例の応募作の原文(第3部のつもり⑥)

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 昭和18年秋。小塚に誘われて芸校を中退し、国策雑誌「国防」の挿絵を手がけて人気者になっていた小笠原君が「総合軍事美術展」に入選した。
 入学当初に細密描写で我々の度肝を抜いた愛すべき化け物たる彼だったが、いつの間にか油絵に転向したらしい。在学中に先輩の武村さんが「シュールレアリスムにでも挑戦して、ダリやマグリットのような作品を手掛けてみればいいのに」と評価していたのを思い出すまでもないが、中退後しばらく、彼はただ軍の息がかかった例の雑誌で健筆をふるっているだけだった。しかし油絵を始めて時局画展などに出品しているということは、彼はこの年にできた翼賛よくさん団体の会員にもなっているだろう。すっかり軍のお気に入りになっちゃったんだな、と胸のふさぐような思いがした。
 昔から美術団体はいくつもあったが、戦時色が強まるにつれて従軍画家や国粋主義者など、戦争に肯定的な考えを持つ画家がお上の指導を受けつつ翼賛団体を立ち上げ、やがてそこに集約されてまともな団体はほぼ姿を消した。翼賛団体の会員達は紙や絵具の提供を受けながら戦闘場面を切り取った大作などをどんどん描き、年に何回も開かれる時局画展に出品する。当時の美術界は、日本画・洋画を問わずこのたったひとつの分野で描かれる作品に埋めつくされていた。翼賛団体が幅を利かせるようになってから私は展覧会にも足を運ばなくなった、そんな絵に美しさも楽しさもあるわけがないのだから。
 私のようにいつまでもへそを曲げて「描かない」といっていれば絵描きとして兵糧ひょうろうめに遭った格好になり、時間と意欲を捨て続ける日々を送ることになる。物資不足の影響は当然こういうところにも及んでおり、絵具や紙の調達にも一苦労というありさまだったが、えてあっさりした言葉でいってしまえば「あるところにはある」。しかしそういう流れに乗っからないことは、私にとってある意味「矜持きょうじ」といってもよかった。
 実をいうと家で人物画は描いていた、とにかく平和な光景、健康的な思いをもって躍動する人間の姿だけを。しかし絵具や紙本もないから画帖に鉛筆描きするしかないし、そもそもどこかの展覧会に出品できる画題ではない(卒業制作の時のようにカモフラージュして人目に晒すつもりもなかった)。青海君が亡くなった時に実家から形見分けでいただいた画集などから目新しい構図のものを探したり、店で売れ残って買い上げたグラフ誌などから題材を選んで描き写したりしていた。
 卒業制作でああいう作品を描いていたことがばれて軍の連中が店を訪れ、「人物画が得意なら描いてくれ」なんて言い出したらどうしよう。そんな懸念が頭をよぎることもあった。従軍画家に仕立て上げられることはないだろうが、時局画の世界では例えば軍のお偉いさんと敵将との会見場面など、団体が調達したり新聞に載っていた写真を元に大作を仕上げ展覧会の目玉作品に据える、なんてことは日常茶飯事だった。そんなものでいいのなら、目をつぶったって描ける。でもそんなものを描いてたまるものか、どころか目にも入れたくない。
 出征前に平澤君があんな風に言ったが、私は私なりに青海君の思いを背負っているのだ、と密かに胸を張ることはできた。平澤君の出征後、私はあの気まずさを打ち消すためにも彼宛てに手紙を出し、青海君が「彩管報国」をどう考えていたのかを伝えた。青海君の思いを知っているのは、列車の中であの手紙を読ませてもらった私と、その受取人である陽子、さらに平澤君しかいない。彼のお父さんが例の天岩戸の絵を時局画展に出品してしまったのは(よかれと思ってのことだったのだろうが)なんとも残念、としかいえない。
 それまで避け続けていた時局画展だったが、旧友の絵が出品されているとなってようやく食指が動いた。小笠原君の作品だけ見てとっとと帰ってくればいいんだ、と決めて会場に行き、切符を買っているところでもうひとりの愛すべき化け物・飯村君とばったり会った。彼が展覧会場に足を運んだのも、まさに私と同じ理由だった。
「僕、こんど軍需工場に引っぱられることになっちゃって。もうすぐ自由が利かなくなるし、その前に見ておこうかな、って」
 そういう通告が来たら本職があろうがなんだろうがお構いなし、自身の希望もなにもなく軍需工場などに配属され、安い給料で働かされる。
「どんなところに行かされようが同じでしょ、『絵をやってました』って言えば国威発揚のポスターとか描かされるの。そんなもんでしょ」
「そうだな。『東洋少女』の件は残念だったな」
