例の応募作の原文(第3部のつもり④)

     19

 秋が深まった頃、青海君の実家からまた連絡を受けた。お母さんは「元気らったかね」と声をかけてくれた後、過去1年以内に戦地で亡くなった新潟市民の市葬が開かれることになった、と告げた。
「神道の家はうちだけらろうし、面倒かけると悪いかと思うて一旦は断ったんだろもさ。しばらくしたら役所の人がうちに来て『晴久君は芸術学校を首席で卒業したんだし、日本画家として将来を嘱望しょくぼうされていたんだすけ、新潟市としても敬意を表したい。無宗教にして合同でやるすけ、遠慮しねえでくれ』言いなさったんだて」
「そうなんですか」と返し、「よかったですね」と言うのもおかしいな、と思っていたら「遠いところ悪いろも、また出てくんねかね」と誘ってくださった。青海君のことなのだから、断る理由などない。
 夕方、島崎先生がやってきた。都会的な印象だけは相かわらずだったが、そんな面が素っ気ない、あるいは冷徹と言ってもいいほどの雰囲気を漂わせるようになっていた(もっとも先生にとって、昔とは違って熱くなれるものなどほとんどなかっただろう)。それでも恩師のひとりでもあるこの客が来るのは私にとって楽しみのひとつであり、月に2、3度の頻度で来店すれば学校の様子を教えてもらったりもしていた。
「君は、青海君の市葬には出るのか?」
 普段なら帳場にいる私と目を合わせ、ゆっくりと売り場を見て回るところだが、この日の先生は帳場にかぶりつくようにして開口一番そう訊ねた。
「はい。昼過ぎに、実家のお母さんが電話をくれました。学校にも連絡がきたんですか?」
「他でもない、そのことだよ。弔辞を頼まれた」
「そうなんですか」
「担任だった玉井先生がおられれば当然、先生にお願いしていただろう。しかし今、芸校で青海君を直接教えたことがあるのは私ひとりになった」
 私自身のひいき目も込みで考えれば玉井先生に軍配を上げたいところだが、彼は従軍画家に志願し南方に行ってしまったのだからどうしようもない。また、島崎先生自身が青海君に対して持っていた思いもあるだろう。本科1年の時、大村先生はじめ他の講師陣から酷評された青海君の作品をひとり評価していたのを思い出すまでもないし、青海君の姿に若き日の自分を投影しているのではないか、と感じることもあった。ふたりの関係性を考えれば島崎先生が弔辞を読むことに異論はないし、学校関係者にその依頼があったこと自体を喜ぶべきだろう。
「それにしても、僕らを教えたことがあるのが先生ひとりになったなんて…… 先生は辞めないでください」
「それだけはいつどうなるか分からん。
 ところで、弔辞を読む者がもうひとりいる。誰だと思う?」
「誰ですか?」
「小塚だよ」
「え?」
 先生いわく。実家のお母さんに「市からそんな要望があった。学校を通じて小塚に連絡をとってくれないか」と頼まれた、自分はそのついでに声をかけられたようなものだ。講師からも嫌われていた彼よりも下に見られている、とはっきり感じた。親御さんは彼と平澤君、そして小塚の間で起きた一件を知らないのだろう。市から「小塚に弔辞を」と言われて、名誉なことだとかなんとか思ったのではないか。
 小笠原君のほうがまだましか、とも思えたが口には出せなかった、島崎先生の彼への評価は高くなかったから。あれほどの技量を持つ仲間が芸校を去ったことをみんな悔やんでいたし、「小塚にたぶらかされて国策雑誌などに関わる羽目になったのだから、彼は被害者だ」という者もいた、私もその解釈に賛同できた。しかし小笠原君も中退者のひとりだし、島崎先生は「ああいう絵を描いているのがお似合いだ」とでも思っていたかもしれない。とにかく、先生の口から小笠原君の名前が出ることは一度もなかった。
「一緒に新潟へ行ってくれないか、ちょっとご実家を説得してみようと思う。あいつが弔辞を読むのを阻止したいんだ、青海君も浮かばれないと思わないか? どうだ、都合をつけてくれないか」
「時間の融通は、まあ父に言えば」
