怪異を訪ねる【遠野 早池峯神社】その一
季節は師走を迎えて寒さは増している。そうかと思えば、また気温が上がったりする日もあり、可笑しな気候で日々を過ごしている。
さて、今年の投稿を振り返る時季になってきたが、成り行きで書いてきたこれまでの記事では、ザシキワラシについての投稿が多くを占めた。ザシキワラシの存在そのものについての考察からはじまり、緑風荘と菅原別館での体験を基に記した記事など、記憶を辿りながらではあったが、我ながら皆さんの関心を少しは惹ける記事が書けたと思っている。
そこで、今回からは岩手県遠野市にある早池峯神社について記していく。今年の四月二十九日、私は早池峯神社を訪れた。毎年、この日に行われている「座敷わらし祈願祭」の取材と見学の為である。祭りについては以前から把握していたのだが、後述するように場所が山奥であることや日程の調整が難しかったことで、気持ちは前向きだったが二の足を踏んでいた。だが、今年は状況が整ったので、遂に現地で取材と見学をすることが出来た。
当日の様子を振り返る前に、まず今回は、早池峯神社の歴史や謂れ、ザシキワラシとの関係性など、概要を記す。
早池峯神社は、「はやちねじんじゃ」と読む。遠野市附馬牛町に位置しており、市の北部に聳える「早池峰山」を霊峰として祀っている。一九一七メートルもある山頂には奥宮があり、早池峰山への登山口は、東西南北の四ヵ所に存在する。実は、それぞれの地が里宮として機能しており、それ故に、同名の「早池峰神社」が四つ建立されている。北の登山口・宮古市門馬には元新山大権現、西の登山口・花巻市大迫町には元池上院妙泉寺、東の登山口・宮古市江繋には元新山堂、そして南の登山口・遠野市附馬牛町には元持福院妙泉寺であった当社があるというわけだ。
現在、東と北は社が残っているだけであり、登頂可能な整備された道が確保されているのが西と南だけとなっている。今回はその南側である遠野市の早池峯神社へ行った。ここまで書いてきてお気づきの方もいるかもしれないが、遠野の神社は「早池峯」と書き、「みね」の漢字が異なる。「峰」と「峯」で使い分けているようであるが、詳細は不明だ。単に旧字体かどうかの違いかもしれない。推測の域を出ないが、大きな括りでの信仰の対象である「山」という意味と、山中に存在する一神社という意味での区別ではないだろうか。
神社と地域の漢字表記が一致しない場所ですぐに思い浮かぶのは、茨城県鹿嶋市の鹿島神宮である。「嶋」と「島」の違いだが、私の祖父母の実家近くにもこの漢字表記の違いが見られる神社があるので、よくある例なのかもしれない。因みに、鹿島神宮の場合は表記の由来があり、市町村の合併の際に旧字体である「嶋」を採用せざるを得なかった背景がある。しかし、遠野以外の里宮三つの神社では「峯」の表記が確認できないために、猶更、当社に特別感を抱かざるを得ない。
歴史は諸説あるが、通説としてご紹介するものでは大同元年(八〇六年)に遡る。来内村(現・遠野市上郷町)の猟師・藤蔵が山中で十一面観音像に遭遇したことをきっかけに、山頂に奥宮を建立した。
花巻市の早池峰神社の由来では、藤蔵と同時に花巻側から藤原兵部卿成房が早池峰山に登り狩猟をしていたところ、額に金の星がある白鹿が二人の前に現れ、各々が鹿を追い、同時に早池峰山の山頂に辿り着いたとされている。姿を消した鹿は神様の導きだと感銘を受けた二人は、話し合いの結果、山頂にお宮を建立することにしたという。その後、一年後の八〇七年に花巻の方に早池峰神社が創建されたと伝わっている。
十一面観音と白鹿という差異があるが、話の大筋は共通しており、基になる奥宮の歴史は史実と言って良さそうだ。
その後、藤蔵は普賢坊と名を改め、現在の早池峯神社の場所に新山宮を建立した。斎衡年中(八五四~八五七)、慈覚大師が奥州巡歴の際に当地に宮寺を建立し、山頂の霊池に因んで妙泉寺と名づけ、新山宮は神宮とした。しかしながら、明治時代へ突入した折に、廃仏毀釈の影響で早池峰神社と改称したとされる。
また、早池峰山は古くから山岳信仰の対象である。農民だけでなく、海上からも目視できるため、漁師からの信仰も集めていたらしい。当山だけに限らず、日本には古来から、先祖や故人の魂は、死後、山に昇り、子孫を高所から見守る「山上他界」の価値観が認められるが、早池峰山も例外ではないようだ。