「ほんとに。こっちは『商売あがったり』ってなって、まさに路頭に迷ってた時に赤紙が来たんだけど、即日帰郷で舞い戻ってきて。虚弱でよかったけど、帰ってきたってなんにも変わりゃしない」
 飯村君は卒業後、武村さんの伝手つてで「少女モダン」に専属挿絵画家として採用され、憧れの塚野虹輝こうきにも目をかけてもらい若手の有望株として一目置かれるようになった。しかし彼が入った翌年、敵性語排斥はいせきの動きから雑誌名が「東洋少女」に改題させられ、数号出したと思ったら少女誌最大の発行部数を誇る「女学生通信」に統合され廃刊(当時は原料涸渇こかつなどのために同系統の雑誌がどんどん統合されてしまい、本屋の店頭もすっかり寂しくなっていた)。「東洋少女」で挿絵を手がけていた虹輝と武村さん、そして飯村君は、「女学生通信」でもしばらく挿絵を披露していたものの、代名詞の大きな瞳が時局にそぐわぬということで描く場所を奪われてしまった。
「それにしても、あっけらかんとしてるね」
「うん、なんだかもういいの。麻痺まひしちゃってるのかな。塚野先生や武村さんだって描かせてもらえなくなっちゃうんだもの、僕がこうなったって。
 ね、中に入りましょう」
 あまりにも気丈な飯村君と、かたくな過ぎる私との対比に気づいたら絵を見るどころではなくなってしまった。とぼとぼ歩いていると、飯村君が「ほら、あった」と教えてくれた。やはり小笠原君は翼賛団体に所属し、大き過ぎるほどの画布がふを与えられ配給制となっていた絵具を好きなだけ使って、この作品を描き上げたのだ。題名と画家の名前が書かれた小さな札を目にして、それを実感した。
 小笠原君が描いた「一閃いっせん」。敵機を追撃する飛行機が中央に大きく描かれ、背景には数機の爆撃機と青空。もうもうと立ちのぼる煙の間に飛行場らしいものが見える。鉄の塊のしつこいまでの描写、回転音が聞こえてきそうなプロペラの感じ、煙の質感。小笠原君はその画風の真骨頂しんこっちょうを、油絵で見事に昇華させていた。相かわらずの化け物ぶりだが、その分もやもやしてしまう。
「すごいね」
「あのさ。どういう気持ちで描いてるんだろう、『国防』の挿絵もそうだけど」
「彼はただ、機械を描くのが大好きなだけでしょう? 楽しいってこと以外、なんにも考えてないと思う。多分ね」
「じゃあ、時局画の急先鋒きゅうせんぽうがこの絵を絶賛したらしいけど、彼はどういう気持ちなんだろう。ここに立ち止まって褒めちぎったっていうじゃないか」
「すごいなあ、って思ったんじゃないの?」
「だからさ、そう思うことが……」
「あのぐらいの人になれば、時局画の中に新たな可能性とか描く楽しさ、見る楽しさを見出そうとしてる、っていうのもあるんじゃないかな。
 なんていえばいいのかな、時局画を描いてる本人も評価する人も、もちろん隆ちゃんみたいな葛藤があって、『自分は時局画というおかしなものに関わっている』って分かってるけど、でもどこかで『これは時局画じゃない』とか思って、『単に作品として向き合えば面白いじゃないか』みたいな。ごめんね、分かりづらくて」
「うん。すごく分かりづらいよ」
 こんな絵で新たな可能性、楽しさだなんて、ぞっとする。私は在学中、「描く者に絵を愛する心さえあれば何を志してもいい」と思っていた、しかしそれは時局画が世に台頭するとは毛ほども思っていなかったからだ。「軍の覚えもめでたい大物の気持ちなんて分からないよ。俺がその域まで達するなんて夢のまた夢だな」とひねた台詞を返すところだったが、私自身たった今、目の前にある「一閃」を見て「すごい、大したものだ」と思っていた。構図も筆致も、色づかいも素晴らしかった。
 彼の作品を前にほんの少しわくわくし「やられた」と打ちひしがれたのと同時に、さっきの飯村君の話が肚に落ちたことも自覚した。どこに片づけていいか分からないような感情を持て余していると、飯村君が話し始めた。
「僕、『東洋少女』でもさんざん軍国少女の絵なんか描かされてさ、本屋さんだから知ってるでしょ?『こんな格好させちゃってごめんね、もっと可愛いお洋服が着たいよね』って絵の中の子達に心の中で謝りながら何百枚も描いた、歯を食いしばって描いてたんだよ。
 腐ったかぼちゃみたいな色の軍服を着た子が飛行機の前でポーズとってたり、もんぺ穿いた子が鉢巻締めて、竹の棒を振り回したり。『僕はこういうのを描くためだけにこの世界に入ったんだなあ』って、しみじみ思って。そしたら、もうどうでもよくなっちゃった。それから改題だの統廃合でしょ、挙句にお払い箱だもん。
 でも僕は『女学生通信』から追い出されるまでは、絵を描く人でいられたんだから。こんどはきっと小笠原君が描くような絵だって描かされるの、でも僕は絵を描く人でいられるの」
