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【惜別の投宿】五十沢温泉ゆもとかん(旧館)

 卵臭を帯びた透徹な源泉に身体を沈めると、滴る汗に一掬の涙が混じりました。この湯に浸かるのもこれで最後。星霜を刻んだこの木賃宿に泊まるのも、そして恐らく、女将さん会うのも・・・


 苅田に孫生えの青が目立ち始めたころでしょうか。10月の下旬、日本一の米処南魚沼から悲しい報せが届きました。思い出深い一軒の湯治宿が閉業するといいます。手帳を確認し荷電をします。宿の番号ではなく、女将さんのスマホに。

私  「やめるって聞きましたけど、本当ですか?」
女将 「そうなの、12月24日にね」
私  「日帰りも?」
女将 「そうみたい。私は雇われだからね」
私  「みんな悲しがるんじゃ。11月〇日、泊まれますか?」
女将 「もちろん大丈夫よ」

 いつもと変わらぬ女将さんの声でしたが、その夜は哀惜でどうも寝付けませんでした。

 五十沢ゆもとかん(旧館)はここ数年、幾度となく湯治の拠点としていました。私が病臥し入院したのが20年秋のこと。10年以上続く慢性疼痛にとうとう針が降り切れ車椅子生活となります。
 罹っていたリウマチ科の主治医に勧められた温泉療法。糾える縄の如く好転と再発を繰り返しながら、心身の安閑を求め辿り着いた湯治宿の一つです。数日間の滞在で快癒を実感できる宿でした。

 一泊3千円台という価格帯、週末であっても必ず部屋が空いているため重宝し、女将さんとも懇意にさせていただきました。親しい宿の主人や女将さんは何名か頭に浮かびますが、ショートメッセージでやり取りをする方は多くありません。


 11月某日

 三国峠から県境を跨ぎ、山肌を開いたスキー場にリゾートマンションの越後湯沢をやり過ごし、右手に八海山を臨みます。野分に背中を押されるように灌木の原を進み、四方を山に囲まれた平地の塩沢石打に入りました。どこにでもある寒村といった風情です。

 17号方面から大月トンネルを抜けると、向こうの杉林の中に堅牢な鉄筋宿が見えます。こちらがゆもとかん本館で、混浴の大露天・岩風呂は県内屈指の規模です。日帰りで何度か入浴しましたが宿泊実績はありません。

 私が惹かれたのはそこから数百メートル離れた旧館でした。源泉は同じですが、同敷地内から沸く湯の鮮度の良さ、不均一なタイルの小さな湯舟、鍵の掛からない鄙びた宿は腹蔵を抉られるようです。15時ちょうど、最後のチェックインです。昨今の原価高騰の煽りを受け、値段は4千円台に値上がりしていました。

私  「驚きました。急だったから」
女将 「実は私も膝を壊して、10月に辞めたいと申し入れたの。もう80だからね。そしたら12月に閉めるからそれまでって」
私  「建物も壊しちゃうのですか?」
女将 「そう、もう古いから。今、お茶を持ってくるね」

 女将さんが入っていくのは帳場横の炊事場。この宿はかつては自炊可能で、一泊2,200円だったと言います。私が通うようになってからはコロナの影響で炊事場は使用禁止になっていました。

 いつしかその日が来ることを望んでいたのです。山に入り山菜を採り、三国川で川魚を狙い、揚がった鮎を肴に八海山を煽り、コシヒカリをガス釜で炊いて・・・絵に描いたような隠遁生活です。ぼうっと青写真を引いていると来客がありました。

 この日は3連休の土曜とあり、他の宿泊客もいたようです。一組のご家族も惜別のために遠方から来たと言います。いつもは誰もいないこの宿、ダラダラと女将さんと四方山話をしますが早めに切り上げました。


 階段を上り、案内されたのは6畳間。いつもの大部屋に案内されるかと思いましたが、そこには3人組がいるようでした。こちらに泊まると何故か一番広い24畳間に通されました。

 三方向に窓がありますが、くすんだ土色の壁と吊下げの蛍光灯は陰影を際立たせます。畳に横になり一人旅の幽愁を存分に嚙み締めるのです。人が通るたびにギシギシと軋む陋屋は何とも分相応で、まるで溶ける様に体に馴染んでいきます。あとは、湯に入って食べて眠るだけです。

 宿には簡素な箱型の内湯のみ。バルブの下の壺が受皿となり、そこから溢れた源泉が浴槽に落ちます。温泉ソムリエの資格も持つ女将さん、受講の際に分析表を家元に見せたところ「超美肌の湯」と太鼓判を押されたと言います。

