例の応募作の原文(第3部のつもり①)

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 小生しょうせいは、大日本帝国陸軍歩兵第16連隊所属、塩谷辰美と申します。貴君の帝都芸術学校時代の学友である青海晴久君が所属した隊の小隊長を務めております。大畑君はじめ、卒業後は商家に婿入りした方など芸術学校の同級生の話、モデル嬢だったという婚約者、また新潟市外にも名の通った大きな神社で生まれ育ったことなどを聞かされておりました。
 青海君は幹部候補生のひとりに抜擢ばってきされ原隊を一時離脱し、仙台の陸軍教導学校で集合教育を受けた時期もありましたが、中国でも仙台でもとにかくよく描いておりました。「郷里に送ってやりたいから」とはがきの裏に描いてくれるよう頼めばふたつ返事で引き受け、特徴をよくとらえた絵をあっという間に仕上げてくれたものです。
 貴君も受け取っておったかと思いますが、この手紙にも3枚ほど同封いたしました。営舎周辺の風景や、営舎内で過ごす我々の様子を描いたものです。はがきの中にひとつの情景を生み出すさまは手先が器用でない小生にとってまさに神業かみわざという他なく、その姿を何度も見ているうちに学生時代の彼を想像する習慣ができました。好きなことに打ち込んできた彼の青春は、まさに充実したものだったでしょう。
 仙台にいる時、青海君が入営前に仕上げた作品を父上が権威ある展覧会に出品し見事入選した、との知らせが届きました。さぞかし嬉しいだろうと思いきや、浮かぬ顔とまではいわぬもののさほど喜んではおりませんでした。青海君は「あれは死ぬ準備をするために描いたようなものだ」と申しておりました。
「天岩戸は、神道ではすべての命の始まりを象徴するものとされている。仏教では地獄極楽というが、神主の子である自分は天岩戸から生まれ、死ねば天岩戸の向こうにかえって再生を待つことになる。出征前に描いたものが遺作になるならこの題材でのこすしかない、と前々から決めていた。
 死ぬことへの怖れは当然あるが、戻るべき場所に安らかな気持ちで戻れるよう後押しをしてもらうために、天岩戸を開けて天照大神を外界に引き出した天手力男あめのたぢからおという神を描き添えた。仕上げる直前に親友と婚約者が新潟に遊びに来たから作品を見せたが、主題を理解してもらえなかったようだ」とも言っておりました。小生が見てもその作品に込められた思いには気づいてやれなかったでしょうが、この話をした時の青海君のなんともいえない表情が未だに瞼の裏に焼きついています。
「入営2日前に徹夜で作品を仕上げた時はほっとした」と言うものですから、小生は「なぜ自分が死ぬと決めつけるのか」と怒ってみました。そうすると「なんとなく分かるのです」との答えが返ってきました。こちらは二の句も継げぬようになり、神主の子というのはこんなことを考えるものなのだろう、と自らを納得させるしかありませんでした。彼が死について考えていたのはそれだけ画業に邁進してきたからなのだ、と気づいたのは青海君が亡くなった後のことです。
 17年6月某日、青海君は最前線に立ち、盛んに射撃を行っておりました。敵の一弾が肩を貫通した後も立ち上がり銃を構える姿勢を見せましたが、更なる銃撃を受け絶命しました。いまわのきわまで銃を下ろすことのなかった彼は、まさに「壮烈なる最期」を遂げた、といえましょう。彼はその誠実さと責任感、そして勇気をもって、命尽きるまで戦っていたのであります。
 彼は画業に邁進した日々があったからこそ死について深く考えていた、と先ほど書きました。その日々をともに過ごし揃って素晴らしい成績をおさめた貴君ならば、青海君が思い描いた夢のいくつかを知っておいででしょう。どうか貴君は、彼の無念を晴らす人生を生きてください。出征する身でないのであれば、最前線に立ち命を散らした親友の志を受け継ぎ、ひとつでも多く形にしてやるための毎日を過ごしていただきたい。
 婚約者の方の連絡先も聞かされておりましたが、小生から手紙を出すことはいたしません。芸術学校で出会われたということですし、ともに新潟に出向いたのなら交流もあるでしょう。顔を合わせる機会がありましたらこの手紙を読ませてやってください。そして気落ちしているであろう彼女を励ましてやってください。
