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目の前にいる人に

こんにちは、toga.shiです。

なんだか、最近は、職場の世界が重く感じことが多いです。私をとりまくその他の世界が軽やかになって来た分、その重みが「なんで?」と感じることが多いのです。

理由は、世の中の流れも、職場の人々の考え方も
「正しいこと」を根拠に、そうではないものを受け入れる懐が狭くなっていることにあるように感じます。
明らかに仕事の手を抜いていたり、苦手な仕事から逃げたり、同僚への愚痴が止まらなかったり、自分の考えを優先して周りへの思いやりがなかったり… 以前は、あの人はこういう特性の人だから、と受け入れられ、スルーされていたことが、許されなくなってきているのでした。
職員として、給料もらってるのに、おかしいよね、この人達のフォローをしてる職員が疲弊するよね。利用者さんの支援をしたいのに、どうして面倒な職員の支援にエネルギーをつかわなくちゃいけないの?(私は障害者施設で生活支援員をしています)そんな風に怒りが湧いてくることが増え、以前よりも懐が狭くなっているのを感じるのでした。でも、それは確かに働く社会人として「正しい」意見であり、私が社会人に順応した証かもしれません。でも、何か虚しさを感じるのです。その「正しさ」の先にあるのは、できない人を非難し排除するクリーンな世界なのでしょうか。それって、福祉でしょうか。人間にとって幸せな世界でしょうか…。

先日、前の職場の施設長と久しぶりにお話する機会があり、そんな仕事の悩みを相談してみました。その施設長さんは果てしない懐の深さをもっていて、私にとって福祉の支援の仕事の、原型のような存在なのです。

で、施設長さんにそういう職員をどう思いますか?
ときいてみると
「ぼくはそういう職員さん、苦じゃないから」
と言われたのです。
そういえば…と思い出してみると、前の職場は本当に特殊でした。精神障害者の支援をする小さな職場だったけれど、職員として社会人としてうまく働けない人が何人も雇用されていて、ひとりひとりの困難さと、得意なことに応じて働き方が調整されていました。できない仕事のフォローは全部施設長と、できる職員さんが当たり前のようにしていて、そのことで、できない人を責めたり排除する動きなんか見たこともありませんでした。
それでも、うまく働けない職員さんはやっぱり働けなくて色々な理由で仕事を離れていったけれど…。職員としておかしい、という「正しさ」なんかギリギリのラインまで問題にされていなかったのでした。

それで気づいたのですが
施設長さんはじめ、フォローしていた職員さんにとっては、利用者とか職員とかそういう属性はとっぱらっていて、目の前の困っている人とどうやって一緒に生きていくか、という、同じ眼差しと同じエネルギーが向けられているのだと思ったのです。
目の前のこの人の、できないことをフォローして、できることをやってもらって、少しでも前を向いて生きていけるように、ただ助けていたんじゃないのか。それがやりたいことだから、苦だと感じずに、当たり前にやっていて、その気もちの延長上に、その仕事があり職場が成り立っていたのだと思ったのでした。

そんな眼差しがあれば、
「職員の支援よりも利用者さんの支援」
という「正しさ」はとたんに狭い考えのように感じられるのでした。
「目の前の困っている人を助けよう」
もちろん優先順位はあるし、限界もあるけれど、
凸凹の合わない人達と、どうやったら一緒に毎日を過ごせるか、考え、工夫し、調整する。
職員とか利用者とか属性なんか関係ない目線で、ただ目の前の人にそんな風に対応していくことは、確実に人間の懐を深くするし、人を助ける力、一緒に生きていく力を鍛えることにつながっている気がする。だから前の職場では、凸凹の人が生きやすくなるような特殊な支援が行われていたのだと思ったのでした。

そんな風に思うと、頭を悩ませる困った職員さん達は、私の視野をもっと広げさせてくれるご縁で出会ったかけがえのない人に見えてくる。
許せない存在は、本当はありがたい存在なのかもしれない。

そんな風に思えるだろうか〜。笑

すると、私の仕事は
障害者施設の利用者さんの支援
という狭い範囲だけの仕事ではないようだ。
本当はもっと広くて深くシンプルに
目の前の、困っている人の力になること
をコツコツとやることなのだろう。
凸凹な人達とどうやって一緒に生きていくか、を考えて行動することなのだろう。

そういう視点をもてば、今の世の中、職場の世界の重みが、少し軽くなるように思う。きっと…。
そんな気づきをくれた施設長さんに感謝します。

今日も読んでいただき、ありがとうございました😊✨


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