マガジンのカバー画像

昔書いたものたち。

40
昔(7~8年ぐらい前以降)書きためた諸々を、置き場所に困って某ラノベ専用投稿サイトに片づけていたのが、いくつかあります。 そういうのをこっちに移す、いわゆるお引越用に立ち上げたも…
運営しているクリエイター

#週刊少年マガジン原作大賞

例の応募作の原文(第3部のつもり⑫)

       27  目を開けた時、視野に飛び込んできたのは真っ白い天井だった。「気づいた…

中野徒歩
8か月前

例の応募作の原文(第3部のつもり⑪)

       26  8月に入ってすぐに長岡が空襲で焼け野原になり、さらに広島と長崎で落と…

中野徒歩
8か月前
1

例の応募作の原文(第3部のつもり⑩)

        25  梅雨明け直後の、ある夕方。この日は近郊で夏祭りが行われ、昔に比べれ…

中野徒歩
8か月前
3

例の応募作の原文(第3部のつもり⑨)

       24  3月に入り、新潟は晴れる日が増えてきて日も長くなっていた。この時点で…

中野徒歩
8か月前
2

例の応募作の原文(第3部のつもり④)

     19  秋が深まった頃、青海君の実家からまた連絡を受けた。お母さんは「元気らった…

中野徒歩
8か月前
1

例の応募作の原文(第3部のつもり⑧)

       23  真柄さんが新潟移住を歓迎する旨綴った返事をくれたのは、12月に入ってか…

中野徒歩
8か月前
3

例の応募作の原文(第3部のつもり⑦)

      22  昭和19年初冬。働き盛りの男達が戦地に引っぱられていったことに加え学童疎開も始まっていたし、郊外の親類を頼って家族ぐるみで疎開する者もちらほら出始めていた。残ったのは私のような者や中高年ばかりだ。割烹着にもんぺ姿のご婦人達が退役軍人や憲兵どのの先導のもと「銃後を守る」との気合十分に、どこかヒステリックに奮闘していたが、それを除けば東京の中心部であるはずの我が街・神田はひっそりと静まり返っていた。  そんなご婦人達に「力を貸して」と言われれば私は喜んで出向

例の応募作の原文(第3部のつもり⑥)

      21  昭和18年秋。小塚に誘われて芸校を中退し、国策雑誌「国防」の挿絵を手がけ…

中野徒歩
8か月前
1

例の応募作の原文(第3部のつもり⑤)

      20  10日ほど後、私はまた島崎先生との憂鬱な汽車旅を経て新潟に降り立った。市…

中野徒歩
8か月前
7

例の応募作の原文(第3部のつもり③)

      18  お盆の後、私は平澤君と食事に出かけた。彼のところに赤紙が来てしまい、「…

中野徒歩
8か月前
3

例の応募作の原文(第3部のつもり②)

      17  その週末、私と陽子、それから平澤君(喫茶店に呼び出して、どうにかこうに…

中野徒歩
8か月前
1

例の応募作の原文(第3部のつもり①)

     16  小生は、大日本帝国陸軍歩兵第16連隊所属、塩谷辰美と申します。貴君の帝都芸…

中野徒歩
8か月前
4

例の応募作の原文(第2部のつもり⑧)

  15  12月。私は、陽子とともに新潟へ向かう鈍行列車の車中にいた。青海君の陸軍入隊が決…

中野徒歩
8か月前
4

例の応募作の原文(第2部のつもり⑦)

  14  卒業式の数日後、私を含む38期卒業生の上位入賞者各科3人は奨学金授与の諸手続きのために芸校に出向いた。昼前に霧雨が降ったが寒くはなく、校舎がある丘は靄に包まれていた。ふわふわするような穏やかな空気の中を、私と青海君、そして三席の平尾君はゆっくり歩いて学校に向かった。 「ついこの間卒業式を終えたばかりなのに、なんだか随分昔のことみたいだな」  平尾君が感慨深げに言った。彼も展覧会入選を目指して制作を続けるが、しばらくは挿絵画家としても活動したいという。卒業式を終え