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私が気仙沼に通いたくなる理由【前編】

【けせんぬま】宮城県気仙沼市

気仙沼は宮城県北東部沿岸に位置し、有名なフカヒレをはじめ、カツオやマグロ、サンマなど国内有数の水揚げを誇る港町です。新鮮な海の幸はもちろんのことリアス式海岸特有の美しい景色を楽しむこともできます。

今回気仙沼を紹介してくれるのは、きっかけ食堂@京都からてっちゃんこと大原一哲さんです!きっかけ食堂一、気仙沼とホヤへの愛が強いてっちゃん。そんなてっちゃんが気仙沼にのめり込んだ理由と気仙沼観光の魅力を、前編・後編に分けてそれぞれ語ります!

きっかけメンバー、大原一哲のありのままの東北旅

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きっかけ食堂@京都メンバーの大原一哲です。

これまで毎年何度も足を運んできた気仙沼。
どうして自分がここまでの気持ちになったのかをこの記事の中で解き明かしていきます。

「気仙沼との出会い」

 私が初めて気仙沼を訪れたのは2015年8月。当時大学2年生。

 そもそも気仙沼を訪れたきっかけは、大学1年時より関わりのあるNPO遠野まごころネットのボランティア活動でした。自分が当時所属していた学生団体の東北ツアーの一環として、毎年夏に開催される夏祭り「三陸海の盆」のお手伝いをすべく、2015年夏の開催地である気仙沼を訪れたのです。

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前列中央の前掛けをした方は遠野まごころネットの井上さん

 そのときに泊まった宿がホテル望洋(※現在は閉業しています)。望洋を選んだ理由は、特に誰かの紹介というわけではなく、単に団体での宿泊プランが安かったという理由だけでした。
しかし望洋の加藤社長と女将との出会いがなければ、毎年何度も気仙沼に通うようになることはなかったかもしれません。

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ホテル望洋 初めて宿泊した際に撮影した写真

 加藤社長とのインタビューを通して出会った当時のことを振り返るとともに、社長自身の震災前後の気持ちの変化についてお聞きしました。

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オンラインでのインタビューの様子

大原
 私たちが宿泊した日の夜、語り部の講話の後に加藤家の食卓に通していただいきました。お酒を飲みながらいろいろなお話をして交流をした時間がとても印象的でした。旅行先でここまでのおもてなしを受けるのは初めてで、温かみに触れて嬉しかったです。
加藤さん
 それは私の君に対する印象が大きい。震災の事、当時ホテルが避難所だった事をお話しさせて頂いたが、ここで何があったかをもっと詳しく聞きたいという話しがあったので、お誘いしました。それは君たちを通じて被災地の生の情報を名古屋圏の人々にも知って欲しいとの思いもあったからだと思います。

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初めて望洋に泊まったときの集合写真

大原
 加藤家の食卓に招き入れるようになった経緯は何でしょうか。
加藤さん
 震災当日に避難民を受け入れてから、彼等との共同生活が始まりました。1階のフロントロビーの喫茶コーナーを仮設の食堂として使えるようにレイアウトを変えました。
 その後、ホテルが避難所になってからは自衛隊が毎日食料を届けてくれるようになって、避難民の方々は2階の部屋で食事を摂るようになりました。私達家族も自宅を流失しており、ホテルでの生活を余儀なくされていたので、必然的に1階の喫茶コーナーが食堂兼リビングになりました。当時は底上げ(後のNPO法人)メンバーも共同生活していたので、食堂で一緒に食事を摂るようになり、彼らが復興支援の若者達を連れて来るようになり、その他宿泊客で震災の話を聞きたいという方々をお呼びして食堂でお話しするようになりました。まあ普通ならホテルの社長家族がフロントロビーの一角をリビング、ダイニングとして使っているなんてありえない(笑)
 あの非常時がホテルを大きな民宿みたいな気さくな場所に変えて行ったんだと思います。そして加藤家の食卓にお招き入れた瞬間からお客様とホテル経営者の関係は消滅して、人と人としてお話し出来たのが最大の収穫だったね。
大原
 たしかにそうですね。加藤家の食卓に足を踏み入れてなかったらここまで気仙沼にリピートすることはなかったと思います。そのような場に出会えてよかったです。
加藤さん
 そのころは先行きどうなるのかという不安もあったし、毎日予期せぬトラブルもあったりと、問題山積。そのことだけに向き合っていたら疲弊しちゃう。でも若い人たちと繋がれてご飯食べていろんな話をすることは非常に楽しかった。
 2011年5月のホテルを再開したての頃から2012年の頭当たりは、海外からのお客さんがものすごく多かった。そのころ気仙沼で営業しているホテルは少なく、内湾周辺でやってるのは大きいホテルではウチくらい。アメリカ、ヨーロッパ、中東など、世界中いろんなところからお客さんが来る。英語がちょっとできたから、あの場でご飯を食べながら話をする。あのころは楽しかった。なんたって毎日いろんな国のゲストが目の前に座るんだから。