「悪いがそうしてもらえないか。それで小塚の代わりに君を推そうと思うんだが、どうだ」
「僕が弔辞ですか?」
「君は卒業制作二席じゃないか、不足はないだろう。小塚は今は人気漫画家とはいえ中退者だ、とでも言ってやるさ。
 まあ、弔辞を読めない説得もできない、といっても案内役としてついてきてもらうよ。私は新潟など初めて行くんだから」
 いつも冷静な島崎先生が初めて見せた怒りと強引さに絡めとられるように、私は翌朝一番の汽車に先生とともに乗り込んだ。「田舎の人だから、有名人が来ると言われてすっかり乗せられてしまったんだろう」などというぼやきに適当に相槌を打っているうちに、汽車は新潟に着いてしまった。迎えに来てくれたお母さんの顔を見た時、こんな用事で来たくはなかった、と思った。
 とるものもとりあえずといった勢いで実家にお邪魔し、さっそく談判が始まった。青海君のお兄さんが、経緯を教えてくれた。
「最初に市の方から話があった時、妹のみづいに報告しました。そうしたら『それでは晴久が可哀想げだ』と言いまして。同級生らったのはたしからろも、仲がいいわけではねかった、いうのを初めて聞いたんですて。まあいろいろあった、いうのも聞きましたこて。
 ほいで、いっぺん断ったぐらいらし、やっぱ晴久が可哀想げだと思うて改めてお断りしたんですろも、役所も役所で『やでもやらせてほしい』の一点張りで」
「小塚の弔辞が目当てなんですよ、役所の連中は。お気づきのとおりだ」
 島崎先生が、私がまさに考えていたことを口にした。「あいつのことだから、お上におもねる・・・・ような文言をつらねるに決まっている。弟さんの死を、戦意高揚の材料に使われてしまいますよ!」
 青海君のお母さんがお国言葉で何か呟いている姿を見て、珍しく前向きな気持ちがわき起こってきた。小塚を引きずりおろして弔辞を読んでやろうか、などと私らしくもなく考えていると、島崎先生がひとつ提案した。
「どうでしょう、『学校の方では連絡先が分からないと言っている』と突っぱねてみては。我々は奴が芸術に真摯に取り組もうとしていないことなどお見通しでした、晴久君やここにいる大畑とは根本から違ったんです。彼らの担任の玉井先生は『戦争賛美で飯を食う道を選んだ者など、除籍にしてやりたい』と言っていたほどです。
 大丈夫ですよ。しらを切りとおしてやりましょう」
「これ以上の名案はない」とばかり胸を張る先生に、お兄さんが静かに、どこかたしなめるように言った。
「先生。そんげ言うて、学校のほうは大丈夫なんですかね?」
「ほんだわ。官立なんだすけ、なおさらそんげこと言うてらんねわ」
 お兄さんとお母さんが悔しさ悲しみを噛みつぶすようにして、それでも学校を心配するような言葉をかけてくれるのを見たらなんともいえない気持ちになってしまった。島崎先生がいうところの「田舎の人」である彼らは、穏やかで優しくあること、自らが悔し涙を流すことを選んでしまう。己の言い分を主張してばかりの東京の人間のようにはねっ返りを演じることはできないだろうし、それ以前に従わざるを得ないだろうと思わされる何かがあったのかもしれない。
「先生。こちらは、へぇ市の言うとおりにするより他ねえ、と思うております。こんげ言い方するのは悪いろも、今お話しして、なおさらそう思いました」
 お兄さんの一言で、今回の新潟行がなんの意味もなかったことがはっきりした。私が代わりになるどころか島崎先生および小塚が弔辞を読むという予定を覆すこともできず、汽車賃と時間を無駄遣いしたうえに実家に厄介をかけただけで、私達は一泊させてもらって翌日の汽車で東京に戻った。
 学校側は島崎先生の提案どおりとぼけた言い訳を盾にして小塚と連絡を取るのを拒んだが、市のほうで出版社を通じて依頼し、とっくに弔辞の約束をとりつけていた。先生が不毛な大騒ぎをするのを見はからったように、だ。

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