 小生が生きて新潟の土を踏む日が来たら、ぜひ貴君と新潟でお会いしたい。青海君の実家の神社が市外にも知られているのは、初夏の例大祭の時に並ぶ露店の規模が非常に大きいからでもあるのです。祭りの時に、賑わう境内や路地をそぞろ・・・歩きながら、互いが知らぬ青海君の思い出を語り合いたい。
 彼は「近郊の神社に頼まれて、奉納額を何枚も描いた。思えば、故郷に少なからぬ遺産を残すことができた」とも申しておりましたから、ふたりで神社巡りをして作品を鑑賞いたしましょう。青海君がつないでくれた縁を大事にするのも、また彼の供養になると考えております。

 この手紙が届いたのは9月はじめ、つまり青海君の3度目の月命日を迎えた頃だった。
 青海君の最期の地となったのは日中戦争の激戦地として知られたところだったが、手紙が着いた頃には彼が所属していた部隊はもう別の戦場に移っていたかと思う。私のほうは戦死広報がご実家に届いてすぐに知らせをもらい葬儀にも参列させてもらったが、その後は涙どころか感情がれたといえるような状態からしばらく抜け出せなかった。
 衝撃やら喪失感やらを心から切り離して、無感覚と例えてもいいほどの境地に達していた頃に、恐らくは年が近く青海君を弟分として可愛がっていたのであろう上官から、なんとも前向きというか力強い印象さえ与えるような手紙が届いた。

 私が青海君戦死の報に初めて触れたのは、太平洋戦争開戦から半年が過ぎ、出征しない身である私への風当たりが強くなってきたことを実感し始めた頃だった。
 蒸し暑くなったその日もいつものように帳場に入り、ちょくちょく暇つぶしに来る松永という老人の話を適当に受け流していた。彼がどんな話をするのかといえば私が出征しないことに対する嫌味だ、会計を待つ客もいるのに延々と。その次の客が老人の暴言に共感するような手合いなら、後ろで商品を抱えたままにやにや顔でいくらでも待つ。
 軍国主義賛美とそれに沿わぬ者をこき・・下ろすような放言を吐き散らすのが彼の趣味だから、体のことがあって出征をまぬがれている私のような者、それから未来の兵隊さんを生み育てていない女などは、彼にしてみれば格好の餌食えじきだった。本屋の店先にこんな人間がいるという気安さもあったのだろう、松永老人はしょっちゅうこの店を訪れては帳場に入る私の真正面に立ちはだかり、飽きもせずにごとを述べ続けた。私のほうは常日頃相手をしているうちに感覚が麻痺してしまったようで、怒りやら辟易やらを通り越してはいるものの、どこかで「こんな老いぼれの言うことを受け入れてたまるか」という意地もかすかに残っていた。それを自覚すれば腹も立ったが、あくまで客のひとりとして普通に接することができていた。
 この時も、そんな常連さんのお喋りに耐えるでもなく耐えていると、助け舟のように電話が鳴った。交換手の乾いた声、「新潟」の単語を聞いて、蒸し暑さのためにかいていた汗が俄かに冷たくなった。
 案の定だった。電話の主は青海君のお母さんで「自宅に戦死広報が届いた。遺品が届き次第葬儀をやるから、ぜひ出てほしい」という。お母さんの涙声につられて、こちらも震える声でまずはお悔やみの言葉を述べたが、それからどう言葉をつないでいけばいいのか、まるで見当もつかない。
 お母さんは「平澤君と、それから陽子さんにも出てほしいから連絡をとってくれないか」と言った。先方は忙しくなるだろうし、なにより我が子の死を方々に伝えるという行為はさぞかし辛いものだろう。私が芸校時代の友をはじめ東京の仲間に連絡を取る役割を引き受けてやれば、それはいくらかでも軽減されるはずだ。
 しかし、婚約者だった陽子にその事実を伝える場面をいくら想像しても、その情景はまるっきり頭に浮かんでこない。さらに、平澤君に伝えることが怖ろしいような気さえした。
「なんだ、わしの話の途中に電話に出やがって」松永老人は、周りのすべての存在を忘れてこういったことに思いを巡らせ始めた私の意識を一気に引き戻した。
「学生時代の仲間が戦死したんです。一番の親友で、卒業制作では首席をとったんです。故郷のお母さんが、電話をくれました」
 老人は猛然と(待ってましたとばかり、かもしれない)、あらんかぎりの暴言で故人をおとしめはじめた。
 絵の学校で一番になったとかいう軟弱な輩がひとり死んだところで、なんの痛手にもならぬ。まあ、お国に命を捧げることができる健康な身体に生まれたことが救いだったか、お前とは違って。しかし軟弱な仲間のことだからあの世からお前を迎えに来るかもしれんな、「お前ばかり生き残ってずるいぞ」というところか。