奈良時代には修験者の山伏が現れ、平安時代の中後期になると彼らが集まり、各登山口に「院防」と呼ばれる修行を行うために里宮を造った。
早池峰神社の御祭神は瀬織津姫之命(せおりつひめのみこと)である。水の女神様で、山から流れる渓流によって罪を大海原に運んでくれる神様とされている。それぞれの登り口にある社に瀬織津姫之命が鎮まっており、山を守っているが、明治までは女人禁制だった。
霊山や曰く付きの土地には伝説や伝承がつきものであるが、早池峰神社にもエピソードがある。ここで、伝わっている三姉妹伝説をご紹介しよう。
”昔、ある女神がいた。女神は三人の娘を連れて高原にやってきた。ある場所で眠りに就くことになったが、母である女神は「今夜、良い夢を見た娘に良い山を与えましょう」と三人に言った。寝静まった頃、天から霊華が降り、姉の胸の上に止まった。これに気づいた三女の妹がこっそりと華を奪い、自分の胸の上に乗せ、最も美しい早池峰の山を得た。姉たちは六角牛と石神とを与えられ、三人の女神はそれぞれ三つの山に今でも住んでいる。”
以上が伝説の概要である。言わば横取りで最も美しい山を得たのが妹であり、突っ込み所があるのだが、伝説とは善悪問わず「そういうもの」として伝わっているのだから、「神様が見ている前で・・・」というのは野暮である。
次に、先述した「座敷わらし祈願祭」について記す。祈願祭は毎年四月二十九日に開催されており、昭和六十三年にはじまった祭りであり、さほど古い祭りではない。趣旨としては、年に一度の祈願祭で、幸運をもたらすと言われる座敷わらしに見立てた人形を希望者に授けていて、神様から人形に新しい魂を込める神事を行うというものだ。つまり、過去に人形を戴いた参拝者は、魂を入れ替えるということになる。
祭りが開催されるようになったきっかけとしては、巷で噂になっている説があるのでご紹介しよう。昭和五十八年に新潟で事業を営むある男性が早池峰神社を参拝した。その帰路で、ザシキワラシが車に乗って一緒に付いて来てしまったと言う。その後、男性の事業は繁盛したことで、早池峯神社に多額の寄付をしたといわれており、契機として祭りがはじまったとされている。
私もこの人形が欲しくて早池峯神社に直接連絡を入れたことがあるが、残念ながら二〇二三年現在は製作者がおらず、受け付けていないとのことだ。以前は申し込んでから配布される順番が回ってくるまでに五~十年待ちと言われていた時期もあった。次回の記事で詳しく記すが、電話越しの宮司さん曰く「新しく創る人が決まれば生産を再開するかも」との口ぶりであったので、製作者が勇退されたか、何か退くきっかけがあったのかもしれない。また、希望者が多くて生産が間に合わないという側面もあるのではないだろうか。
ここ数年は、新型コロナウイルス感染症の影響を受けて、祭りの規模を縮小して参列者を地元民に限定していたそうだ。しかし、これまでに全国の希望者に三〇〇体以上の人形を授けたと言われている(二〇二一年時点)。
ちなみに、座敷わらし祈願祭のほかに、宵宮祭と例大祭が毎年七月十七日と十八日に開催されている。こちらは座敷わらしに纏わる祭事ではないが、ご興味のある方は行かれてみては如何だろうか。
さて、ここまで早池峰・早池峯神社についての歴史や謂れを現地取材の入り口としてご紹介してきた。次回の投稿からは、現地に赴く前の電話での宮司さんとのやりとり、そしていよいよ当日の様子をお伝えする。お楽しみに。(続く)
参考・引用元
現地取材、関係者への直接の質疑応答
「早池峰神社」は座敷わらしが有名なパワースポット!ご利益や御朱印は? | 旅行・お出かけの情報メディア (traveroom.jp)
早池峰神社には座敷わらしがいる?遠野の不思議なパワースポットを紹介 | TravelNote[トラベルノート] (travel-noted.jp)
浄化のエネルギー感じるパワースポット【早池峯神社】 | 全国パワースポット案内所 (powerspot-tour.net)
早池峰神社 (遠野) (genbu.net)
遠野テレビ 二〇二一年四月三十日放送より
http://www.tonotv.com/html/catv/daily/2021/04/30/1.html