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【音声コンテンツ】toitoi哲学ラジオ #8 仕事の「自分」とプライベートの「自分」は同じ「自分」か?

音声コンテンツで気になる部分を取り留めなく書き留めていきます。

今回採り上げる音声コンテンツは、
toitoi哲学ラジオ 
#8 仕事の「自分」とプライベートの「自分」は同じ「自分」か?

です。

書き留めた切っ掛け

最近、個人と他者の関係、個人とコミュニティの関係で、

『分人=人は分人の集合体であり、中心や本当の自分はない』

という考え方に興味があり、関連するコンテンツとしてこのコンテンツを聴いていました。

このコンテンツの中で、あらためて、過去の自分の知識と結びつく、大きな2つの気づきがあったため、書き留めておきます。

書き留めたところ①

発展的に次に考えてみたい問いが、
どこまでは社会に適応して、どこからは自分の内面、自分が思うアイデンティティを一貫させるべきかっていう、このバランス、このラインですよね。
・・・

一つこれを考えるために参考になりそうだなと思った問いが、
じゃあ例えば、私が社会の役割に従って演じます、ってなった時に、
それで問題を起こした時に、それはその人のせいではないのかってことですよね。
例えば、私のアイデンティティや私の考えには関係なく、会社にこれをやれと言われたからやりました、会社にこれを役割を与えられたからやりました、
で、それで失敗しました、何か問題を起こしました、って時に、
その人のアイデンティティや意思は関係なかったから、
その人自身に責任、問題はないのかってことですよね。
これを考えていくと、一つさっきの答えがでるんじゃないかって思うんですよね。
ここに答える範囲で、一つどこまで役割でやってよくて、どこまでは一貫して自分、アイデンティティ、考え、持つべきなのか。
・・・

toitoi哲学ラジオ #8 仕事の「自分」とプライベートの「自分」は同じ「自分」か?

この部分を聴いて、アドルフ・アイヒマンのことを思い出しました。

彼は愚かではなかった。完全な無思想性―――これは愚かさとは決して同じではない―――、それが彼をあの時代の最大の犯罪者の一人にした素因だったのだ。このことが〈陳腐〉であり、それのみか滑稽であるとしても、またいかに努力してもアイヒマンから悪魔的な底の知れなさを引き出すことは不可能だとしても、これは決してありふれたことではない。

「エルサレムのアイヒマン」ハンナ・アーレント

組織の中の役割を演じた結果、問題となった時、その原因をどこに帰結させるかは非常に難しい問題です。

アイデンティティという言葉とズレるかもしれませんが、

「おてんとうさまが見ている」
「至誠に悖るなかりしか」
「子供の前で同じことができるのか」

といった自身の中での規範(コア)を持つことが、この答えの一つになると考えますが、これも自身が置かれている環境に依存してしまうことが、悩ましいところです。

「分人」という考え方と自分の中にあるコアとなる考え方がどのような関係にあるべきかは、とても興味深い問いです。

書き留めたところ②

私は一つ「期待」っていうのがやっぱり、キーワードになると思いますね。

つまり、期待に演じている自分も、もともと自分のアイデンティティだと思っている自分も、全部自分ではあるんですけど、アイデンティティとして大事にしたい核の部分、つまり、社会や周りの人に関係なくある自分の部分と、社会と周囲の期待に合わせて演じている自分、これをちゃんと分けて考える。

更に、この「期待」がキーワードになるというのは、期待に合わせて演じている自分とこのコアにあるアイデンティティとしてある大事にしたい自分の部分、ここ以外は自分じゃない方がいい、自分にしていかない方がいいなって思ったんですよね。

つまり何かっていうと、それ以外の部分って、たぶん自分でもそんなに大事じゃないし、社会の期待にもこたえられず、認められない自分だから、ここがどんどん大きくなっていくと、自分も好きじゃないし、社会にも認められないしっていうので、自己肯定感が下がっていくと思うんですよね。嫌いな自分みたいなイメージです。

だから、答えになっているか分からないですけど、ある程度、やっぱり自分の内面、ここはコアだな、何事にも通貫しているな、っていう部分を持ちつつ、それはどこか、何か共通している部分なので、一つでいいんですよね、一つでも二つでも少なくていい、それ以外の期待に合わせて演じている自分もあっていい。これも自分。

でも、それよりもでている、自分も大事にしたい部分でもないし、社会にもそれ期待として求められていない自分は、自分じゃなくていい、っていうのが、今回考えてみた、私の中では、出た答えでした。

toitoi哲学ラジオ #8 仕事の「自分」とプライベートの「自分」は同じ「自分」か?

自分のコアを見つけていく上で、「期待」というキーワードがあることは、自分にとって大きな気付きになりました。

コアを見つけていく上で「期待」の解像度を上げて行けばいいのではないか?
そんな考えが頭に思い浮かびました。

「期待」
=自分は誰の期待に応えたいのか?
=その誰かが求める期待にはどのようにすれば応えられるのか?
=その誰かの期待に応えていくことで、自分は何を得たいのか?
=これによって得られるものは、本当に自分が求めているものなのか?

これを重ねていった先に、自分のコアが出来るのではないか?

また、このコアが社会性と合致しているかも見て行かなければいけない部分になります。

「チワワちゃん」への答え

以前、「チワワちゃん」を取り上げました。

「期待」
=①自分は誰の期待に応えたいのか?
=②その誰かが求める期待にはどのようにすれば応えられるのか?
=③その誰かの期待に応えていくことで、自分は何を得たいのか?
=④これによって得られるものは、本当に自分が求めているものなのか?

かわいく、愛嬌があり、料理が上手いチワワちゃんは、①②③は上手くできていたけれど、④の答えが出せずに、不幸な結末を迎えてしまったのかもしれません。

やっぱり自分の内面、ここはコアだな、何事にも通貫しているな、っていう部分を持ちつつ、それはどこか、何か共通している部分なので、一つでいいんですよね、一つでも二つでも少なくていい、

toitoi哲学ラジオ #8 仕事の「自分」とプライベートの「自分」は同じ「自分」か?

過去の経験を重ね合わせて「④これによって得られるものは、本当に自分が求めているものなのか?」を探していくこと。

重ね合わせていくことが重要だと思います。

重ね合わせることで、俯瞰して、内省していく。

自分がnoteに書くことで、探しているのも、これかもしれないなと、あらためて考えた次第です。


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