 一見水道水かと見紛うほどあっさりとしていますが、微量に硫黄成分を含んだ湯は微かな卵臭で、温まりの良さも白眉のものです。湯が高温のため10分ほどでさっと切り上げ、これを一日に数回繰り返すと次第に痛みと痺れが治まっていきます。


 夕刻になると歩いて食事に出ます。向かうのは「一品楼」。こちらもよく利用した鄙びた中華屋です。ラーメンの印象はありませんがチャーハンは絶品です。恐らく湯浴みで汗を絞り出した後で、野猿が走り回るような寒村の店という意外性が大いにスパイスになっているようです。

 ご家族と思われる3人で切盛りしていますが、特段会話もなく早々に嚥下し店を出ます。ゆもとかん旧館がなくなれば、こちらにも来ることもないでしょう。宿に戻ると帰宅前の女将さんが受付にいました。

私  「明日は少し早く出ます。用があって」
女将 「何時ごろ?ちゃんとお見送りするから」
私  「7時半には出ますね」

 こちらは鍵がないため、出発が早いときは前夜に会計を済ませておきます。もともとは大手のホテルに勤務していた女将さん。私の好む簡素な自炊宿では見送りなどありませんが、ここでは交差点を曲がるまで女将が駐車場に立っています。

 「見送りなんていいのに」

 デジャヴのように毎回同じことを思料し、バックミラーで小さくなる姿を確認しながら六日町方面へ出ます。明日が最後と思うと尚一層の愁嘆が押し寄せました。

 床に就くまで、源泉の感触と香りを脳髄に刻印するように湯浴みを繰り返します。入浴時間は22時まで、少し湯疲れが出たか煎餅布団に横になると眠気が出ていつしか堕ちていました。


 翌朝

 夜明け方、三国川へと散歩に出ます。放射冷却で澄み切った美しい空気と、秋麗の南魚沼の景観。改めてこの地が日本一の米どころである所以を涵養させるようです。川沿いを30分ほど歩き、身体が冷えたので宿へ戻り最後の湯浴みを済ませます。上がると女将さんが帳場にいました。

私  「お世話になりました。そろそろ行きますね。あと1ヶ月、頑張ってください」
女将 「ありがとうございました。これ持って行ってください」
私  「いつも申し訳ないです」
女将 「また近くにいらしたら寄ってくださいね。最近LINEも始めたの」
私  「・・・まだ幽谷荘(大沢山温泉)とやまきや(折立温泉)と駒の湯山荘があるからね。魚沼には来ると思います。龍気別館(六日町温泉※休業中)はもうやらないかな」

 女将さんから手渡されたのは煎餅と柿、そして自分の田圃で育てたというコシヒカリです。完全無農薬で、害虫も全て手で駆除すると言います。二人で写真を撮った後、一緒に駐車場へ出ました。

私  「それじゃお元気で」
女将 「お身体お気をつけてください」

 永訣となる五十沢ゆもとかん旧館。特別気の利いた挨拶もなく車へ乗り込みます。最後まで恬淡としていた女将さんでした。

 「近くに来たら寄ってください」、この言葉に即妙に返せない自分がいます。野暮用ついでに寄れる場所でもありませんし、親しくしていただいたとは言え、私も数多くいた客の一人。自宅の場所も知っていますが、突然押しかけるのもどうも気が引けてしまいます。


 まだ記憶に新しいので、はっきりと情景が浮かびます。

 群馬から越境、「幽谷荘」に立ち寄り、「鹿小屋」で「きりざい丼」をいただいてから投宿。夜は「一品楼」のチャーハン、朝食は前日に買っておいた「うおぬま倉友農園」のおにぎりを。
 宿を出てから「雷伝様の水」で八海山の伏流水を採水し、日本一の納豆を「大力納豆本社」で購入して帰路につきます。どんなガイドブックにも載っていない、極めて熟爛された貧乏プランでした。

 ゆもとかん本館に泊まれば同じ旅程も組めるのですが、旧館の寂寥感がなければ、どうも画竜点睛を欠くようで、、
 
 雪解けの頃、それは恐らく、駒の湯山荘に向かう道中になるでしょうか。私はまたふらりとこの場所を訪ね、取り壊された跡地に立ち、在りし日の宿と、女将さんの幻影を偲ぶのです。秀麗な記憶へと、昇華させるように・・・

令和5年 12月24日 記

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