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『ふしぎとぼくらはなにをしたらよいかの殺人事件/橋本治』を再読する。

※この記事はネタバレを含みます。

#はにわを形作った10冊 (仮) ということで、若かりし頃に読んでのちの人格形成に大きく影響を及ぼしたであろう本たちを紹介していくシリーズ。
1冊目は鬼才・橋本治が著した不思議なタイトルのミステリ(?)小説です。

生まれて初めて、本を読んで「怖い」と思った。

この作品に出会ったのは確か中学生のころ。

当時のぼくは「小説家になる」という夢に縋ることで、およそ健全とは言えない家庭環境をむりやり前向きに捉えなおす、というようなことをしており、目についた本を片っ端から買ってきては、理解できようができまいがお構いなしにとにかく読み飛ばしては、「ふふん」としたり顔をする、そんな毎日を過ごしておりました。

『ふしぎとぼくらはなにをしたらよいかの殺人事件』もそのうちの一冊で、行きつけの本屋でこの特徴的なタイトルが気になり、裏表紙のあらすじも読まずに購入。桃尻娘シリーズの橋本治の著書だということに気付いたのは読み始めた後だったのでした。

さてこの『ふしぎとぼくらは~』ですが、いわゆる「昭和軽薄体」と呼ばれる“とはずがたり”の文体で、殺人事件と銘打ちながらなかなか事件は起きず、起きたら起きたで探偵役の主人公は大した捜査権限もなく、自分の主観や肌感覚のみで推理を組み立て、ただそれゆえに圧倒的なリアリティをもって、舞台となる街、登場人物、その心情、空気感が描き出されるという傑作となっていたのです。

特に後半、主人公が犯人のことを“分かってしまいはじめる”あたりから、犯人の告白を聞くくだりは、本気で「怖い」と思わせられたほどで、そんなことは生まれて初めての経験でした。

(これはホンモノだ…)

なんだかよく分からないながらも、ホンモノの“凄い小説”に触れた恐怖と感動はすさまじく、この作品は45歳になった今でもぼくの中の「特別」となっていたのです。

以来、長らく手元に置いていた『ふしぎとぼくらは~』でしたが、進学、実家の取り壊し、就職、結婚、出産といったライフステージの変化とそれに伴う度重なる引っ越しにより、いつの間にか紛失。

その後は絶版となり入手困難本となっていましたが(amazonで数万円で売られていたことも!)、先日ようやく入手でき、30年以上ぶりの再読となりました。

30年以上ぶりの再読で感じたのは…。

さて通読してみてもっとも意外だったのは、あれほど恐怖を感じた犯人の告白シーンが

(あれ?思ったほど怖くないぞ)

だったこと。

いや、確かに怖いは怖いんよ。でもあの時はなんかもっとこう、ぞわぞわというか、ゾクゾクというか、心の芯の方に震えがくる感じの怖さがあったじゃん!

…これが大人になるってことなんですかね(遠い目)。

確かにね、大人になった分だけ感じ取れる部分も増えてはいるんですよ。
この作品の本当に描きたかったであろうことも、よく理解できました。

田舎の中学生には当時の世相も流行も分かりませんし、全共闘も安保闘争もアウトラインしか知らないから世代論も分からない。
ましてやかの有名な山手線の内側に“取り残されていく都市”があることやその寂しさなんて、東京はおろか名古屋にすら満足に行ったことのない子どもに理解できるわけありませんよねぇ。

もっと言えば、主人公が探偵なんて引き受けちゃったもんだからこんなことになってしまったっていう、この物語の構造的な大オチすら、ちゃんと理解できてなかったんじゃないかな中学生のぼくってば。

そのへん全部、今回の再読で理解できたのはよかったんですが、いや~でも、この“怖くなさ”は意外だったなぁ。

犯人の姿に未来の自分を見ていた。

で、ですね。ぼく的には実はここからがハイライトで。

上で述べたように作品のいろんな部分がいまいちピンときてなかった中学生のぼく。それなのに、なぜ犯人の告白のシーンだけはあんなに“怖かった”のか? (そして今回、そんなに“怖くなかった”のか?)

その理由が今回の再読によって分かったような気がするのです。

それはズバリ、共感。

初めて読んだあのとき、犯人が語る、「家」という「状況」の中で煮詰まり切った挙句にすべてが面倒くさくなってしまって殺人を行う…という犯行動機が、ぼくにはめちゃめちゃリアルに感じられたんじゃないかなって思うんです。
なぜなら当時のぼくも「家」という「状況」の中で煮詰まり切ってた一人だったから。

あの強烈な恐さの正体は、未来の自分の姿を見せられたような、このままではいずれ自分も殺人者になってしまう、という恐怖だったのかもしれないなと、そう思うのです(いや実際この数年後、義父を〇ってやろうかと深夜に包丁を握ったこともありましたからねマジで)。

そしてそして、今回あのシーンを読んでも、そこまで恐怖を覚えないという事実に、

(あぁ、いまぼくは幸せに暮らせているんだなぁ)

と、しみじみ感じたのでした。

*****

中学生のぼくへ。

30年後のぼくはけっこう幸せにやってるぞ~!

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