「それでいいのか?」
「しょうがないでしょ。
 隆ちゃんは出品しないの? 展覧会とか。僕は挿絵画家だからこういうのは関係ないけど、君は日本画家として一人前になりたいんでしょう?」
「だからさ、作品となったら別なんだよ。俺は一番大事なところでこんな画題にのぞんだりはしない、そう決めてるんだ。
 俺だって学校からもらった仕事で飛行機も軍服も描いてるよ、胸やけがするほどだ。賃仕事ならいくらでも描けるよ、そこで我がままを言ったら学校に迷惑がかかるし。
 でも、作品としての時局画は描かない。君は描くものすべてが賃仕事じゃないか、その時点で俺とは目指すものが違うんだよ」
「ふーん。隆ちゃん、そんなこと言えるようになっちゃったんだ」
「ああ。ごめん」
「意地を張ってるうちに戦争が終わって素敵な作品が描けるようになる、なんて保証はないでしょ? いい加減に妥協したほうが楽になると思うよ。なにより描いてないと腕がなまっちゃうでしょ、それが一番怖いと思うんだけど」
「今すぐ答えを出せることじゃないよ」
「分かるけど」
 本音の本音を言ってしまえば、平澤君と喧嘩別れしてしまった時のようにまた不毛な争いが起きてしまうから、最後に言いたいことは口に出さずにおいた。それがなんなのかといえばただ一言、「こんな絵を描いてたまるか」だ。
 その代わり、(思い出したついでといっては彼に申し訳ないが)平澤君の話などでお茶を濁すことにした。「ところで、発ちゃんはどうしているだろうね」
 そう口に出してみたら、飯村君の頬にたちまち明るい色が戻ってきた。「発ちゃん、南方に行ったんだったね。向こうで玉井先生とばったり会ってたら笑っちゃうね、先生はフィリピンでしょう?」
「戦地で38期生の活気を再現してたりして、な。きっと、その時だけでも楽しく過ごせるだろうな」
「でもさ。発ちゃん、上官どのに刃向かったりしてないかな。向こうっ気が強いほうだったでしょ?」
「向こうっ気が強いのはたしかだけど、そこまで馬鹿じゃないよ。卒業式の日の玉井先生の訓話を思い出してみろよ、『真正面からぶつからず、持ち前の遊び心と機転をもって乗り切れ』って言ってたじゃないか。それを実践してるだろう。
 それ以前に、上官なんかよりも怖いものと向こうで戦ってるわけじゃないか。とにかく、無事に帰ってきてほしいな」
「そうね。発ちゃんならきっと大丈夫でしょ」
 だだっ広い展覧会場の片隅にほんの少しだけ懐かしい空気が流れて、「飯村君とは笑顔で別れられそうだ」と安心した次の瞬間、目に飛び込んできた絵があった。横幅が2メートル以上はあろうかという大作だ。作者は私自身大好きな、どころか人物画を描く時に大いに参考にさせてもらった日本画家だった。
「忠魂」という題だった。屈強くっきょうな兵士が胸の上で手を組んで横たわり、顔のあたりは白く、光を放つような感じでぼかされている。題名とこの構図を見れば、軍刀をつけたまま横たわるのっぺらぼう・・・・・・の男が遺体だと、例えば青海君と同じように戦地で命を散らした誰かなのだ、と分かる。背景は黒一色だったが、傍らに満開の桜の枝が1本、落ちていた。
 激しく揺り動かされた瞬間があった。「馬鹿野郎」という呟きと涙が、同時にあふれ出た。
「ねえ。発ちゃんの話をしてたのに、なんでこんな絵を見なきゃいけないのかな」
「さっきの話を混ぜっ返さなきゃいけないな。こういうことだよ、俺の葛藤っていうのは。
 人をこんな気持ちにさせる絵を、描きたいと思うか?」

 時局画の代表格として知られるようになった画家達も、十割十分戦争賛美の思想に染まっていたわけではないと思う。私淑ししゅくしていた画家による遺体の絵も、まったく逆の意味を作品に込めていた可能性がある、そうであってほしい。賛美の裏に秘めた追悼、鎮魂の意味合いも強く感じられる構図ではあった。それが救いだ、と思うことにしていた。
 人々は「なんとむごたらしい絵を描くのか、この画家はどういう神経をしているのか」とは言わない。「こんな絵を描かせる戦争は一刻も早く終わらせなければ」とも言えない。そう思っていたとしても腹の底にとどめておくしかなかった、むしろ軍の方針に一分の疑いも持たぬふりをし続けるしかない、「日本をこんなにひどい目に遭わせる鬼畜米英をなんとしても倒さなければいけない。さらに奮起しなければ、さらに耐えなければ」と。
 戦局の悪化に比例するように時局画の描写の陰惨さは増していき、とうとうそれが主流であり新たな目玉ともいえる存在になっていった。

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