 次の客はついさっきまでの嘲笑ちょうしょうを引っこめて「まあまあ」と老人をなだめ、捨て台詞とともに店を出た彼を見送ってから会計を済ませて、私とは目も合わさずに「ご愁傷様しゅうしょうさま」とだけ呟いてそそくさと出て行った。
 店内には誰もいなくなった。とにかく体が重かった、帳場の床下から変な力に引っぱられて地下に吸い込まれていくさまを想像するほどだった。それも悪くないか、と思ってしまうほど打ちひしがれていたが、陽子と平澤君には早く伝えてやらなければいけない。この空気からのがれるためにも、直接彼らの元に出向いて伝えることにした。父にその用事を済ませてきたいと言って帳場に入ってもらい、私は店を出た。
 頭を冷やすために電車を1本か2本見送ろうかと思っていたが、その必要はないのかも、と思うほど落ち着いていた。まだはらに落ちていないからなのか、それとも遠くで起きていることだからなのか、ひょっとすると同世代の人間の戦死という事実にどこか慣れっこになっているからなのか。いや、あるいは。
 半ば無意識のうちに、予感していたのかもしれない。彼の出征直前にあの絵を見せられた時点で絵の意味も理解し、そうなることを察知していたのかもしれない。
 青海君の卒業制作の舞台にもなった細川洋品店に着いた。陽子はモデルの仕事もないとみえてカウンターに入り、古い女性誌のページを繰っていた。
「ハルが死んじゃったよ。新潟のお母さんが連絡をくれたよ」そう伝えた時、私の声はかすれていた。やはり普段の自分とは違うようだ、とその時に気づいた。
「そう」と陽子は言い、「分かってたのよ、なんとなく」と続けた。
「あの後、東京に帰ってきてからあの絵の意味をちょっと考えたの。私、すぐに分かったわ。その時、『そんなことになってもなんとか乗り越えられるかな』って思ったの。彼がそう思ってたんなら、こっちだってやっぱり『そんなもんか』って思うしかないでしょ。
 悲しいけど、あ、そうか、って。今はそんな感じよ。薄情ね」
 お互いひどく淡々としているが、これは冷静というわけではないんだな。きっとこういうのは放心状態というんだ。と言いたくなったが、口には出さずにおいた。陽子も同じ状態、どころか私などの何十倍も辛いのだから。そして、「息子の死を婚約者に伝える」という作業を新潟のお母さんに代わって務めてあげられてよかった、と思った。
 あとは、新潟のお母さんが葬儀に参列してほしいと言っている、日程等の連絡が入るだろうからそうしたらまた来る、とだけ伝え、すぐに銀座の店を出た。
 私が青海君の死を伝えてから、陽子のお母さんは傍らで嘆きっぱなしだった。しかしその声は隣の部屋とか、どこか距離のあるところから聞こえるような気がしていた。
 平澤君が住む深川に行くため、銀座の停留所に向かった。着いた頃はもう6時半を回っていたが、日が長い時期だからなかなか暮れてこない。仕事帰りの人波が改札に次々と吸い込まれるのを見ているうちに、ちょうど1年前にやはり平澤君に会うためにここで乗り換えたことを思い出した、その時はこんな悲しい用事を足すためではなかった。
 なんだ、発ちゃんのところに子どもが生まれたお祝いに行ったんじゃないか。ということは、喜久雄ちゃんはちょうど1歳の誕生日を迎えた頃だ。思い出した途端に、平澤君の家に行くのが嫌になってしまった。水飲み場で水をがぶ飲みしたついでに頭にも浴びせ、少し考えた。今日はこれで帰ろう、でも早いうちに、なんとか伝えなければいけない。直接会ってもはがきを出してもいい、伝えなければいけない事柄であるのは変わらない。
 彼はきっと親友の戦死の報に触れて、死をより身近に感じるようになる。私はそのきっかけを、若い夫婦、乾物屋修行も順調な亭主と子育てに奮闘する女房の元にもたらそうとしている。平澤君もいつかは出征してしまうのだから遅かれ早かれ意識することではあるのだが、彼の家庭に満ちる明るい空気をぶっ壊してまでこんな報告をしなければいけないのがどうにも悲しい。自分が死神になるような気さえする。
 つくづく嫌になる、と思った。やはり普段の精神状態とは違っていたようで歩いてきた道の記憶も曖昧になっているほどだったが、これだけははっきりと思った。
 つくづく嫌になる。胸の中でそう繰り返しながらきびすを返し、私は神田方面のホームへと歩き始めた。

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