例の応募作の原文(第3部のつもり⑫)

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 目を開けた時、視野に飛び込んできたのは真っ白い天井だった。「気づいたかね?」という声の後に見覚えのあるほっそりした顔が私を覗き込んだ、近くの診療所の鶴巻つるまき先生だ。彼もまた街に留まったひとりだった。
 先生は「君が寝った間に、戦争が終わったれ」と笑顔で告げた。
「え? 終わったんですか」
「ああ。昨日、ラジオで天皇陛下直々に発表しなさったんだ。今日は8月16日らよ」
 私は丸2日間眠り続け、先生に命をつないでもらっていた。その間に玉音放送が流れ、太平洋戦争はようやく終わった。もう空襲や新型爆弾の心配などしなくてもいいと悟った市民は三々五々、街に戻り始めているという。
「あの…… 日本は負けたんですか?」
「負けたこてや。なに勝たいろうば」
「ああ。なんだか……」
 どっちでもいいけど。ほっとした、嬉しい。そんな台詞を吐きたかったがさすがに口にするわけにはいかない、と思った。しかし解放感がとてつもない強さでこみ上げてきて、無性に腹が減ってきた。
 そのことを図々しく訴えてみたら、先生は庭の畑から胡瓜きゅうりを採ってきてくれた。桃じゃなくてよかった、と安心した。半分に折ったみずみずしい胡瓜に味噌みそをつけて、先生とふたりでかぶりついた。とにかく旨かったし、きれいに食べることができた。
「夜なんか蝉も鳴かねえろう、なんの音もしんかった。あれはぞっとしたわ。君もそう思うたろう?」
「俺は、夜のことは全然覚えてないんです。ただ昼間出歩いて、夕方に帰ってすぐ寝て」
「そういんか。俺はさ、夜のことは一生忘れねろうな。しーんとした中でひとりで座って、赤塚のほうに逃がした女房かかと子どものことなんか考えったんだ。『新型爆弾がほんに落ちるんたら、どうにもならねえ。あれってとは今生こんじょうの別れらったわけらな』と思いもしたろも、そんげのは落ちねえような気もしった。『なんにしても、へぇ日本は負けるんな、戦争が終わるんだわ』と思うったろも、そのとおりになったがんね」
「誰も勝つなんて思ってなかったはずですよね、本当は」
「ほんだの。こんげな負け戦はねえわ、みんなお上こと信じたふりして踊らされてるうちに何万人も死んでしもうた」
「随分無駄なことをやってたんですよね。馬鹿だなあ」
「ほんだほんだ。
 君のことはさ、ちょこっと噂になってたんだわ。『最近見かけねえな』いうてさ」
 小さな街だから、私が青海君の同級生であることも東京から疎開してきて港で働いていたことも、みんな知っていた。ある時、先生が真柄さんに「東京に帰ったのか」と訊ねてみたら「ばてちゃってる」という返事が返ってきたのだという。
「『往診しようかね』言うたらさ、『こないだ話してじゃがいもを出してやったら、よう食うた。どうも体ばっかではねえみてらな』なんか言うったんだ。
 それにしてもまあ、こんげっちぇてがんに4日間で桃5個かね」
「はい。その前から断食まがいのことをやってたし、なおさら弱っちゃってて。正直、死ぬつもりでした。『飛行機が来てでかい爆弾を落としていくんだろう、楽しみだなあ』って。
 触雷事件の時に手伝わせてもらって、それがきっかけといえばきっかけだったんですけど。東京にいる頃から俺なりにいろいろあって、あれこれずっと考えっぱなしで。
 でも、出征しない自分のことを思い悩まなくてもよくなったし、描きたい絵を描いてもいいんですよね。戦争が終わったってことは、そういう世の中になった、ってことでもあるんですよね」
「ほんだのう。
 君が塩梅あんべわーりなってた時のことらけどさ。君は出征しんかったことらの疎開したことらの、これまで運が良うて難儀な思いしんかったことらの、そういうみてなのがあって食事がらんねなったんかな、と思うたんさ。せっかく絵描きの学校出たてがんに、描くとしたら国威発揚のために描かんばねえ、いうのも切ねかったんろう。
 勘弁かんべんな、こんげのは勝手な推測らけどさ」
「いや、まったくその通りだったんです」
「やっぱそうらったか。
