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115.第5章「映画とテレビでトップをめざせ!不良性感度と勧善懲悪」
第8節「洋画部の躍進」
1972年5月、東映新社長岡田茂は新規事業第1弾として洋画部を設立、洋画輸入配給事業に乗り出しました。
当初はサンドラ・ジュリアン主演作など洋ピンと呼ばれた洋物ピンク映画を中心に輸入しましたが大赤字となり、サスペンス映画シャルル・アズナブール主演『危険な来訪者』(1972年10月公開)などの一般映画の輸入も手掛けますが数字が上がらず苦労します。
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1.洋画部、一般映画配給にも進出
洋画部は、1974年4月、米仏伊の合作映画フランチェスコ・ロージー監督『コーザ・ノストラ』を配給、初めて有力な洋画館網の新宿ミラノ座チェーンにて公開しました。
この映画は、マフィア大ボスのラッキー・ルチアーノ事件の裁判をテーマにした実録映画でしたが、大ヒットした『ゴッド・ファーザー』(1972年7月公開)のようなギャング映画として売り出すことで配給収入(配収)1億3000万円とヒットします。
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7月、仏伊合作のドキュメンタリー映画で1956年カンヌ国際映画祭のパルム・ドールを受賞した『沈黙の世界』(世界的海洋学者ジャック=イヴ・クストー、ルイ・マル監督)を輸入公開しました。
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また、8月には洋画部で始めて日本映画、㈱JMPが製作した村山三男監督『樺太1945年夏 氷雪の門』を配給します。
この映画は当時のソ連から圧力を受け、配給を断念した東宝から要請された作品でした。
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9月には東和と競合していたブルース・リー監督・主演『ドラゴンへの道』の公開を発表します。
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ご参考 https://note.com/toei70th/n/nd56fe204eddf
『ドラゴンへの道』は1975年1月に新宿ミラノ座などにて公開され配収8億円となる大ヒットを記録しました。
この年6月の封切作品、ソ連映画ミハエル・オルショフ監督『レニングラード攻防戦』では、ソ連から映画輸出入公団の代表団と主演俳優、監督など一行を迎え歓迎パーティーを開催します。
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そして、8月にはジェラルド・ダミアーノ監督『ディープ・スロート』を丸の内東映パラス系にて公開しました。リンダ・ラヴレースとハリー・リームスが主演したポルノ洋画は、税関で問題個所を映画として成立しないほど大幅にカットされてしまったことにより、日本でリンダに似た人物を起用し向井寛監督にて再撮、再編集することで対応します。
奇抜な発想とともにキャッチフレーズが大きな話題を呼び、この洋物ポルノ映画は配収1億7000万円とポルノ映画としては大ヒットしました。
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前年度5億6千万だった洋画部の売り上げは、1975年、ポルノ映画と共に『ドラゴンへの道』など一般映画のヒットでおよそ18億円に増大しました。
1976年3月、事業の拡大を目指し、洋画部を洋画配給部に改称、部内に洋画宣伝室を新設します。また、他社系直営劇場の番組編成興行宣伝等を所管する洋画興行部も新たに設立しました。
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4月には、日本で人気の高いアラン・ドロン主演作ジョゼ・ジョバンニ監督『ル・ジタン』を丸の内ピカデリー系劇場で公開します。
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東和と競り合い高額で輸入したこの映画はまずまずの成績を残し、12月に公開するドロン主演ジョゼ・ジョバンニ監督『ブーメランのように』を買い付けました。
その他、怪奇、恐怖、残虐などを謳った際物映画を続けて公開します。
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『ドラゴンへの道』のような大ヒット作がなかった1976年度、洋画部の収入は半減します。
12月に丸の内ピカデリー系にて公開した『ブーメランのように』も振るわず、大きな赤字となりました。
東映はこの作品以後、アラン・ドロン自ら監督した1983年11月公開『危険なささやき』までドロンの主演映画を輸入配給することはありませんでした。
