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【読書ノート】「なぜ働いていると本が読めなくなるのか」

読んだ本の気になる部分を書き留めていきます。
今回採り上げる本は、『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』著.三宅 香帆です。


本を手に取った切っ掛け

「発売1週間で10万部決定」とAmazonの商品欄に記載がありますが、大人気の書籍です。

様々なメディア(以下、PIVOT 公式チャンネルを貼付します)でも採り上げられており、読んだ後、時代の流れを感じられる書籍ではないでしょうか。

以下、気になる箇所を書き留めておきます。

書き留めたところ① 逃避としての思考停止状態

 生活するためには、好きなものを読んで何かを感じることを、手放さなくてはいけない。そんなテーマを通して若いカップルの恋愛模様を描いた映画『花束みたいな恋をした』は、2021年(令和3年)に公開され、若者を中心にヒットした。
・・・
実際、私の友人たちが「身につまされた」と語っていたのは、麦と絹の恋人関係そのものよりも、麦の読書に対する姿勢だった。「働き始めた麦が本を読めなくなって、『パズドラ』を虚無の表情でやっていたシーン、まじで『自分か?』と思った」と友人たちは幾度も語った。働き始めると本が読めなくなるのは、どうやら映画の世界にとどまらない話しらしい。
 私は、この作品を観たとき映画としての作劇や演技の完成度に感嘆しながらも、こう感じた。この映画がヒットした背景には「『労働と読書の両立』というテーマが、現代の私たちにとって、想像以上に切実なものである」という感覚が存在しているからではないだろうか?と。

「なぜ働いていると本が読めなくなるのか」 p.35-36

私も『花束みたいな恋をした』(リンク先が書き留め記事です)を観ましたが、

暗い職場でスマホの画面が薄暗く光り、虚無の表情で画面上を指でなぞり、コンボの電子音だけが聞こえる麦くんの「パズドラ」シーンは、サイコホラーを観ているようでした。

この世界での逃げ場は、「パズドラ」の中にしかない

理不尽な状態に対する逃避としての思考停止状態が画かれています。

「こんな時、自分にも、あったわー」

と思う一方で、

「こんな時があることって、そもそも社会として健全なんだっけ?」

という疑問が頭に思い浮かびます。


書き留めたところ② ルールを疑うこと

「多動力」の時代に
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 よくビジネス書では、人に好かれる能力を磨きなさいと説かれていますが、僕は逆だと思っています。人を好きになる能力の方が、よっぽど大事だと思います。

 人を好きになることは、コントローラブル。自分次第で、どうにでもなります。でも人に好かれるのは、自分の意思では本当にどうにもなりません。コントローラブルなことに手間をかけるのは、再現性の観点でも、ビジネスにおいて当然でしょう。
(前田裕二『人生の勝算』)
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 『花束みたいな恋をした』で、仕事に忙殺され、小説を読めなくなった麦が手に取っていた『人生の勝算』。そこにはこんな言葉が綴られていた。
 コントローラブルなことに手間をかける。それがビジネスの役に立つ。
ーこの発言は、まさに本書が指摘してきた「ノイズを排除する」現代的な姿勢を地でいく発言ではないか。同書を読んだとき私は思わず、このページのスクリーンショットを撮ってしまった。
 コントローラブルなものに集中して行動量を増やし、アンコントローラブルなものは見る価値がないから切り捨てる。それが人生の勝算を上げるコツであるらしい。

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 何度も言うが、この前田の価値観は社会がつくり出したものでもあるので、このような発想を持つ個人を批判する気は毛頭ない。というか、私もまたそういう価値観を重視する人間のひとりである。選択肢を他人に決められたくない、自分で決めたいといつも思っている。今の社会に適応しようとすると、このように考えないと幸せになりづらいのでは、とすら感じる。

 一方で、「自分が決めたことだから、失敗しても自分の責任だ」と思いすぎる人が増えることは、組織や政府にとって都合の良いことであることもまた事実である。ルールを疑わない人間が組織に増えれば、為政者や管理職にとって都合の良いルールを制定しやすいからだ。ルールを疑うことと、他人ではなく自分で決めた人生を生きることは、決して両立できないものではないはずなのだ。しかし『人生の勝算』にそのような視点はない。当然である。仕事や社会のルールを疑っていてはーたとえば「こんな飲み会をやっていたら、誰かいつか体を壊すのでは?」とか「そもそも日本のアイドルの労働量は過多であり、配信まで増やしたら彼女たちの時間の搾取は進むばかりでは?」とかービジネスの結果を出す「行動」に集中できないからだ。
 市場という波にうまく乗ることだけを考え、市場という波のルールを正そうという発想はない人々。それが新自由主義的社会が生み出した赤ん坊だったと言えるかもしれない。