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加藤家の食卓の様子 このときも海外からのお客さんが来ていた

大原
 震災前後の人との関わり方・向き合い方の変化はあったのでしょうか。震災前は当然”加藤家の食卓”はなかったと思いますが、震災前後での社長の感性の変化はあるのでしょうか。
加藤さん
 震災前はリーマンショックの影響もあり、気仙沼の二大産業である水産と観光両方とも大変厳しい状態にありました。当時は50代半ばで、立場上、家庭よりも仕事に忙殺されていた。気仙沼市全体の観光業界全体がとても厳しい時で、公的な施策にも取り組まなければならないし、四苦八苦していた時期だった。その頃の人との付き合いは、ほとんど年齢が年上の方ばかりで仕事のお付き合いがほとんどでしたね。そんな状況の中で震災が起こったのです。

 町が突然大震災に襲われ、大津波によって全てが破壊され、家は流失、ライフラインは停止し、ロウソクの灯りの生活が始まりました。そして気が付くと周りに若い人達がいた。あまりに突然にやって来た未曽有の災害は我々から色々な物を容赦なく奪っていきました。そんな中、悔しさや、喪失感、何とも言えない辛さと不安が交錯する日々の中で、寄り添ってくれる人々の心の温かさを感じました。今まで全く気にしていなかった、人の心の有難さをしみじみと感じたのです。そしてまた、生きているのではなく生かされていると感じた瞬間に、あらゆる物への感謝の気持ちが沸いてきました。あのような心境の変化は未だ経験した事のないものでした。

 
今思うと、我々は様々な物を失った代償に、目には見えないけれど非常に大切な心という物への意識と感覚が非常に深まったように感じます。それはまるで苦難を乗り越えた僧侶の修行にも似たものがあるような気さえします。震災直後には多くの人々が被災地を訪れてくれましたが、日々いらっしゃるお客様との会話で、その方の人となりからくるその人が纏っているものを感じるようになりました。きっとあの苦難の日々を過ごした事によって自分の感性のアンテナが研ぎ澄まされたのかもしれないと思います。その後は自然体で多くの方々と接し、ご縁を大切に全て受け入れて来たように思います。

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いつも温かく迎えてくださります

「ホテルとの別れ、そして」

 毎年何度も愛知から学生を連れて気仙沼に、そしてホテル望洋に訪問していました。2017年3月もいつものように私たちを温かく迎え入れてくれました。

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2017年3月に宿泊したときの集合写真


 その年の7月、初めて1人で気仙沼を訪問しようと思い、望洋に宿泊の予約をしようとしていました。

 しかし、いくら電話をかけてもホテル望洋に繋がりません。HPも閉鎖されていました。社長個人の電話番号にかけたところ、なんと老朽化のために3月末に閉業したとのことでした。