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2.西崎義展製作『宇宙戦艦ヤマト』大ヒット、アニメブーム興る
当時、洋画を上映する映画館は、東宝洋画:TYチェーンと松竹・東急レクリエーション(東レク):SYチェーンの二つに分かれており、それぞれの番組編成を行う興行会社はチェーンマスターと呼ばれていました。
1977年、営業部長兼洋画配給部長の鈴木常承は、東急レクリエーション興行部にて『宇宙戦艦ヤマト』製作者の西崎義展と出会います。
テレビアニメ『宇宙戦艦ヤマト』を再編集し劇場版を製作した西崎は、大手配給会社から断られており、東レクの紹介で鈴木に東京都以外の全国配給を依頼しました。
チェーンマスターである東レクからの依頼でもあり、配給する作品を探していた東映洋画配給部は、岡田の了解を得て東京都内の東レク4館以外の配給を担当することを承諾します。
元音楽制作プロデューサーだった西崎は、手塚治虫の虫プロ商事に入社、その後手塚個人とマネージャー契約を結び、経営が傾いた虫プロの企画制作部長として経営再建に取り組みました。
そして、手塚プロダクションにて朝日放送『ふしぎなメルモ』(1971/10/3~1972/3/26)を営業、手塚原作朝日放送『海のトリトン』(1972/4/1~9/30)で初アニメをプロデュースしました。
1972年にオフィス・アカデミーを設立した西崎は、アニメ制作会社瑞鷹エンタープライズに関係し、翌年フジテレビ『山ねずみロッキーチャック』(1973/1/7~12/30)などを手がけます。
1974年、オフィス・アカデミーで製作したテレビアニメ『宇宙戦艦ヤマト』(1974/10/6~1975/3/30)が読売テレビにて放映されました。テレビ放映時、視聴率が振るわなかったことから39話の予定が26話で終了となります。しかし、SFファンからの熱い注目を集めていたこの作品は、再放送などを通じて一般の若者の間にも人気がどんどん拡大していました。
1977年8月6日の初日を控え、日本映画では初めて公開前日から劇場前に徹夜の行列が並びます。アニメファンという若者たちの存在が世間に知れ渡った瞬間でした。ここから子供向け「まんが映画」は「アニメ」となりました。
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テレビ版を再編集した『宇宙戦艦ヤマト』は、配給収入で9億円も上がる大ヒットを記録します。
特典付き前売り券、セル画プレゼント、初日舞台あいさつなどの宣伝手法もこの映画から始まりました。
翌1978年8月、第2作オリジナル劇場アニメ『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』(舛田利雄・松本零士監督)が公開されます。
オフィス・アカデミー製作で東映動画が制作したこの作品は、配給収入21億円と前作の倍以上の成績を残しました。これは、この年の日本映画配給収入第2位となる記録となります。
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9月、西崎はアニメ制作スタジオ「アカデミー製作」を設立し、そこで読売テレビ『宇宙戦艦ヤマト2』(1978/10/14~1979/4/7)を制作しました。
3.松本零士原作SFアニメ人気、ブーム加速
1978年3月、西崎の『宇宙戦艦ヤマト』にも参加した漫画家松本零士原作で東映動画が制作した『宇宙海賊キャプテンハーロック』(1978/3/14~1979/2/13)の放映がテレビ朝日系で始まります。
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視聴率はゴールデンタイムとしては苦戦しましたが、熱心なファンの声に支えられ42話続きました。
放映中の7月、「東映まんがまつり」の中で劇場アニメ『宇宙海賊キャプテンハーロック アルカディア号の謎』が公開されます。
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『宇宙海賊キャプテンハーロック』は、国際部が輸出しフランスやイタリアなどヨーロッパで大ヒットします。
9月には、フジテレビ系にて松本零士原作『銀河鉄道999』(1978/9/14~ 1981/3/26)の放映が始まりました。
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©松本零士/零時社・東映アニメーション
『銀河鉄道999』は、1977年1月から少年画報社『少年キング』にて連載が始まり、第23回(1977年度)小学館漫画賞を受賞した人気マンガでした。
SLの懐かしさと宇宙へのSFロマンが融合したこのアニメは、1981年3月まで全113話 + テレビスペシャル3話の計116話も続き、大人気を集めます。
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©松本零士/零時社・東映アニメーション