「なぜ働いていると本が読めなくなるのか」 p.212-215

この部分、非常に興味深いです。

特に、以下の2つの箇所、

ルールを疑うことと、他人ではなく自分で決めた人生を生きることは、決して両立できないものではないはずなのだ。

「なぜ働いていると本が読めなくなるのか」 p.215

市場という波にうまく乗ることだけを考え、市場という波のルールを正そうという発想はない人々。それが新自由主義的社会が生み出した赤ん坊だったと言えるかもしれない。

「なぜ働いていると本が読めなくなるのか」 p.215

新自由主義社会のルール理解を深めつつ、

『自分の決めた人生を生きること』と『ルールを疑くこと』を両立する、

「ルールに従いながらも」同時に「ルールを疑い」、「ルールを選択したり」「ルールを作り変える」余地を持っておく、

ことが大切だということでしょうか。



書き留めたところ③ 半身で働く

 2023年(令和5年)1月に放送された『100分deフェミニズム』(NHK・Eテレ)において、社会学者の上野千鶴子は、「全身全霊で働く」男性の働き方と対比して、女性の働き方を「半身で関わる」という言葉で表現した。
 身体の半分は家庭にあり、身体の半分は仕事にある。それが女性の働き方だった。
・・・・
 半身で働けば、自分の文脈のうち、片方は仕事、片方はほかのものに使える。半身の文脈は仕事であっても、半身の文脈はほかのもの ー 育児や、介護や、副業や、趣味に使うことができるのだ。

「なぜ働いていると本が読めなくなるのか」 p.232-233

 半身のコミットメントこそが、新しい日本社会つまり「働きながら本を読める社会」をつくる。本書の提言はここにある。
 たとえば本を読むことだって、当然ではあるが、半身の取り組みでいいのである。社会で生きて、仕事したり家事をしたりするなかで気づいたことが、読書の役に立つ。現代では「にわか」つまり半身のコミットメントをする人は趣味の世界において嫌われがちだが、私は「にわか」でなにが悪いんだと心から思っている。全身のコミットメントを趣味に求めていると、どこかで均衡を崩す日がやってくる。それはちょうど、映画『花束みたいな恋をした』の麦と絹が、文化的な趣味に「全身」浸りすぎて、わずかでも浸れなくなった瞬間、うまくいかなったように。

「なぜ働いていると本が読めなくなるのか」 p.259

「全身」とは、時間が占める割合もそうですが、自分を単一の何かで認識することだと考えました。

例えば「父親」の役割を、
「父親」と「子供」
「父親」と「母親」
という異なる個人の関係性の中で変わり得るものと捉えることもあれば、

「父親」=「お金を稼いで家族を扶養する人」
という社会の中で誰かが規定した(個人間の関係性ではない)役割で捉えることも出来ます。

「全身」とは、どちらかというと、社会の中で誰かが規定した役割が、コミュニティを跨って発揮されてしまい、

「家庭にとっての父親(お金を稼ぐ人)=会社にとってもお金を稼ぐ人」

「家庭にとっての母親(子供の母親)=社会に出ると〇〇ちゃんと母親としか見られない人」

のように

これが全人格となってしまうことのように感じます。


そうではなく、複数のコミュニティにとって、それぞれに異なる役割を担いながら、異なる他者との関係性の中で、複数の自己を認識し、

その複数の自己認識の集合体として、個人を捉えること

「半身で働くとは」そんなことではないかなぁと、
この本を読んで考えました。


読後メモ(メタ認知)

最近「メタ認知」が時代のテーマになっているように感じます。

COTEN RADIOを運営されている株式会社COTENのMISSIONが
『メタ認知のきっかけを提供する』
となっていたり、

「メタ認知」とは、異なる価値観を知り、異なるレンズで自分自身や社会を見つめ直すこと。
生き方に正解がない現代。「メタ認知」は人生選択のコンパスとなるはずです。
自分を縛る「当たり前」から脱することや、目指したい生き方のヒントを得ること。
COTENはそのきっかけを提供します。

株式会社COTEN HPより https://coten.co.jp/

平野啓一郎さんが提言されている「個人」から「分人」という考え方であったり、

2000年代から、SNSが普及しはじめ、2007年の「iPhone」発売から、更にSNSが個人に身近なものに、身体と密着したものになり、

個人がSNSで発信する情報は、統合された個人の一部のキャラクターに過ぎず、「裏アカウント」という言葉にあるように、情報(キャラクター)の集う器としての個人があるという考えに、私たちは移行してきているように感じます。

自己と他者の関係性の中に自己を見出すのではなく、
自分が発信・受信する情報の集合体として自己を見出す。

「多数の分人を俯瞰で捉える個人」という概念に移行しているようです。

これを別の言葉で表現すると

「半身で生きる」

という言葉になるのではないか、
私はこの本を読んで、このように感じました。


「花束みたいな恋をした」に想う

「花束みたいな恋をした」の中で、

麦は、当初、単一した自己(社会の中で誰かが規定した役割)を持っているように見受けられますが、

経験を通じて「仕事での自分」は「多くの自分の中にいる一人の自分」と捉えることで、自己を取り戻したように見えます。


(※麦は、絹と別れた後、「ガスタンク映像」をyoutubeにアップしたり、自分が画いた「イラスト」をInstagramに公開しているのではないか、もしくは、そうであって欲しい、と私は勝手に考えています。

そうすることで、仕事の自分と、ガスタンク映像作家の自分と、イラストレーターとしての自分を異なるコミュニティの中で切り分けて、自己の中に内包できたのではないかと思います。

社会の中で誰かが規定した役割として『麦の父親像=家族をディズニーランドに連れて行く』というのも、絹的には「はぁ?」という感じだったのではないでしょうか。)


一方、絹は、ラーメンブログの運営を行っていた描写で分かる通り、

オダギリジョー(役名?)との自分
歯科医院の仲間との自分

と既に、「多くの自分の中にいる一人の自分」という俯瞰を持っていたため、感覚的に麦のことを理解できていなかったのかもしれません。

時代が変化する中で、自己認識の在り方が変わってきているのではないか?

とても興味深いテーマです。

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