鉛筆も付箋も辞書もAIも呼んでの大合戦だった。非常に濃い内容と情報量で、私が理解しきれないところがたくさんあったので、興味のある方はぜひ本書を読んでもらいたい。

さあ、気を取り直してあと一息。
もう一度、先生の真骨頂を繰り返そう。

「わたし」が拒絶するのは、単一のカテゴリーの特権化本質化であり、「代表、代弁」の論理だ。

つまり、

「わたし」が国家に属さないのであれば、国家間の謝罪により、「わたし」の個人的尊厳を回復したいという慰安婦たちの願いが慰められることはない、ということだ。

だから、日韓の国家間で戦後補償がなされた後に、韓国政府の無関心と無責任に抗議するという意味で、韓国籍を放棄するという戦略にでた韓国人元慰安婦もいたらしい。

さて、かなりかいつまんで私の感想を書いてきたが、フェミニズムと国家との関わりが「慰安婦問題」を通してよく見えたことは非常に益であった。

著書の最後に、千鶴子先生はこう結論付けている。

「国民国家」も「女」もともに脱自然化・脱本質化すること ー それが、国民国家をジェンダー化した上で、それを脱構築するジェンダー史の到達点なのである。

つまりこういうことだ。

「国民国家」も「女」も、もともとは変わらない固定的なものとして考えられていた。しかし、ジェンダー史の視点では、これらを自然なものや本質的なものとして捉えずに、その背後にある社会的・文化的な構造を再評価し、変革していくことを目標としている。これにより、国民国家が持つジェンダー的な側面(たとえば、男性中心の社会構造など)を明らかにし、その構造自体を解体し再構築することを目指している。

(パチパチパチ)

繰り返すが、この本は何年もかけて勉強するような内容で、まだあと何回かは読み直さないといけない。しかし、今回はこれをnoteに書くという動機だけを支えに最後のページまでたどり着いた。

激しい情報量に疲れたのか、途中で私は千鶴子先生自体の総合的人間性への疑問を抱いたりもした。
自分をあるカテゴリーに属させることについて拒絶反応を持ちながら、果たして自分をフェミニストだとかrevisionist (歴史再審論者)だとか呼べるものなのだろうかと。フェミニストと書かれたハチマキを巻いた姿でフェミニズムを論じながら、自分は全く排他的でないと言えるのだろうか。
男性の性欲や生殖本能を手玉に取ったような発言や、社会への呼びかけと私生活が矛盾していることも全く信用し得ないところだ。
とりあえず今は、それが千鶴子先生自身のプロモーションであって、ビジネスとしては有効だろうと考えておいたが、まあ、とにかくこういう人は、そういう矛盾も迷惑も批判ももろともせず、自身を大胆に変化させながら世の中も大胆に変えていけるタイプなのだろうと勝手ながら思っている。

しかし依然として、先生が指南するように、戦後生まれ達がこの世に存在するあらゆる差別を清算していき、その中で、元慰安婦の方々とその痛みを受け継いでいる一人ひとりに、心の平安が少しでももたらされるようにと願わずにはいられない。

ありがとう、千鶴子先生…とお礼を言い、講義室から脱出。ああ、疲れた。

最後に、

フェミニズムを考えるにあたって、私がイエス・キリストの存在で一番好きなことは何かを思い出した。それは、彼が人々を(女性を含め)平等に見ていたことだ。その当時の社会からすれば異端なことだった。彼は人間が作った堅苦しい律法から人々のたましいを解放し、性別による義務からも解放した。そして人と神との関係、人間社会の関係、心の平安を取り戻した。
彼の人々に対する振る舞いには、誰かの先入観によって見たり扱ったりすることが完全に「無」であった。彼は人の始めの姿を、性を、そしてはじめの愛を知っていたのである。平等と平和、それはキリストによりすでに取り戻され、キリストにより完成されているのである。

私はそこにとてつもない安心感と希望の力を得るのである。


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