1979年8月には東映動画初自主製作アニメ映画『銀河鉄道999』が東映洋画配給部配給にて公開され、目標配給収入予算10億円に対し16億5000万円と大ヒット。ゴダイゴの主題歌は人々を夢と希望にあふれる宇宙へと誘いました。
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©松本零士/零時社・東映アニメーション
『銀河鉄道999』は、『あゝ野麦峠』、『男はつらいよ』、『トラック野郎』の成績を上回り1979年度日本映画配収第1位に輝きます。
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また、映画パンフレットも100万部以上、グッズも飛ぶように売れ『宇宙戦艦ヤマト』とともに『銀河鉄道999』は、現在のアニメブームの先駆けとなりました。
4.アニメブームを作った『宇宙戦艦ヤマト』『銀河鉄道999』
1980年8月には、西崎の ウェスト・ケープ・コーポレーション製作、東映動画が制作した第3作『ヤマトよ永遠に』が公開されます。事前に様々なキャンペーンが行われ、前作には及びませんが、13億5000万円の配給収入を挙げました。
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10月からは再び読売テレビにて『宇宙戦艦ヤマトIII』(1980/10/11~1981/4/4)の放映が始まります。
『銀河鉄道999』は1981年3月に終了し、4月から新番組松本零士原作『新竹取物語 1000年女王』が登場しました。
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©松本零士・零時社/東映・フジテレビジョン
この作品は、フジサンケイグループと東映が連携し、新聞連載から始まり、ラジオ、そしてテレビ、映画とメディア展開をはかったものでフジテレビで放映されます。
この頃、放送終了後に再放送を重ねていた名古屋テレビ『機動戦士ガンダム』(1979/4/7~1980/1/26)の人気が、『宇宙戦艦ヤマト』(1974/10/6~1975/3/30)の時と同じように急上昇していました。強力なライバル作品の登場で日本のSFアニメは増々盛り上がって行きます。
8月、東映洋画系で『さよなら銀河鉄道999』が公開されました。
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©松本零士/零時社・東映アニメーション
前作には及びませんでしたが11億5000万円の配給収入は、この年日本映画8位に輝きます。
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翌1982年3月には松本原作 明比正行監督『1000年女王』が公開されました。
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©松本零士・零時社/東映・フジテレビジョン
この作品も配給収入10億1000万円と大ヒットします。
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ただ松竹で同日に公開された『機動戦士ガンダムIII めぐりあい宇宙編』は12億円の配給収入を上げ、アニメ対決は『ガンダムⅢ』に軍配が上がりました。
続く7月、東急エージェンシー創立20周年記念作として東映と共同で製作された勝間田具治監督『わが青春のアルカディア』が東急レックス系にて公開されます。
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残念ながら立ち上がりの勢いは続かず、この作品の配給収入は6億5000万円に終わりました。
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この作品の後、10月からTBS系にて映画の続篇『わが青春のアルカディア 無限軌道SSX』(1982/10/10/13~1983/3/30)が放映されます。
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このテレビアニメも視聴率が伸びず22話で終了となり、東映動画の松本零士原作『銀河鉄道999』関連シリーズはここで休止します。
1983年3月、ウェスト・ケープ・コーポレーションと東映動画製作の第4作『宇宙戦艦ヤマト 完結編』が公開され、配給収入10億1000万円と大ヒットしました。
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しかし、西崎義展がその他映画や事業で失敗を重ねたこともあり、『宇宙戦艦ヤマト』シリーズもこの第4作で休止しました。
ピンク映画輸入から始まった東映洋画配給部は、一般映画への転換をはかりブルース・リー主演映画のヒットを経て、若者向けSFアニメ映画を開拓し軌道に乗りました。
次回は日本映画界に旋風を巻き起こした角川春樹との仕事を紹介致します。
トップ写真:『銀河鉄道999』公開初日風景 〇内、左から岡田茂(東映社長)、松本零士(原作者)、りん・たろう(監督)