 ほんでもな。そんげのは、へぇ負い目に感じねえても良うなったんし、君が『いい絵が描きたいてがんに』いうて思い悩んできたことは、真っ当な悩みだったんだれ。今やっと、君がおかしいと思うったのは間違いでねかった、いうのを証明できるようになったんだ。『俺は運がいい』いうて胸張って、これまでできねかったことを思う存分やればいいんだ。
 まずは体力回復らな。元気になったらどうするんだ、東京に帰るんか?」
「そうですね。なんていうんでしょう、俺なんか逃げてばっかりの情けない奴だけど、今度こそ自分が生きたい世界に戻れるんじゃないかと思うんです」
「ほんだの。まだわーけんだすけ、頑張らんばねえのう」
「いや、もう来年で30ですよ。戦争のせいで遠回りして、なんにもしないうちに二十代が終わろうとしてるけど。
 俺がこっちにいた間に、向こうは焼け野原になっちゃったんですから。絵を描く前に、やらなきゃいけないことがたくさんあるんだと思います」
「そうらな。まあ、生き残った人間にとってはほんの少しずついろんなことが上向うわむいていくんろうし、我々がそうしていかんばねえんだ。
 犠牲が出た分、生き残った俺達には、やらんばねえことが山ほどある。君は晴久君の分まで頑張らんばねえんだ」
 数日のうちに、街にはほぼすべての人が帰ってきた。港は引き続き機雷除去作業をしなければいけなかったし、当地に少なからず存在した米英の捕虜などへの不安もあった。しかしよりによって、こういう時に市民が頼りにする存在であるはずの曙部隊の連中が、宿舎として世話になった小学校の窓ガラスを、げらげら笑いながら一枚残さず叩き割った。市は有力者の力を借りつつ軍に抗議し、全額弁償させたという。
 そんな出来事など諸々の混乱が収まった頃には私の体調もどうにかこうにか回復し、秋の彼岸が過ぎた頃、とうとう新潟を去ることになった。
 青海君の実家の人々と真柄さん、それからキクイさんが、駅まで送ってくれた。駅までわざわざ来て「また来なさい」と言ってくれた彼らをはじめ、港でともに働いた人々、私の命をつないでくれた診療所の鶴巻先生。それからたぶん、新潟という土地そのもの。生きてきた中で一番辛い思いをした場所ではあるが、きっと嫌いになることはないだろう。彼らが言ってくれたようにまた来ればいいと思う、いつになるのかは分からないが。
 真柄さんは「すぐには描けないだろうけど、お前の名前を画家として聞くのを楽しみにしてるからな」と言ってくれた。たしかにすぐには描けないと思う、神田の店だってどうなるか知れたものではないしそれ以前に東京が今どうなっているのか、今後どうなっていくのかも見通せない。描けるようになる前に、きっとやらなければいけないことは山ほどあるだろう。
 私達はまず、戦争によって歪んでしまった、ねじ曲がってしまったいろんなものを、元に戻さなければいけない。人の命が元に戻ることはないが、むしろ見守ってくれている人のためにも、ぶつかってしまったいろんなものと仲直りして手を結べるようにならなければいけない。中には手放すべきもの、遠ざけておいたほうがいいものもあるだろう。志がどの辺にあるのかをよくよく見直してみなければいけない者もいるだろう、私も含めて。
 それでも時局画を手掛けた先達せんだつは、もう葛藤だらけの滅茶苦茶な絵を描く必要がなくなる。我慢を重ねた末にすっかり開き直って軍需工場へ行ってしまった飯村君は、もうすぐおしゃれな女の子の絵をいくらでも描けるようになるはずだ。小笠原君はこれまでの彼が描いたものとはまったく違うものを生み出して、また度肝を抜いてくれるかもしれない。平澤君は生きて帰ってきたらどうなるのか、東京へ帰った私はどうなるのか。
 とにかく仲間達には生きていてほしい、元気な彼らと再会したい。生きてさえいればそこから新しいものを生み出し、前に進むことができるのだから。
 私も、彼らとまた会えたら。嬉しい再会がもたらしてくれるであろう懐かしい空気を糧にして前に進んでいけばいい、やらなければいけないこと、やりたいことを形にしていけばいい。
 そうだ、なんでもやってやろう。すべてがとんでもなく大変なのは目に見えている、でも希望に満ちているのは間違いない。きっと、辛くはないはずだ。

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