 そして、望洋に代わる気仙沼の宿として「ゲストハウス架け橋」を紹介してくださりました。

 なぜあの時、ゲストハウス架け橋を僕に勧めてくれたのか。
そしてホテルを閉めた後の社長の今後についてお聞きしました。

大原
 望洋に代わる宿泊場所として、ゲストハウス架け橋を勧めてくださった理由は何でしょうか。
加藤さん
 復興支援や被災地を取り巻くネットワークの活動に積極的に参画している若い人たちのキーステーションとして「架け橋」が合言葉になっていた。みんなどこに泊まってるの、と尋ねると「架け橋」と言っていた。架け橋に集まってくる若者同士の活動がネットワークになっている。君の位置づけもそっちに振り分けて、普通の旅館よりかはそういうところの方が面白いのではないかなという僕の直感です。
大原
 たしかに、架け橋に出会えたことで、同世代を含めた新たな繋がりにたくさん恵まれることができました。架け橋に結び付けてくださり感謝の気持ちでいっぱいです。

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ゲストハウス架け橋の外観

大原
 今後の社長のやりたいことを教えていただきたいです。
加藤さん
 生活再建やホテルの残務整理などでいろいろと時間がかかったが、今はだいぶ落ち着いてきて時間もできた。今までこのまちに育てられたわけだから、これまでの人生で培ったものをもとに、自分のできる範囲内でこのまちへの恩返しができたらなという思いでいる。今では個人事業主として観光旅行のコーディネイトをするツーリズムリアスを立ち上げたり、気仙沼市認定観光ガイドKOMPASSのリーダーや震災語り部としての活動もしています。

  さらに若い人、特に大学生には、震災復興ということだけでなく人生のお話もさせてもらっている。底上げキャンプなどの場で、仕事や震災体験をもとに自分の感じたことを伝えている。ご縁を大事にして、今を一生懸命生きよう、という話をしている。
 それはなぜかというと、多くの若者が、自分自身ときちんと向かい合って、自分が何者なのか、自分が本当に好きなものはどういうことなのか、ということを考えないまま、ただ時間に無意味に流されている。就活しなきゃいけない、という波に流されて、見たことも聞いたこともない社会というすごく不安なフィールドに出ていく。そこで自分を見失うことが多いと聞いた。そういう若者たちにとって役に立つのであれば、これからもお話しさせて頂こうかなと思っている。
大原
 自分も2015年に社長に出会って、震災の話だけじゃなくて、人生についての話もすごく心に響いていて、お聞きした内容がいまの自分の生き方に取り込まれていると思います。社長と出会ってよかったです。
加藤さん
 そう言ってくれて嬉しいです。
大原
 最後になりますが、今後の気仙沼に期待することは何でしょうか。
加藤さん
 いまは復興の途上だが、人々も負けないでここまできたという気概がある。観光でも水産でも様々な面で問題は山積しているけど、いろんな問題を乗り越えてここまで来た人々の忍耐強さがある。

 それから、防潮堤の問題をはじめとして、漁業を通じて環境に対する人々の意識が高くなってきているように思う。これからの世界は「環境」がキーワードになって行くと思う。その中で環境を中心に据えたまちづくりを展開する事によって、水産業、観光業の新しい在り方を世界に発信できるような町になっていけたらと願っている。また、世界は今コロナウイルスの出現によってAIが中心となるデジタルな社会へと大きく舵を切った。それ故、その分デジタルの反対に位置するアナログの究極である人々の「心」がこれから最も大切になって来るはずだ。

 我々は千年に一度と言われる震災を体験し、同時に千年に一度の学びを得た。そのような市民が沢山住んでいる町なのだ。そして人々は前述したように人の心の有難さを身に染みて体験している。防災、減災、そして心の在り方の大切さを、全ての人々に伝承出来るパワーを内在している事に自信を持って進んでいくべきだと思う。
大原
 ありがとうございました。


 前編では、私が気仙沼に通うきっかけとなったホテル望洋の加藤社長とのインタビューを振り返りました。なぜ自分がここまで気仙沼に惹きつけられたのか、がこのインタビューを通して知れた気がしました。両親のように大きく包み込んでくれる存在が気仙沼にいたからこそ、何度も「このまちに帰りたい」という気持ちになったのだと思います。

 後編では、何度も通う中で知り得た私なりの気仙沼のおすすめな観光要素を紹介するとともに、気仙沼との出会いを通して感じたことについてお伝えします。

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